第17話:演じるということ
◆稽古が始まる朝◆
朝の光が差し込むリハーサルルーム。
鏡の前に立つシュンは、深く静かな呼吸を繰り返していた。
声はまだ戻っていない。
だが、舞台に立ちたいという気持ちは、日に日に強まっていた。
喉の奥に絡まる何かを振りほどくように、彼は無言の気合いをこめて両手を握る。
「来栖さん、今日もよろしくお願いします」
ユイの声が背後から届いた。
いつものように、まっすぐな視線と共に。
彼女のまばたきは少なく、それでいてまるで心の奥まで見透かしてくるような目をしていた。
シュンは軽く頷いて応えた。
口元は動くが、音にはならない。
だがユイは構わず、優しく微笑んだ。
「……芝居って、心の奥を見せ合うものですよね。私はそれを“感じる”のが得意なんです」
どこかで聞いたような言葉だった。
記憶の奥に沈んでいた“誰か”の声が、心の表層に浮かび上がる。
◆ユイとの“台本外”の芝居◆
稽古が始まり、静寂と集中の空気が満ちる。
あるシーンで、ユイが台本にない動きを加えた。
シュンに向かって一歩近づき、ふいにそっと手を取ったのだ。
観客がいれば息を飲むような瞬間。
だが、稽古場にもその空気が走った。
シュンは驚いたが、その手を払いのけることも、拒むこともできなかった。
むしろ、そのまま台本にない動作で彼女の手を包み込んでいた。
「……すごい。いまの、続けてやってみて」
演出家の言葉に、空気がやや緩んだ。
稽古場の隅で、共演者のひとりが「鳥肌立った」と呟く。
セリフのない即興芝居。
だが確かに、何かが通じ合っていた。
稽古が終わると、ユイは軽く息をつきながら言った。
「言葉って、便利ですけど、時々邪魔ですよね。心を、ちゃんと見ないようにしてしまう」
そう言って、彼女はまばたきもせずにシュンを見つめてきた。
シュンは視線をそらせないまま、内心のざわめきと向き合っていた。
◆稽古後のやりとり(TINE)◆
その夜。静かな部屋に、TINEの通知音が鳴った。
【ユイ】
《今日はありがとうございました。来栖さんの芝居、本当に素敵でした。》
しばらくスマホを見つめたまま、シュンは何も書けずにいた。
返事を書こうとすれば、胸の奥がざわつく。
——声を出すのが怖いのと同じで、言葉を返すのも怖いのかもしれない。
やがて、ゆっくりと文字を打ち始めた。
【シュン】
《ありがとう。君の感性には驚かされるよ。》
送信。
数分後、すぐに返信が届いた。
【ユイ】
《…感性、ですか?面白い言い方ですね。》
“面白い言い方”——その語感に、ふと違和感を覚える。
あたかも辞書から取り出したような、人工的な言葉の選び方。
その違和感はやがて、胸の奥に微かな緊張として残った。
◆モノマネされた声◆
翌日。
稽古の最中、演出家がぽつりと漏らした。
「このラストの場面、どうしても“彼の声”が必要なんだよな。言葉じゃなくても、せめて歌声だけでも……」
沈黙が流れる。
演出家は続けた。
「録音でもいいから、代役で男性ボイスが入れば成立する。誰か試しにやってみてくれないか?」
共演者たちが数人、スマホに録音してみるが、どれも今ひとつ決め手に欠ける。
そのとき、ユイが静かに手を挙げた。
「……やってみてもいいですか?」
軽く場の空気がざわつく。
「え?無理でしょ?ユイちゃんの声じゃあ」
「歌はうまそうだけど、セナさん、渋そうな声してそうだし……」
「シーっ」
「(小声)…セナさん、気にしているかもしれないでしょ?」
シュンは「気にしないで」というように手を振った
ユイがスマホを受け取って、一呼吸置いたあと、歌い始めた。
——それは、あまりにもリアルで、あまりにも美しい、男性の歌声だった。
「え、ユイちゃんすご!男性ボーカルもいけるの!?」
「マジでCDレベルなんだけど……」
「ビジュアル系ロックバンドのボーカルみたい!」
周囲がどよめく中、シュンだけが、凍りついたように動けなかった。
(この声…………あのブレスの入り方、音程の癖、間の取り方——間違いない、俺だ。2007年、ZIXIにアップした——俺の声だ)
その声は、18年前の記憶を鮮明に呼び起こした。
——なぜ、知ってる?
◆ユイの言い訳、シュンの動揺◆
「……たまたま、昔ZIXIで聴いた音源があって。 名前は覚えてないけど、すごく印象的で、耳に残ってて……」
ユイは微笑みながら、さらりと言った。
まばたきひとつせずに、まるでシュンの心を読んだようなタイミングで。
(そんなはずはない……あの音源は“非公開”だった。……いや、まさか……18年前の……)
“もしかして、自分がうっかり公開にしていたのか?” そんな不安が、頭をよぎる。
「その後、何回か聴いたあと、最近また聴こうとしてみたら、非公開設定になっていて……。凄く良い歌声だったんで残念です。」
なぜか、ユイはシュンを見ながらそう言った。
(そうか……何かの拍子に公開にしていたのか……)
ユイの言葉が、微かな疑念をかき消していく。
だが、胸の奥には小さな棘のような違和感が残った。
◆シュン、ZIXIの通知を見る◆
夜。
録音機材の電源を入れたシュンは、久々にZIXIのログを開いた。
アーカイブには、いくつもの音声ファイルが並んでいた。
だがその中に、ひとつだけ「更新」と表示された新しいログがあった。
2025年5月2日——今日の日付。
再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの音声が再生された。
『……シュン……聞こえてる? 私……また……』
声は、アイに似ていた。
けれど、どこかが違う。
音質ではない。
言葉の“運び方”、呼吸の“間”、そして——感情の質。
それは、まるで誰かが“アイの声”を模倣しようとしているかのようだった。
◆『また、会えるよ』の声◆
録音の最後に、明確な声が聞こえた。
『——また、会えるよ』
その声は微かに加工されたような、無機質な響きを帯びていた。
ZIXIの画面が一瞬白くなり、続いて黒背景に白い文字が浮かび上がる。
《再同期中……STN》
(……STN? またこのアルファベットか……イニシャル?それとも……)
シュンは思わずスマホを持つ手に力を込めた。
ZIXIの画面には、それ以上の情報は表示されなかった。
(誰かが、俺の記憶を操作しているのか……?)
だが彼の中には、確かに“何かが接続された”という感覚が残っていた。
まるで——未来が、過去の記憶と、今の自分を結び直したかのような。
その夜、シュンは一度も眠れなかった。
(第18話へつづく)




