第31話:声のない季節のはじまり
◆舞台が終わった日常◆
千穐楽から数日。
劇場の余韻もようやく落ち着きを見せた頃、シュンは静かに日常へと戻っていた。
劇場はすでに撤収を終えていた。
冷たい床と静寂だけが残された空間には、あの熱狂の残像が微かに漂っているようだった。
舞台袖の片隅にわずかに落ちたテープの切れ端すら、誰かの想い出の断片に見えた。
あの夜、打ち上げの乾杯の音が響く頃には、スタッフたちの手によって舞台装置も楽屋も片づけられていた。
「……終わったんだな」
そう呟きながら、シュンは閉じられたカーテンのあった場所を見つめた。
そこには、もう誰の手も触れることのない静けさだけが残っていた。
その手に、少しだけ熱が残っていた気がした。
指先の奥で、まだあの夜の鼓動が続いているようだった。
――声はまだ、戻っていない。
けれど、あの夜の舞台で何かが変わった。
「声にならない叫び」が、確かに誰かに届いていたような、そんな感覚があった。
思えば、声を失ってからというもの、演じることでしか心を伝えられなかった。
けれど、だからこそ届いた言葉もあるのかもしれない。
鏡の前で、自分の喉元をさりげなく確認する。
星の痕跡は、やはり見当たらなかった。
まるで、何もなかったかのように滑らかな肌がそこにあるだけだった。
けれど、その“何もない”という事実が、逆に胸の奥にぽっかりと穴を空ける。
(……あれは、誰かに渡されたのかもしれない)
まるで、何か大切なものが静かに役目を終え、そっと旅立っていったような――そんな余韻だけが残っていた。
そんな言葉が、ふと心の中を通り過ぎていった。
◆シュンの小さな日常◆
稽古場も劇場もない日々。
静かすぎる朝が、シュンにはどこか不自然に思えた。
ベランダに干した洗濯物が風に揺れている。
インスタントコーヒーの香りが部屋に立ちこめる中で、ふとした音にだけ、舞台の記憶が蘇ってくる。
――カツン、と靴音。
それは、舞台袖で誰かが立つ音に似ていた。
「……幻聴かよ」
自嘲気味に笑いながら、ソファに身を沈めた。
テーブルの上には、舞台の台本と、まだ捨てられないバラの花。
その横に置かれたTINEの通知ライトが、小さく光った。
◆TINEの通知◆
スマホが震える。
TINEに1件のメッセージが届いていた。
差出人:不明
本文:「あの舞台、観させてもらいました。とても、印象的でした」
それだけだった。
だが、どこか言葉の端に、熱のようなものを感じた。
(この文体……妙に落ち着いている)
返信しようとしたが、ユーザーはすでにアカウントを削除していた。
(誰だ……?)
数分後、再び通知が来た。同じような文章。
少しだけ表現が違っていたが、全体の構成や口調はほとんど変わらない。
――そしてまた、返信しようとしたその瞬間、アカウントは消えていた。
三度目も、同様だった。
まるで誰かが意図的に痕跡を残し、すぐに消しているような――
(これは……試されている?)
胸の奥に、じんわりと冷たい予感が差し込んできた。
四度目の通知が鳴ったとき、シュンはため息まじりにスマホを手に取った。
(またか……)
いつものように“差出人:不明”を予想しながら画面を覗き込んだ――
しかし、そこに新たな通知はなかった。
それ以降、TINEは静かなままだった。
◆ユイとの会話◆
舞台後、久々にユイからTINEで連絡が来た。
次のプロジェクトの話かと思いきや、「しばらくゆっくりしてください。私もそうするつもりです」とだけ、シンプルな文字が続いていた。
いつもの柔らかな口調の中に、どこか距離を保とうとする響きが混じっている気がした。
続けて、ユイからメッセージが届いた。
「そういえば……ちょっと変わったアンケートがあったんです」
「英語で書かれていて、“I watched with interest. Especially, I was impressed by Sena Kurusu's amazing acting ability in the way her vocalization sounded like a double voice.”って……」
「でも、なぜか下に日本語訳も添えてあって、“興味深く拝見しました。特に来栖セナさんの、二重に聞こえる発声の仕方には、驚異的な演技力を感じました。レイ・セツナより”って書かれてたんです」
その言葉を耳にした瞬間、シュンは一瞬、動きを止めた。
レイ・セツナどこかで聞いたような、けれどはっきりとは思い出せない。
名前の響きが、喉の奥に引っかかったまま、消えてくれない。
まるで、その名前が自分の過去に刻まれた“何か”を、呼び起こそうとしているかのように。
シュンは思わず顔を上げた。
「レイ・セツナ、っていう名前……なんだか妙に気になってしまって。苗字が“レイ”ってちょっと珍しくないですか?」
その名前を聞いた瞬間、シュンの心にざらりとした感覚が走った。
聞き覚えのない名前。
けれど、どこかで視線を交わしたような、そんな気がした。
ユイがスマホの写真を送ってくる。
後方席から写された公演当日のスナップ写真。
そこに写っていた青年は、黒いコートを着て、舞台をまっすぐに見つめていた。
(……こいつ)
あの目、あの姿に見覚えがある……気がする。
いつもこの目に監視されていたような……
――だが、思い出せない。
「名前の読み、珍しいよね。“セツナ”って」
「ええ。そう言えば、本人が“セツナって呼んでください”って言ってたみたいです」
その響きが、シュンの胸の奥で何かを揺らした。
“セツナ”――刹那、切な、節名……意味を持つその音が、妙に引っかかる。
なぜか、ただの名乗り以上の何かを込めているような気がした。
それが単なる偶然の名か、それとも彼の存在そのものを象徴する意図なのか、答えは見つからなかった。
けれど、どこかで「その名前は、かつて自分が何かを強く願った時に、心のどこかで呼んだことがあるような気がする」――そんな感覚が一瞬だけよぎる。
その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。
◆青年の独白◆
その夜。
オンライン配信で公開されていた舞台映像を、ひとりの青年が静かに見つめていた。
再生リストには、初日公演と千穐楽の両方が記録されている。
彼はヘッドホンを装着し、ノートパソコンの画面に目を凝らしていた。
画面の中のユイの演技。その一挙手一投足を、彼は微かに眉をひそめながら繰り返し確認する。
「……やっぱり、ここにいたんだ」
目は千穐楽のシュンに向けられている。
台詞を発したあの瞬間、画面越しでも“何か”が重なったように聴こえる。
「二重に……聞こえた。やっぱり」
初日の演技ではなかった現象。
それは、彼にとって偶然では済ませられない違和感だった。
「違う……」
声に出すと、思っていたより少しだけ震えていた。
彼の手元には、一冊のノート。
びっしりと何かが書き込まれている。
その一ページ目には、こう記されていた。
《目的:過去を修正することはできない。だが、未来は変えられる。》
視線を落とすと、次のページにはこう続いていた。
《観測:第7回公演にて“二重音”確認。千穐楽で顕著。》
《対象:声の重なり――遺伝的継承の可能性あり》
《備考:重なり方は音響現象ではなく、まるで“もうひとりの声”が重なるように聴こえた。響きに体温があった》
そのつぶやきが、画面の奥へと消えていった。
(第32話へつづく)




