第10話:2012年 きみの声が、遠くなる
◆スターの光と影◆
2012年春。
ミライの人気は急上昇していた。
「Reflections Requiem」のヒットを皮切りに、テレビ出演やCMタイアップ、ドラマの主題歌依頼が舞い込む。
雑誌の表紙を飾るたびに、彼女の笑顔が街にあふれた。
その影に、プロデューサー・シュンの姿があることを知る者は、ほとんどいない。
それが、二人の“選んだ距離”だった。
夜のスタジオ。
照明が落ちたモニターの明かりの中、ミライは録画された自身のテレビ出演を見つめていた。
「ねえ、これ……どう思う?」
「……君は、よく頑張ってるよ。」
その言葉のあとに続くはずだった何かは、音にならなかった。
「……名前、呼ばなくなったよね」
ミライのつぶやきに、シュンは目を逸らした。
「……ごめん」
その一言が、余計に胸を締めつける。
◆名前を呼ばれなくなった日◆
その変化は、ほんの些細な違和感から始まっていた。
「なあ、次のツアーのセットリスト、少し構成変えたいんだけど……」
「……わかった、確認するよ。」
いつしか、シュンはミライのことを「君」とも「ミライ」とも呼ばなくなっていた。
敬語でも、他人行儀でもない。
けれど、そこに「名前」はなかった。
ミライはそれを何も言わず、ただ受け止めていた。
それが怖かった。
名前で呼ばれないことが、ふたりの関係が“音を失っていく”ことのように感じられた。
——あの頃、彼は私の名前を何度も呼んでくれたのに。
今は、まるでそこに「誰がいるのか」さえ、曖昧になっていくみたいで。
夜、自宅の鏡の前で、ミライはそっと自分の名前を口にしてみることがあった。
「……ミライ。」
その響きが、誰にも呼ばれないまま空中で消えていくのを聞くたび、彼女の中の何かが、少しずつ削れていった。
(もしかして今の私って、ただの“アーティスト”としてしか、そこにいないのかな)
そんな思いが心を掠めるとき、シュンの笑顔ですら、遠くに感じられた。
◆曖昧になる記憶◆
深夜。
シュンの自宅スタジオ。
ひとり、モニターの前で昔の録音を聴いていた。
それは、2007年の東京駅で、シュンが密かにボイスレコーダーで録音したあのデータだった。
「……この音、何かが違う。」
ノイズ混じりの音の中に、かすかに聞こえるひとの声——
「じゃあ、またね!」
少女のような、その声。
だが、何度聴いても、それがアイだったという確証が持てなかった。
まるで“誰かが記憶を上書きした”ように、あの時の映像と音が噛み合わない。
「……本当にあれは、アイの声だったか?」
ミライは、コーヒーを手にそっと隣に座った。
「ねえ、まだその音……聴いてるの?」
「……ああ。なんていうか、すごく曖昧でさ。音だけが、本当のことを言ってない気がするんだ。」
ミライは一瞬だけ迷ったが、やさしく微笑んだ。
「音はさ、時々、嘘もつくよ。でも……気持ちは、きっと隠せない。」
その言葉が、なぜか胸の奥に残った。
◆音楽からの距離◆
2012年秋。
ツアーは大成功に終わり、ミライは大手レーベルとの専属契約が決定した。
その会見の場に、シュンの姿はなかった。
関係者の間でさえ、「今井シュン」という名前はすでに過去のものになっていた。
シュンは、音楽から一歩距離を取る決意をしていた。
「今の音楽業界で、自分がやる意味って何だろうな……」
誰にも向けられないその独白に、答えはなかった。
ふと、演出家として活躍する大学時代の知人・サラの名前が脳裏に浮かぶ。
【俳優、やってみない? あんたの声と表現、舞台で映えると思う】
そんなメッセージを受け取ったのは、ミライの記者会見の翌日だった。
その時、彼の中で何かがふっと動いた。
“来栖セナ”という名前が、新たなステージの扉をノックし始めていた。
だが——このことは、まだミライには伝えていなかった。
◆ふたりの選んだ道◆
冬。
久々に二人きりで過ごした夜。
小さな部屋、あたたかな灯り。
シュンが鍋の火加減を気にしている隣で、ミライがぽつりと呟いた。
「ねえ、もし……この先、私がもっと有名になって、遠くに行っても……シュンは、見ててくれる?」
「……もちろん。君が望むなら、俺はどこにいても味方だよ。」
その「君」が、少しだけ切なく響いた。
名前ではなく、ただの代名詞として。
けれど、その夜、ふたりは確かにお互いの体温を確認し合った。
——そして、年が明ける頃。
ふたりは“誰にも知られずに”籍を入れた。
極秘の結婚。
誰かに報じられることも、祝福されることもない、静かな誓い。
ただふたりだけが知る、その一日。
役所を出たあとの冷たい風の中、ミライが手袋越しにシュンの手を握った。
「寒いけど……こうしてると、あったかいね」
二人きりの帰り道、街灯の下で少し立ち止まり、写真も撮らず、指輪もなく、ただ「今」を信じたその瞬間。
ミライは、深夜のベッドの中でふと問いかけた。
「……ねえ、名前で呼んで?」
シュンはしばらく沈黙し、そして小さく呟いた。
「……ミライ。」
それは、かすれたような声だった。
けれど、彼女はそれだけで、すべてが報われた気がした。
その瞬間だけは、たとえ未来がどうなろうと、かけがえのない「今」だった。
(第11話へつづく)




