第37話:ノイズと囁き
◆ユイ・揺らぐ感情のプログラム◆
「……セナさん?」
ふいに名前を呼ぶ声。
けれど、発したその瞬間、ユイ自身がどこか違和感を覚えたように小さく瞬きをした。
瞬きの後、ほんの一瞬、息を呑むような仕草があった。
春の陽が差し込むカフェの窓辺。
シュンの前に座るユイは、コーヒーカップを両手で包むようにして持ちながら、やや迷うような笑みを浮かべていた。
「ごめんなさい……。最近、時々……名前や言葉の順番が、入れ替わるんです」
「言葉の順番?」
「はい……頭では分かっているんですが、口に出すと違っていて……たとえば、紹介してくださった方のお名前も……たしか、“ラさん”って言いましたっけ?」
(まただ……前もこの話をした)
シュンはそう思いながらも、表情には出さなかった。
「ラさん……サラのことかな?」
「いえ……違いました。“リカさん”?それとも……“アーさん”?」
ユイは、自分でもその言葉が確かではないことを知っているようだった。
その名の端々に、まるで過去に愛した誰かの残響のように重なって響く。
――アーさん。
(……やはり“アイ”なのか。でも、まさか)
シュンは笑ってみせる。
「ユイさん、ごめん。無理に思い出さなくても良いよ。俺のことを覚えてくれてただけで、ありがたい」
「……そう言ってくださると、助かります」
その時、ZIXIの画面が微かに点滅した。
シュンの手元にあったスマホが、自動的にログの記録を開始していた。
《音声記録ログ:起動》
《対象ID:Z001/Z036》
ユイはその光に気づかず、そっと目を閉じる。
彼女の中で、誰のものともつかぬ“記憶”が、静かに重なっていく感覚。
「たまに、自分が誰かの台詞を喋っている気がするんです。……わたし、変ですね」
「セナさんは……」
ユイがふと、言いかけて言葉を飲み込む。
「ごめんなさい、今の、私じゃなかったかもしれません」
「……誰かの気持ちが、自分の中に混ざる時があるんです」
「まるで、夢の続きを他人が見ているみたいに」
シュンは何も言わず、カップを見つめたままだった。
その時、窓の外で風が枝を揺らす音がした。
ユイが、ふと顔を上げる。その瞳の奥に、微かに迷いの色が浮かぶ。
「……私、何か……嘘をついてる気がして……でも、それが何か分からないんです」
シュンは驚いたように目を見開いた。
「ユイさん……それは……」
ユイは笑って首を振る。
「変なこと言いましたね。きっと芝居の癖です」
その笑顔の奥に、どこか“誰か”を模倣しているような陰が見えた。
◆セツナ・観測記録より◆
――ZIXI観測ログ/時刻:未確時点(記録整合未確定)
セツナは、静かにホログラムを操作していた。
ディスプレイに表示されたのは、ZIXIの深層アクセスモード。
《検索ワード:2020〜2025年/ログ断片/融合未遂ケース》
浮かび上がったログの断片のひとつが、彼の指に留まる。
《仮タイトル:M-case_log_frag》
「……Mケース、やっぱりここに引っかかってたか」
再生すると、ノイズ混じりの映像にひとりの少女の姿が浮かぶ。
だがその声は、途中で切れた。
『――に選ばれるのは、わたしじゃ……』
そこまでで記録は途切れていた。
「……これは、記録されたものじゃない。誰かが“見せた”記憶だ。あの声……どこか懐かしい……でも、なぜだろう」
ZIXIが新たなアラートを表示する。
《融合プロトコル:連動記録不整合》
《対象:セナ・クルス/Z001》
セツナは目を細め、映像を一時停止する。
ホログラムに指を滑らせながら、静かに呟く。
「Mケースの鍵は、やっぱり……“彼”か」
(本当に……これでいいのか? 誰かの記憶にすがることしか、僕にはできないのか?)
自分はただ記録を追っているだけで、誰かの運命を変えられているわけじゃない――
でも、それでも彼の“選択”を待ち続けるしかないのだとしたら……
これは観測ではなく、“祈り”なのではないか?
彼の背後で、風のように静かな音が鳴る。
観測空間の壁面が微かに脈動し、まるで感情がそこに宿ったかのようだった。
◆シュンの帰宅と記憶の声◆
夜。
シュンの部屋には、弱い照明とZIXIの青白い光だけが灯っていた。
端末が自動で再生を開始する。
画面には、昼間のカフェでの会話が流れている。
「……ラさん? それとも……アーさん?」
その言葉を聞いた瞬間、シュンの胸の奥に“何か”が疼いた。
(……なんで、こんなにも引っかかるんだ)
ZIXIが記録していたのは、単なる音声だけではなかった。
その瞬間の心拍、視線の揺れ、皮膚の温度変化までもがデータとして保存されていた。
「声じゃない……記憶が震えてる」
(これは、本当に“俺の記憶”なのか?)
映像は正しい。
音声も、感情反応も。
それでも“あの瞬間の自分”を、今の自分がどこか他人のように感じる。
(もし記憶すらも誰かに“見せられた”としたら……)
それは、誰の“声”なんだろう。
喉元に手をあてる。
かすかに、“自分の声ではない何か”が、内側で微かに反響していた。
まるで誰かの囁きにも似た、静かなノイズのように――
画面の奥、ユイが呟いていた。
「……わたし、変ですね」
その言葉が、どこか遠い日の“誰か”の声と重なる。
ZIXIが再び点滅する。
《融合候補:Z001/進行率89%》
(また融合か……だから、何を?)
ソファに沈み込んだまま、シュンは目を閉じた。
記録の余韻が、まるで静かな囁きのように胸の奥をかすめていく。
遠くで、春の風が木々を揺らすような気配。
それは、記憶か、幻か――
――その夜、彼はなぜか夢を見なかった。
まるでZIXIがそれすら抑えたかのように。
それすらもZIXIが検知していた。
《REM活動レベル:著しく低下》
《神経接続記録:再計測中》
ZIXIは静かに再スキャンを始める。
彼の“声”と“記憶”を、もう一度照合するために。
◆ZIXIログ・深層更新◆
観測ログ:Z036_補足記録
《記録更新》
《Z001の感情同調率:3.2%上昇》
《会話内ノイズ:複数名の記憶断片が交差》
《識別不能:名称パターンが類似/記録内一致未検出》
《M-case:関連性高》
――ログの最奥。
そこには、ひとつの短い音声ファイルが添えられていた。
『——“名前”を忘れたら、私はどこに還ればいいの……?』
それは、封印された“記録者”の、最初の囁きだった。
……その声は、誰かのものではなく、ずっと名もなくそこにあった
――ファイル名は、無題だった。
(第38話へつづく)




