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18年愛  作者: 俊凛美流人《とし・りびると》
第1章:記憶の狭間編
11/54

第11話:2013年 静かに壊れていく日々


◆極秘夫婦の生活◆


 2013年初春。

結婚から数ヶ月が経ち、ふたりは誰にも知られぬまま同じ屋根の下で暮らしていた。

寝室はひとつ、冷蔵庫はふたり分の食料で満たされ、スケジュール帳には共通の予定もある。

けれど、朝のキッチンで交わす会話は、ごく当たり障りのないものになっていた。


「今日、収録は何時まで?」

「夕方には終わると思う。打ち合わせが伸びなければ。」

「そっか。じゃあ、夕飯……作っておくね。」

「ありがとう。」


それだけの会話。

そして、ふたりは別々の扉を開け、それぞれの現場へと向かう。

違和感はない。

けれど、ぬるま湯のような日常の中で、心だけが少しずつ凍えていくのを、どちらも気づかないふりをしていた。

シュンは夜遅く帰宅し、寝室のドアが静かに閉じられているのを見るたび、何かを失っている気がしていた。

ミライもまた、彼のコートの袖口に残る音楽機材の匂いに、懐かしさと寂しさを感じていた。


◆ふたりの音楽がすれ違う◆


「……次のアルバム、別のプロデューサーに頼んでもいいかな?」


ある日、ミライがぽつりと口にした。 スタジオの空気がわずかに揺れた。


「……いいと思う。君が歌いたい音楽を優先して。」


シュンはそう答えたが、心のどこかで何かが崩れる音がした。

ミライの言葉には悪意などなく、むしろ彼への配慮すら感じた。

けれど、ふたりが創り上げた“音楽”が、別の誰かの手で仕上げられるという現実は、否応なく距離を感じさせた。

最近では、同じ現場にいても、目が合うことが少なくなっていた。

彼女の歌声は相変わらず美しく、むしろ以前よりも自由で、輝いてさえいた。

ミライは、望月来人(モチヅキライト)の呪縛を完全に吹っ切ったのだ。

シュンは、自分がその呪縛を解放し、ミライの才能を引き出した事を頭では理解していても、自身が表舞台に立てなくなった事実が、皮肉にも今更ながらシュンの胸を締めつけた。

その感情は、ある意味嫉妬にも似た冷たい感情だった。


——何を考えているんだ。

俺は歌う事を諦めたんじゃないか。


「ねえ、最近……ライブに来てくれてないよね?」

「……予定が合わなくて。」


一瞬、間があり、返事は微笑みと共に返されたが、ミライはその笑みの奥に、明確な拒絶を感じ取っていた。


◆壊れていく日常の気配◆


 冷蔵庫の中に残された料理。

食卓にはラップがかけられたままのグラス。

メッセージのやり取りは減り、夜の帰宅もバラバラになった。

それでも、ふたりは言葉にしなかった。

どちらが悪いわけでもない。

だけど、確実に“ふたりで同じ方向を向いていたあの頃の温度”は失われていっていた。


「……ねえ、最近、名前で呼んでくれないよね。」


夜、ふとした瞬間にミライがそう呟いた。

シュンは答えず、ただそっと彼女の髪を撫でた。

その優しさが、余計に空虚だった。

その晩、ミライは一人で寝室に戻った。

隣にいるはずのぬくもりが、シーツの上で冷えていた。


(ねえ、わたし、今……誰なんだろう。)


夜が静かすぎて、名前を呼ばれないまま目を閉じる時間が長く感じられる。


——シュン…。


翌日、スタジオでの打ち合わせのあと、ミライはふとペンを取り、スケッチブックに「MIRAI」と筆記体で書いた。

彼女はその名前を見つめ、少しだけ微笑んだ。


(せめて、自分で自分の名前を呼んでいよう。)


◆アイの気配◆


 初夏の夜。

ポストに投函された、一枚の封筒。

差出人はない。

中には、便箋に一行だけ。


『シュン、あなたは今幸せですか?』


その筆跡を見た瞬間、シュンの指がわずかに震えた。


——この文字。


かつて、何度か届いたエアメール。

柔らかい角度で傾く“シ”の字。

確信はない。

でも、きっと彼女——アイのものだ。

どうして、今になって。

なぜメールじゃなくて手書き…?

だが、返事をする気力はなかった。

ただ、確実にシュンの心を動かすその筆跡。

アイの事を忘れようとしていたシュンの心の奥底に、一滴の熱い液体が注がれるようだった。

その熱は、コートの内ポケットではなく、心臓の奥に沈んでいった。

シュンは、その手紙を、ミライに見せることはできなかった。

ポケットにしまったまま、封筒は彼のコートの内側で沈黙を続けた。

その晩、ミライは何かを感じ取ったように、寝室の明かりを消した後も、しばらく黙って天井を見つめていた。


(……なにか、遠くで音が消えていくような気がする)


——シュン、何があったの?


◆静かな夜に灯るもの◆


 次の日の夜。


「久しぶりに、ちゃんと夜ご飯食べよう?」


ミライが、少し照れたように笑って言った。

小さな鍋を囲む食卓。

グラスに注がれるワイン。

ふたりは静かに箸を動かしながら、時折、目を合わせてはそらす。


「ねえ、来年の今頃も、こうしていられるかな。」

「……わからない。でも、今は、ここにいる。」

「私は、シュンとずっと一緒にいたいな」


ミライは努めて明るく言った。

シュンは、それには俯く事でしか返せなかった。

ふたりの会話は、まるで深海のようだった。

静かで、響き合いながら、どこか遠い。


「君の歌、最近すごく自由だね。」

「……うん。やっと、音に縛られないようになってきたかも。」


それは喜ばしいことだった。

けれど、どこか、彼女が遠くへ行ってしまうような不安もあった。

ミライはその夜、夢を見た。

名前を呼ばれた夢だった。

けれど、目が覚めた時、その声が誰のものだったのか、思い出せなかった。


——いや、もしかしたら、思い出したくなかっただけかもしれない。


(第12話へつづく)


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