第11話:2013年 静かに壊れていく日々
◆極秘夫婦の生活◆
2013年初春。
結婚から数ヶ月が経ち、ふたりは誰にも知られぬまま同じ屋根の下で暮らしていた。
寝室はひとつ、冷蔵庫はふたり分の食料で満たされ、スケジュール帳には共通の予定もある。
けれど、朝のキッチンで交わす会話は、ごく当たり障りのないものになっていた。
「今日、収録は何時まで?」
「夕方には終わると思う。打ち合わせが伸びなければ。」
「そっか。じゃあ、夕飯……作っておくね。」
「ありがとう。」
それだけの会話。
そして、ふたりは別々の扉を開け、それぞれの現場へと向かう。
違和感はない。
けれど、ぬるま湯のような日常の中で、心だけが少しずつ凍えていくのを、どちらも気づかないふりをしていた。
シュンは夜遅く帰宅し、寝室のドアが静かに閉じられているのを見るたび、何かを失っている気がしていた。
ミライもまた、彼のコートの袖口に残る音楽機材の匂いに、懐かしさと寂しさを感じていた。
◆ふたりの音楽がすれ違う◆
「……次のアルバム、別のプロデューサーに頼んでもいいかな?」
ある日、ミライがぽつりと口にした。 スタジオの空気がわずかに揺れた。
「……いいと思う。君が歌いたい音楽を優先して。」
シュンはそう答えたが、心のどこかで何かが崩れる音がした。
ミライの言葉には悪意などなく、むしろ彼への配慮すら感じた。
けれど、ふたりが創り上げた“音楽”が、別の誰かの手で仕上げられるという現実は、否応なく距離を感じさせた。
最近では、同じ現場にいても、目が合うことが少なくなっていた。
彼女の歌声は相変わらず美しく、むしろ以前よりも自由で、輝いてさえいた。
ミライは、望月来人の呪縛を完全に吹っ切ったのだ。
シュンは、自分がその呪縛を解放し、ミライの才能を引き出した事を頭では理解していても、自身が表舞台に立てなくなった事実が、皮肉にも今更ながらシュンの胸を締めつけた。
その感情は、ある意味嫉妬にも似た冷たい感情だった。
——何を考えているんだ。
俺は歌う事を諦めたんじゃないか。
「ねえ、最近……ライブに来てくれてないよね?」
「……予定が合わなくて。」
一瞬、間があり、返事は微笑みと共に返されたが、ミライはその笑みの奥に、明確な拒絶を感じ取っていた。
◆壊れていく日常の気配◆
冷蔵庫の中に残された料理。
食卓にはラップがかけられたままのグラス。
メッセージのやり取りは減り、夜の帰宅もバラバラになった。
それでも、ふたりは言葉にしなかった。
どちらが悪いわけでもない。
だけど、確実に“ふたりで同じ方向を向いていたあの頃の温度”は失われていっていた。
「……ねえ、最近、名前で呼んでくれないよね。」
夜、ふとした瞬間にミライがそう呟いた。
シュンは答えず、ただそっと彼女の髪を撫でた。
その優しさが、余計に空虚だった。
その晩、ミライは一人で寝室に戻った。
隣にいるはずのぬくもりが、シーツの上で冷えていた。
(ねえ、わたし、今……誰なんだろう。)
夜が静かすぎて、名前を呼ばれないまま目を閉じる時間が長く感じられる。
——シュン…。
翌日、スタジオでの打ち合わせのあと、ミライはふとペンを取り、スケッチブックに「MIRAI」と筆記体で書いた。
彼女はその名前を見つめ、少しだけ微笑んだ。
(せめて、自分で自分の名前を呼んでいよう。)
◆アイの気配◆
初夏の夜。
ポストに投函された、一枚の封筒。
差出人はない。
中には、便箋に一行だけ。
『シュン、あなたは今幸せですか?』
その筆跡を見た瞬間、シュンの指がわずかに震えた。
——この文字。
かつて、何度か届いたエアメール。
柔らかい角度で傾く“シ”の字。
確信はない。
でも、きっと彼女——アイのものだ。
どうして、今になって。
なぜメールじゃなくて手書き…?
だが、返事をする気力はなかった。
ただ、確実にシュンの心を動かすその筆跡。
アイの事を忘れようとしていたシュンの心の奥底に、一滴の熱い液体が注がれるようだった。
その熱は、コートの内ポケットではなく、心臓の奥に沈んでいった。
シュンは、その手紙を、ミライに見せることはできなかった。
ポケットにしまったまま、封筒は彼のコートの内側で沈黙を続けた。
その晩、ミライは何かを感じ取ったように、寝室の明かりを消した後も、しばらく黙って天井を見つめていた。
(……なにか、遠くで音が消えていくような気がする)
——シュン、何があったの?
◆静かな夜に灯るもの◆
次の日の夜。
「久しぶりに、ちゃんと夜ご飯食べよう?」
ミライが、少し照れたように笑って言った。
小さな鍋を囲む食卓。
グラスに注がれるワイン。
ふたりは静かに箸を動かしながら、時折、目を合わせてはそらす。
「ねえ、来年の今頃も、こうしていられるかな。」
「……わからない。でも、今は、ここにいる。」
「私は、シュンとずっと一緒にいたいな」
ミライは努めて明るく言った。
シュンは、それには俯く事でしか返せなかった。
ふたりの会話は、まるで深海のようだった。
静かで、響き合いながら、どこか遠い。
「君の歌、最近すごく自由だね。」
「……うん。やっと、音に縛られないようになってきたかも。」
それは喜ばしいことだった。
けれど、どこか、彼女が遠くへ行ってしまうような不安もあった。
ミライはその夜、夢を見た。
名前を呼ばれた夢だった。
けれど、目が覚めた時、その声が誰のものだったのか、思い出せなかった。
——いや、もしかしたら、思い出したくなかっただけかもしれない。
(第12話へつづく)




