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玉砕パティシエ小豆田  作者: 花奏希美
1章 玉砕パティシエ小豆田と、お菓子の甘くてほろ苦い思い出
6/15

Mémoire 3

 小倉(みやこ)さんとプライベートで会うようになって、どのくらいが過ぎただろうか。


 きっかけは、「小豆田さんのケーキがまた食べたいです」という彼女のリクエストだった。


 そう言われる頃には、彼女と店の外でも会いたいという気持ちが強くなっていた。しかし、あくまで僕達は従業員とお客様。従業員の僕からお客様をプライベートな用事で呼び出すというのは、なかなか難しかった。


 それに僕が今働いているのは、僕の店ではない。オーナーシエフの店だから、その方針に従ってお菓子を作る。僕の作りたいものを勝手に作るわけにはいかない。


 だから、言ったのだ。


「お店では出すことができませんが、ご迷惑でなければ、店が休みの日に、僕の自宅で作ったものをお渡しすることはできますが……」


 食事に行ったり、映画に行ったりするわけではない。


 ただ、ケーキを受け渡す。それだけ。


 要するに、好都合な言い訳だった。


 そうして、ケーキを渡すという名目で、店の外で会う約束をしたのだった。


 といっても、僕は本当にただケーキを渡すだけなのだと想像していた。せいぜい少し立ち話するくらいの、ほんの短い時間だと思っていた。


 連絡を取るために、とこれまた都合のいい言い訳で連絡先も交換した。やり取りの最中に、想像していたよりも長い時間を過ごす――デートになるのだと気付いた。


『いい公園があるんです。木の机とベンチがあって、花壇も手入れが行き届いてて、結構景色がいい場所なんですよ。よかったら、そこで会いませんか?』


 正直、彼女がそこまで乗り気だとは思っていなかった。


 ケーキを届けるとなると自宅を知られることになるし、どこかで待ち合わせして渡すとしても、日時を合わせなくてはいけない。恐らく平日だけが出勤日ではない彼女が、僕の定休日に合わせて待ち合わせるだなんて……。彼女にあまりメリットがない。


 だから最初は、彼女の言葉に便乗してがっつきすぎただろうかと、後悔していた。


 自分の店をオープンして、それから来てもらった方が……。いや、金を払いに来い、と言っているようで、それはそれで……。と、延々と反省を脳内で繰り広げていた。


 そんな時に、そんな連絡をもらったら……。


 誰も見ていないのに、片手で熱くなった顔を覆い、思わずスマホの画面から目を逸らしてしまったのだった。






 今日で、例の公園で会うのは、何回目になるのだろう。


 最低週に一度のペースで会うとは思っておらず、途中から数えるのをやめた。


 そして、彼女を「都さん」と呼んで、彼女から「千歳くん」と呼ばれる関係になるとも思っていなかった。


 午後三時、穏やかな日差し、緩やかな風、花壇の花も鮮やかに咲き誇っている。


 今日の都さんは、二回目に会った時のように、少しラフな姿だった。眼鏡にストレートヘア。服装はTシャツにキャミソールワンピースだ。Tシャツを着ているのは珍しい。ワンピースでない日は大抵ブラウスだ。メイクも、普段よりかなり薄めだ。


 いつもは初めて会った時のように、毛先をゆるく巻き、コンタクトを付けて、ワンピースやロングスカートにスニーカーという、フェミニンながらも少しカジュアルなスタイルなのに。


「ごめんなさい、今日こんな恰好で……」


 気まずそうに、少し恥ずかしそうに、都さんは言った。


「眼鏡、珍しいね。ヘアスタイルも」


 正直、この姿のまま彼女がここへ来たことに、少しモヤモヤとした。


 いつもの姿で来てほしかったわけではない。


 どちらの都さんも好きだ。


 でも、この、ちょっと隙がある……、というより、普段は人に見せないのであろう姿を、ここへ来るまでに大勢の人に見せたということが、なんだか嫌だった。


 普段の彼女も、できれば他の人に見られてほしくないが。


 こういう人に見せない姿は、僕だけが知っていたい。


 そんな我儘は、今よりも進んだ関係になったら、叶うだろうか。


「寝坊しちゃって……」


「仕事?」


「まぁ、うん、ちょっと、今、修羅場で……」


 言葉を区切りながら、これまた気まずそうに言った。薄化粧から疲労が滲んでいる。首回りも以前より細くなった気がする。


「忙しかった? だったら、今日はこのままケーキ渡して、また今度ゆっくりしても大丈夫だけど……」


「寝坊しても忙しくても、一時間でも三十分でもいいから、来たかったの」


 ケーキが目的なら、ここへ来れば手に入る。


 だから彼女の言う一時間や三十分という時間が、省略された僕という単語にかかっている言葉だと受け取るのは、自惚れた解釈ではないと思いたい。


 僕が先に確保していた席で、ケーキを広げる。今日はフォレノワールだ。


「フォレノワールって、実在する森がモチーフになってるんだよね?」


「詳しいね」


「仕事の参考にいろいろ調べたりするの。画像でしか見たことないけど、本当に黒々とした森だよね」


 彼女が何の仕事をしているのか、僕はまだ知らない。


 何度会っても知らないことが多い。彼女はいつも、半透明のベールに包まれている。


「その黒をチョコレート生地で表現したり、生クリームを雪に見立てたりしてるところ、僕は好きなんだ」


 自然の物を表現しようとするところは、どこか和菓子に似ている。


「私、その森があること自体より、それを発見できる環境下に感動したかな」


「環境下?」


「ちょっと話がズレちゃうんだけどね。太陽が森を照らさないと、色自体がわからないじゃない? 森の黒さを視認できる太陽の光があってこそ、気付けた神秘だなって感じるの」


 都さんは、面白い考えをする。


 僕はそんな彼女と、他愛の無い会話をするのが好きだ。


 今日の飲み物はコーヒー。紙皿とプラスチックの使い捨ての食器とカトラリーは、随分味気無い見た目だ。それでも都さんは、僕のケーキが載れば特別になるのだと言ってくれる。


 その日のケーキに合わせてコーヒーか紅茶を淹れる水筒は、初めて会う日が決まってすぐに、新しい物を買った。洗っているとはいえ、普段僕が使っている物で飲ませるのは、悪い気がしたから。


 ――これ、新品だったんですか? わざわざすみません。私が水筒を渡せば……、いや、それも図々しい……。そもそも私が淹れるべきでしたね。


 ――僕が好きで淹れただけですから。


 ――これ、洗ってお返しします。


 ――いいですよ。そんなつもりで買ったり淹れてきたりしたわけじゃないですから。


 ――だってこれじゃあ……。


 そこまで言いかけて、彼女は「すみません、ありがとうございます」と言って口を噤んだのだった。そんなやり取りをした日が懐かしい。


 今では都さん専用となった水筒を家で洗っていると、彼女と一緒に住んでいるような気分に浸れる。「自分の分と一緒に彼氏にお弁当を作る女性」はこんな気持ちなのだろうか、と感じる。


 都さんはフォークを手に持ち、端からケーキを掬って幸せそうに食べる。パティシエになってよかった、とこれほど強く思う瞬間は、他にあるだろうか。この先店が上手くいって人気店になっても、多くのメディアで取り上げられても、これに勝る瞬間は、無い気がした。


「……都さん、指、どうしたの? 怪我……?」


 ふと、彼女の指の色が気になった。赤く、血が滲んだようになっている……ようにも見えるが……。血というより、インクに見える。


 僕に言われてフォークを置いて自分の手を凝視した彼女は、


「うわっ! 落ちてない!」


 と焦ったように鞄からティッシュを取り出して、手を(こす)り始めた。


「あの、怪我じゃないから安心して! 千歳くんに血を付けたりしないから! でも汚いよね……」


 汚いとまでは言ってないし、思ってもいない。それでも気になっている様子の彼女にウエットティッシュを渡した。


「ごめんなさい、夜中まで仕事してて……。落としてきたつもりだったんだけど……」


「仕事って何してるのか、聞いてもいい……?」


 数秒間が空いた。


 僕に打ち明けるか、逡巡しているようだった。


「……神那(かんな)詩織(しおり)、わかる?」


 デビュー作品が大ヒットして、二作目以降は作品の好みが極端に分かれると言われているが、有名作家の一人だ。


「全部は読んでないけど、三作目を表紙買いしたことがあって。それきっかけで、一作目から少しずつ買って読んでるよ」


「神那先生の表紙、私が描いてるの。フリーの、イラストレーター」


 確かに、神那詩織の表紙はどれも絵のタッチが似ている。同じ人が描いていたのか。


 いやその前に、状況に対して思考が追いつかないし、鼓動は追い越しすぎている。


 都さんは……、手を拭くのをやめて、顔を覆うように口元に手を当てて俯き気味だ。


「表紙買いって……凄く嬉しい……」


「……そう、なの?」


「神那先生の評判とか世間の口コミじゃなくって、私の絵に惹かれたってことだよね……。とても光栄なことだよ……」


 今度こそ、彼女は俯いた。


 少しして、顔を上げた。


 心倣(こころな)しか、目が潤んでいるように見えた。


「千歳くんと初めて会った日、別の仕事の打ち合わせだったの。ラフもきちんとお見せしてたのに、もう何回も描き直しの依頼があって……。なんか裏で別のイラストレーターさんと比べてたみたいで、結局私は断られて、依頼がとんで……。フリーでやってると、まぁ、いろいろ、あるんだけどね。これまで描いたのとか打ち合わせとか、なんだったのかと思って。確かに私は運良く神那先生の表紙を描かせてもらっているだけで、人気イラストレーターってわけじゃないから、そういうことされたところで、仕方がないんだけど。私の絵を好きって思ってくれた人がいるって知って、なんだか救われた」


 彼女の視線が、ケーキに移った。


「いや、救われたのは、今じゃないか。あのケーキをもらった時から。凄く励まされた。今は忙しいけど調子もよくて、仕事も順調なの」


 今、都さんが、小倉都さんという人間が、非常に近くに感じられた。


 見えそうで見えない彼女の内奥(ないおう)が、少しだけ見えた気がした。


 楽しく笑い合えるこれまでの関係も、僕は好きだし、否定しない。


 でも、彼女には、他者には言い難い弱音や不安も、他人事として聞かれてもいいから、打ち明けてみたくなった。


「――僕だって、都さんに救われたよ」


 僕は、幸せそうに僕のケーキを食べる都さんを見るために、パティシエになったのかと思うくらい――。その言葉はキザだと気付いて、すんでのところで呑み込んだ。


 それでも。


 お菓子は、人を笑顔にする。


 そんな単純な図式を、今なら愚かなくらい信じられる。


 いや、僕のお菓子で、人を笑顔にしたい。幸せにしたい。不幸があっても、幸福は、ふとした瞬間にきっと訪れるし、僕がその幸福を届けたい。


 そんな傲慢な想いを、揺るがず持ち続けよう。


 君のために。

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