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玉砕パティシエ小豆田  作者: 花奏希美
1章 玉砕パティシエ小豆田と、お菓子の甘くてほろ苦い思い出
2/12

Mémoire 1

 閉店間際の店内。


 日照時間は延びても、太陽が沈めばボトンと灯りが落ちたように急激に暗くなる。


 こんな時間にケーキを買いに来る人は、ほとんどいない。


 夕食後のデザートをわざわざケーキ屋に来てまで買い求める人もいない。突如ケーキが食べたくなったとしても、今の時代はコンビニで手軽に買えるのだから。


 人がケーキを買う時とは、どういう時なのだろう。


 誕生日、クリスマス……、入学や卒業、記念日、父の日、母の日、勤労感謝の日?


 洋菓子に憧れてパティシエになったのに、日常生活に洋菓子が無かった所為か、あまりイメージが浮かばない。


 いや、イメージはある。


 ホールケーキを家族で囲んだり、箱に詰まった様々なケーキから一つを選んだり。


 そういった光景は、フィクションの中で見てきた。


 自分もその光景の中の人物になりたくて、勢い余ってパティシエになった。


 そう、洋菓子に憧れていた。僕は、同じ卵とバターと小麦粉を使っているのに、他の材料や調理方法次第で姿を変える、洋菓子に憧れていた。


 チョコレート、クッキー、フィナンシェ……、それらは日常の小腹を満たすと同時に、ちょっとした手土産やプレゼント、生活のあらゆる場面を彩っている。


 そして、食べる人は、皆笑顔で、幸福に満ちていた。


 洋菓子は、身近で、特別で、日常で、非日常で、笑顔と幸せが溢れている。


 僕はそれを、届ける側の人間だ。


 決して不満は無い。むしろ、なりたくてなった。憧れのものを作って、誰かに届けられる。こんな素晴らしいこと、他には無い。


 なのに、どうしてだろう。


 日々心の中に、虚空(こくう)が広がっていく。


 目を輝かせながらショーケースを眺めている人を見て、喫茶ルームで歓談に花を咲かせながらケーキを食べている人達を見て、確かにやりがいも幸せも感じる。


 なのに。


 僕が思っているほど、洋菓子は特別なものではない。


 そう思う瞬間がある。


 それはある種の事実だ。


 多種多様な娯楽が溢れる時代なのだから。


 価値観が違うだけだ。


 だから、目の前のケーキよりもスマホに夢中になっている人がいても、面倒臭そうに焼き菓子を選んでいる人がいても、それは僕が介入できない、仕方のないことだ。


 ……数分早いけれど、今日はもう店を閉めよう。売れ残っているケーキには悪いけれど。残っている他の従業員と分けて……、あぁ、試作のフレジェもあった。


 そんなことをぼんやりと考えながら、顔を上げた。


 カランコロンと扉の上部に取り付けられた鐘が、音を鳴らす。


 入ってきたのは、女性だった。


 淡い色のワンピースは、フォーマルな場でも着られそうな、綺麗でシンプルなデザインだった。長い髪は毛先がふんわりと巻かれている。長いのに重すぎない印象の髪は、春風のように軽やかに揺れる。コツコツとパンプスの音が二人きりの店内に響く。


 少しだけ、気まずかった。


 その女性の目が、少し充血して、湿っているようだったから。


「いらっしゃいませ」


 それでも、お客様を無視するわけにはいかない。


 涙に気付いていないフリをして、笑顔を作る。


 女性はヒールの音を響かせながらショーケースに近付く。音はしっかりしているのに、折れそうなほどに細い足首の所為か、その足の動きはなんだか覚束なかった。ショーケースの前まで来て、曲げた膝に手をついて、中腰になって眺めていた。濡れた睫毛が、光を反射して光っている。


「お決まりでしたらお伺いいたします」


 その光景に耐えかねて、テンプレートの言葉を述べる。


「……あの、今日はもう、これだけですよね?」


 女性が顔を上げた。泣いた後の顔をあまり見ないよう、鼻の辺りを見ながら答える。


「はい、今出ている分だけになります。何かお探しのものがございましたでしょうか? 明日以降でしたらお取り置きも可能ですが、いかがなさいますか?」


「……真っ赤なルビーみたいな、イチゴのケーキ」


 消え入りそうな声で、そう言われた。


 イチゴ……、今の季節はイチゴを使った商品が豊富に揃えてある。ショートケーキは勿論、ミルフィーユ、ムース、タルト、レアチーズケーキ……。


 この中から食べたかったものを訊ねて、都合のいい日に改めて予約分として買いに来てもらうのがいいだろう。


 それが、一従業員としての、一番誠実な対応だ。


「…………あの、少々お待ちくださいませ」


 なのに、どうして僕は、試作の余りを取りに行ってしまったのだろう。


 店の人間として、パティシエとして、失格だ。


 だけど……。今にも壊れそうな彼女を、そのままにしておけなかった。後日改めて、なんて、そんな時間、無いように感じた。


「ただいま、こちらのフレジェでしたらお一つご用意できますが」


 色彩を失くしたような顔色の彼女は、フレジェを見て、少し目を丸くした。


「……宝石みたい……」


 その言葉に、思わず女性の目を見た。


 泣き腫らした目の奥で、微かに星が散っていた。瞬きする一瞬の間に消えてしまうけれど、次の瞬間にはパチパチと別の星が瞬いている。


「よければ、こちらお包みしましょうか?」


「お願いします。おいくらですか?」


「実はこれ、試作の余りでして……。なので、お代は結構です。あっ」


 そこで思い出して声が漏れた。女性が不思議そうな眼差しを向ける。


「……すみません、僕からこのフレジェを受け取ったことは、秘密にしてください」


 僕が持ち帰った後に誰かにあげるならまだしも、店の中で、それもお客様に、というのは、問題だ。


 顔が情けないほど引き攣っているのが自分でもわかる。


 女性の顔を見るのが気まずかったのに、今では逆に顔を見られるのが気まずい。


 目を逸らしたい。


 しかし今度は、別の罪悪感から目が逸らせない。


 女性は――くすりと笑った。


「わかりました。わざわざ、ありがとうございます」


 その笑顔に急かされるように、素早くケーキを箱に入れた。持ち歩き時間を聞いて、適量の保冷剤を入れないといけないのに、これ以上の会話をするのは、なんだか面映ゆくて。最大の二時間分の保冷剤を詰めた。


「こちらお品物でございます」


「ありがとうございます」


 僕の手から、女性の手へとケーキが渡る。


 僕と彼女の間には、何の繋がりもない。


 それでも、ケーキを介して一瞬だけあった。


 ただの他人同士を、店員と客という記号で結び付けていただけだとしても。


「またお越しくださいませ」


 彼女がどこの誰か、なんて、そんなこと知らない。


 けれど、その一言に、こんなにも魂を込めたのは、初めてだった。

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