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18年愛  作者: 俊凛美流人《とし・りびると》
第2章:記憶の錯綜編
16/54

第16話:声のない世界で


【再掲:第1章・最終行】


まるで、どこかでこの名を呼んだことがある気がして。


——未来が、過去を呼んでいる。


……そして第2章の新たな幕が、静かに開く……


春の終わり、東京駅。

ざわめく構内の奥で、すべてが一瞬、止まって見えた。


——シュンの心に、何かが触れたようだった。


——アイ。


名前を呼ぶことすら、できなかった。

声は、すでに喉の奥から、どこか遠くへ消えていた。


◆2025年4月末 再び失った声◆


 東京駅で“アイ”らしき姿を見たあの日から、数日が経った。

春の終わりの東京は、どこか取り残されたような静けさを纏っていた。

桜はほとんど散り、街路樹には若葉が芽吹き始めていた。

それでも肌に触れる空気はまだ冷たく、まるで季節の移ろいが迷っているかのようだった。


——そして、自分の声も、また行き先を見失っていた。


診察室の白い壁に囲まれ、シュンは無言のまま医師の言葉を聞いていた。


「一過性のストレス性失声症です。器質的な問題ではありません。ですが——」


医師はカルテに視線を落としたまま、淡々と続けた。


「過去にも同様の症状があったなら、心理的な“記憶”が反応しているのかもしれませんね。時間と向き合い方次第で、回復するはずです」


何かを刺すようでも、慰めるようでもない。

それはただ“診断”という現実を告げる声だった。

シュンは小さくうなずいた。

しかし、その頷きすら、自分の身体ではないような感覚があった。


…公園のベンチで、シュンは思いを巡らせていた。


——あの日、高校の文化祭のライブの時、直前までは声が出ていた。


でも歌おうとした瞬間に、急に出なくなった。

俺は声帯が悲鳴を上げて出なくなったと感じていた。

でも、ユリカは言っていた。


「シュンは、歌えなくなったんじゃない。自分の『未来』を怖がってるだけ」


——この頃から、俺は未来を怖がり、自分に必要以上のプレッシャーを与えていたのか。


ただ声帯がダメになっただけだと、思い込んでいた。

そして2007年。

ちょうど“アイ”と出会ったあの春。


——俺は、また声を出せなくなった。


当時も、原因はわからなかった。

喉に異常はなく、声帯も正常。

だが、いくら発声しようとしても、音はかすりさえしなかった。

まるで、心の中に張られた薄い膜が、声を飲み込んでいくように。

訴えたい想いだけが残り、音にならない叫びが虚空に消えていった。

そして今回も、まったく同じだった。


ZIXIの謎の通知。


たしかに触れたはずのネックレス、そしてあの日、耳をかすめた幻のような声——。

“再会”したあの瞬間から、声が喉の奥で凍りついていた。


——心が拒否しているのか……なんでだよ…それに今回は歌だけじゃなく、言葉も出てこない。


——考えだけが頭を巡っている。


シュンは言葉を発せなくなり、逆に頭の中の声がボリュームを増していった。


——うるさい、静かにしてくれ!


シュンはもがきながら苦しんでいた。声にならない声を発しながら。


◆声なき日々と、舞い込んだ誘い◆


 シュンはすべての仕事を断っていた。

CMもナレーションも、舞台も。

TINEの通知は、未読の赤いバッジで埋もれていた。

その中に、見慣れた名前があった。


【サラ】


《また消えるんじゃないかって思ってさ、シュン》

《声が出ないって聞いた。……戻ってきて。居場所、まだあるから》


シュンは画面を開きかけたが、指は止まったままだった。

言葉を返すには、自分の中の“何か”が欠けすぎていた。

返信せずに画面を閉じる。

その静寂が、彼の“今”を象徴していた。


部屋の隅には録音機材が置かれたまま、薄く埃を被っていた。

ZIXIに保存されていた音声ファイルのいくつかは、再生不能になっていた。


『ねえ、シュン……』


どこからか流れ出した声。

聞き覚えのある、けれど、もう現実かどうかさえ曖昧な音。

それは、“誰かの声”だった。

シュンはその場にしゃがみこみ、天井を見上げた。


——俺は、いま誰と生きてるんだ?


そのとき、ポストに投函された一通の封筒が届いた。

差出人は、大学の劇団時代の仲間。

開くと、手書きの手紙と、数枚の台本が入っていた。


『演じなくなっても、あなたの芝居を忘れていません。言葉がなくても、あなたの“存在”が必要なんです』


その一文に、心が震えた。


——声がなくても、舞台に立てるのか?


——想いを伝える手段は、本当に“声”だけだったのか?


問いの先に、少しだけ光が射した気がした。


◆稽古場の再始動◆


 都内の古びた稽古場。

鏡張りの稽古室には、木材の匂いと長年の汗の残り香が混ざっていた。

足を踏み入れた瞬間、時が巻き戻るような感覚に襲われる。


——そうだ、あの時も。


声を失ったまま、それでも演じようとしていた。


「来栖セナさん……ですよね?」


背後からかけられた声に、シュンは振り返った。

そこに立っていたのは、20代半ばくらいの女性。

栗色のショートヘアに、シャープな輪郭。

だが、最も印象的だったのはその瞳だった。


——まばたきが、少ない。


目をそらすことなく、まっすぐこちらを見てくる。

その視線は、どこか冷たくもなく、むしろ温度のない“中立”のような光を帯びていた。


「橘ユイです。今回、共演させていただくことになって……よろしくお願いします」


軽く頭を下げる彼女に対し、シュンは口元を動かした。


——が、声は出なかった。


ユイは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。


「……大丈夫ですよ。私、芝居で“心”を読むの、得意なんで」


——心を読む?


シュンは、まばたきも忘れて彼女を見返していた。

その口調も、どこか聞き覚えがあるようで……。


(……誰かに、似てる)


◆胸の奥のざわつき◆


 「言葉じゃなくて、想いが伝わるって信じてるんです」


稽古中の休憩時間、ユイはさらりとそう言った。

それは、あまりにアイに似た言葉だった。

稽古の中で、シュンは身振りと表情だけで台本のシーンを演じてみせた。

演出家も、共演者たちも最初は戸惑いを見せていたが、次第にその“沈黙の芝居”に惹き込まれていく。


そしてユイは——


台本のセリフを読みながら、まるでシュンの“気配”に合わせるかのように、絶妙な距離感で芝居を重ねてきた。

タイミング、感情、目線のズレ——

まるで、台本の外にある“何か”を感じ取っているようだった。


「ユイさん、すごいですね。なんであんなに息が合うの?」

「え? たぶん……観察してるから、ですかね」


彼女は、そう言って笑った。

けれど、その笑顔もまた——まばたきが、ない。


(……不思議な子だ)


その日の稽古終わり、シュンはふとユイの首元に目をやった。

小さな、ブラウンのペンダントトップ。

四角いフォルム。どこか懐かしい光沢。


(……あれと、同じ?)


あのネックレスは、たしかにあの日、手に触れたはずだった。

けれど気づいたときには、もう消えていた。

まるで、“再会”の瞬間と引き換えに、どこかへ還っていったように——。

「飲み会?……すみません、私ちょっと、夜はバッテリー……あ、いや、体力的に厳しくて」


ユイが、ふと漏らしたその一言も、どこか引っかかっていた。


「……シュ、いえ、来栖さん、喉、少しだけ震えてますね」


ユイがぽつりと呟いた。

まるで、彼の体の変化を“視覚”ではなく“感覚”で察知していたかのように。


——彼女は、いったい何者なんだ?


稽古が終わったあと、シュンはひとり鏡の前に立っていた。

反射する自分の姿を、まるで他人のように見つめる。


——ユイ。


あの目。

あの空気。

どこか、記憶の中に重なる声と、仕草がある。

言葉の奥に、まるで“誰かの断片”が混ざっているような感覚。

ふいに、遠い日のユリカの言葉が胸をかすめた。


「未来を怖がるとき、人は声より先に“心”が閉じるの」


あのときは分からなかった。

けれど今は、その言葉が、深い場所でうなずいている。

目を閉じると、ユイの姿が浮かぶ。

声なきままに交わされた芝居の呼吸、微かな頷き、そして——首元のあのペンダント。

“それは、記憶が姿を変えてここにいる”とでも言うように。

ふと、ZIXIの通知がスマホに浮かび上がる。


——再び鏡を見る。


そのときだった。

スマホがかすかに振動し、ZIXIから空白の通知が届いた。

同時に、喉の奥が微かに震えた。


(……ZIXIが何かを、同期させた?)


想いが、声に近づいた気がした——。

その“何もないこと”が、シュンの胸を冷たく叩いた。


——あれは幻か? 


それとも……

再び鏡を見る。

そこにはたしかに、演じようとしている自分がいた。

声は出なくても、想いは残っている。

そう信じた瞬間、ほんのわずかに——喉の奥が、震えた気がした。


(第17話へつづく)


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