第3話:来栖セナ誕生
◆1999年 春 大学入学◆
春の風が優しく吹き抜ける大学のキャンパス。
桜の花びらが舞う中、新入生たちが未来への希望を胸に歩いていた。
その中に、どこか影を落としたような青年の姿があった
──シュン。
高校の文化祭で声を失ってから、彼の中で音楽は過去のものになっていた。
それでも「何かを見つけなければ」という焦燥感に突き動かされ、大学へと進学した。
だが、騒がしいキャンパスの雰囲気に、どこか馴染めない。
そんなとき、演劇サークルの勧誘が目に入った。
「君、演劇やらない? 雰囲気あるし、いい声してそう」
声をかけてきたのは、ショートカットの女性──サラ。
快活な笑顔を向けるその目は、まっすぐで、どこか懐かしい空気を纏っていた。
「声は、あまり出ないんだ」
シュンがそう答えても、サラは首をかしげて笑った。
「いいじゃん。演技は声だけじゃない。無理に主役じゃなくてもいいし、裏方でも。興味、ない?」
──気づけば、その場で入部を決めていた。
◆1999年 初夏 カラオケボックスにて◆
数日後、演劇サークルの先輩たちとカラオケに行くことになった。
サラは楽しげに盛り上がる一方、シュンは部屋の隅で静かにドリンクを口にしていた。
「お前も来いよ! 音楽やってたんだろ?」
「……いや、俺はいいです」
“音楽やってた?”──その言葉が、サラの胸に引っかかる。
途中、サラがトイレに立ち、通路を歩いていると、ふと、ある個室から歌声が漏れ聞こえた。
──透明で、儚く、胸に沁みるような声。
覗き込むと、そこには誰もいない個室。
ひとり、シュンが立ち尽くしていた。
歌い終えた彼は、喉を押さえて苦しそうに肩で息をしていた。
(……なに、これ……なんでそんなに、痛そうに……)
サラは何も言わず、その場を離れた。
ただ、その瞬間から彼女の中でシュンという存在が、確実に何かを変えていった。
◆2000年 夏 舞台という居場所◆
大学2年になった頃、シュンとサラは自然と一緒にいる時間が増えていた。
サラは明るく、情熱的だった。
一方のシュンはどこか冷めたように見えたが、演劇に関しては努力を惜しまなかった。
そんなシュンに、サラはどこか惹かれていた。
演劇サークルでの活動が始まると、シュンは自分の新しい居場所を見つけていった。
舞台の上では、声以上に視線や仕草、呼吸のタイミングがものをいう。
サラは演出助手として稽古場を駆け回っていた。
「シュン、セリフ減らしても大丈夫。動きで伝わること、いっぱいあるから」
その言葉に支えられながら、シュンは表現することへの喜びを少しずつ取り戻していった。
ある日、公演後の打ち上げで、サラがふと聞いてきた。
「シュン、なんで演劇をやろうと思ったの? この前見ちゃったんだ、カラオケボックスで一人歌ってるところ。すごく綺麗な歌声だった。本当は、歌いたいんじゃないの?」
少し考えてから、シュンは答えた。
「え?……いや、歌はもういいんだ。だから、自分にできることを探してた。歌は……もう無理だから」
「そっか。でもさ、シュンの演技って、だから音楽みたいなんだよね」
「音楽みたい?」
「リズムがある。言葉がなくても伝わる何かがあるっていうか……。だからさ、私はシュンの演技、好きだよ」
その言葉に、心の奥が少しだけ温かくなった気がした。
◆2001年 春 始まりの予感◆
日々の稽古の中、ふたりの距離はさらに近づいていった。
サラと一緒にいると、心が少し軽くなった。でもそれは、どこか「逃げ場」のような感覚でもあった。
──これは「愛」なのか、それとも……。
「ねぇ、シュンって、恋人作らないの?」
「そういうの、あまり考えたことない」
「……私は、いいなって思ってるんだけどな」
「え?」
「シュンって、鈍感すぎる」
「こんな俺を好きになる人、いないと思ってたから」
「……私は好きだよ。ずっと」
まっすぐに向けられたその気持ちを、シュンは拒むことができなかった。
「……じゃあ、よろしく」
ぎこちなく、でも確かに、ふたりは恋人になった。
この年、サークルの舞台でシュンが演じた役の名が「来栖セナ」だった。
演じながらその名前が、自分とは別の誰かのように思えた。
その公演の後、シュンは「来栖セナ」を芸名にした。
そしてその“仮面”をまとっているときだけ、自分は少しだけ自由でいられた。
ある夜、シュンは夢を見た。
──静かな闇の中、遠くから誰かの声が聞こえる。
“シュン……”
その声には、どこか既視感があった。
優しく、懐かしく、でも誰の声かは思い出せない。
目覚めた時、胸の奥がひどく痛んだ。
(俺……なにか、大事なものを忘れてる……?)
◆2003年 春 卒業公演と別れの序章◆
大学最後の舞台『ロミオとジュリエット』。
シュンこと「来栖セナ」はロミオ役を、全身全霊で演じきった。
観客の拍手が鳴りやまない中、舞台袖でサラは泣いていた。
「どうして……そんなに“痛み”ばかり演じるの?」
「……俺には、“愛”がわからないから」
「違う。あなたは、忘れられないだけ」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
だが、何も言い返せなかった。
◆2004年 すれ違いと別れ◆
卒業後、サラは演出家の道へ。
シュンは音楽の裏方として、業界に関わるようになった。
次第にふたりの距離は、言葉では埋められないほど広がっていく。
ある日の夕方、久しぶりに会ったふたり。
ファミレスの窓際。
サラはコーヒーカップを両手で包み込むようにして、じっと俯いていた。
「……久しぶりに会ったけど、目が合わなくなったね」
サラの声は、いつものように明るくなかった。
「そんなこと……ないよ」
そう言いながらも、シュンは目を逸らしていた。
「シュンの心が、どこか遠くにあるの、わかるよ」
しばらく沈黙が続いた後、サラは静かに言った。
「もう、おしまいにしようか」
「……え?」
「あなたの目には、もう私じゃない誰かが映ってる。もしかしたら、自分自身すら見えなくなってるのかもしれないけど……」
「そんなつもりじゃ……」
「わかってる。責めてるんじゃない。ただ、私はあなたの"仮面の奥"にある本当の想いに、届けなかっただけなんだと思う」
少し笑って、サラは立ち上がった。
「でも……それでも私は、出会えてよかったよ。ありがとう、シュン」
その背中は、静かに夕日に溶けていった。
──サラを失っても、涙は出なかった。
ただひとつ、胸の奥がぽっかりと空いたままだった。
◆2005〜2006年 裏方という居場所◆
「来栖セナ」を封印し、舞台から姿を消したシュン。
だが、音楽への情熱はまだ彼の中で燻り続けていた。
心のどこかで、もう一度誰かに音を届けたいという想いがくすぶっていたのだ。
しかし、あの喉の痛みを思い出すたび、ステージに立つことの恐怖が蘇る。
そんな彼が選んだのは、音楽を“支える”という道だった。
地元のライブハウスで音響の手伝いを始め、やがて新人アーティストのデモ音源制作に関わるようになる。
自ら表舞台には立たず、裏方として、誰かの“声”や“物語”を支える。
その仕事の中に、かつての自分の夢の影を重ねながら、シュンは静かに歩き始めていた。
誰かの夢が輝く瞬間を、見届けることで、自分の中の灯を守りたかったのかもしれない。
◆2007年 春 深夜の部屋◆
時は流れ、夜の部屋。
シュンは一人、ギターを弄っていた。
誰に聴かせるでもなく、ただ指が覚えている旋律をなぞる。
そのとき——携帯の通知音が鳴った。
【ZIXI】──SNSからの新着メッセージ。
差出人の名前は、たった2文字だけだった。
【アイ】
シュンは画面をじっと見つめた。
どこかで、遠く呼ばれるような感覚が胸をかすめた。
(この名前……どこかで──)
けれど、彼の記憶の中には、まだその答えは眠っていた。
それが、18年越しの運命を動かす、一通目のメッセージになることを──
このときのシュンは、まだ知らなかった。
(第4話へつづく)