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玉砕パティシエ小豆田  作者: 花奏希美
1章 玉砕パティシエ小豆田と、お菓子の甘くてほろ苦い思い出
1/12

1.フレジェな出逢い

 白いテーブルクロスがついた正方形のテーブル。窓際に設置されたその席からは、闇の中でグラニュー糖のように眩く光る夜景が見える。


 窓は机に置かれたキャンドルを反射している。揺らめく炎を見ていると、これから起こるであろうことに備えて、自然と心に大人の余裕を与えてくれる。


 付き合って三年。


 歳下の彼が初めて連れてきてくれた、フレンチレストラン。


 平日なのにこんなところを予約したと聞かされたら、『もしかして』と期待する。


 しかし、無邪気にはしゃぐのは、今年で三十歳になる身としては避けたい。


 前日まで連日残業して、今日は定時で上がれるように頑張った。


 いつもはファストファッションのオフィスカジュアルだけど、職場で浮かない程度の綺麗目ワンピースを着てきた。


 年々「可愛い」の象徴とも言えるピンクを着ることに抵抗が出始めた――否、「似合うピンク」がわからなくなってきたから、ライトグリーンの物を買った。サテン生地はほどよい光沢があって、一万円にも満たない服でも「良い物」感を出してくれる。スカートのフレアは派手過ぎず、上品に広がる。ウエストのタックと少しふんわりとした肩と袖口は、ほどよく可愛らしい。値段など気にせず、こういったお店に着てきても問題ないだろう。


 目の前の彼は、いつもと変わらないスーツ姿。ネクタイは以前私がプレゼントした、濃紺に白のストライプ模様の物。それに、初めて見るネクタイピンが着いていた。シルバーに輝くそれの影響か、普段のスーツ姿の彼が、ワンランク上の男性に見える。


 アミューズ、前菜、スープ、魚料理、肉料理、次はいよいよデセール。


 そろそろ、『来る』だろうか。


燈架(とうか)、あのさぁ」


 ――結婚しよう。


 その言葉と共に、どんな指輪が出されるのだろう。


 赤いバラの花束が運ばれてきたりするのだろうか。


 いや、これからずっと一緒に居られるのであれば、指輪もバラも要らない。


 こんなに素敵な場所を用意して、久々に平日にオシャレをする機会を与えてもらえただけでも嬉しいのだから。


 そんな彼との将来以外、望むものはない。


「――別れてほしいんだ」


 期待とは、真逆の言葉が聞こえて、耳を疑った。


「……えっ? ごめん尚登(なおと)、もう一回言って」


「だーかーら、別れてほしいんだって」


 聞こえてただろ、とでも言いたげに繰り返されたのは、やっぱり別れの言葉だった。


「……どうしたの急に。何で別れるなんて」


「他に好きな人ができたからに決まってるじゃん」


 決まってる? 私に嫌なところがあるとかではなく?


「というか、もう付き合い始めたし。燈架と付き合い続けると二股になるじゃん」


「ちょちょちょ、付き合ってるの? いつから?」


「先週くらいかなぁ」


 斜め上を向いて少し口を尖らせながら言った。そのどこかあざとく見える仕草は、普段と同じで、彼からは迷いも焦りも何も感じない。いつも通りの彼だった。


「やっぱさぁ、オレには歳下がいいんだよ」


「え?」


「燈架は歳上じゃん? オレには大人すぎるんだよね。ほら、もうすぐ三十だし。なんというか、差を感じるっていうか」


 いや、一つ下だから来年にはお前も三十だろ。それに、私の誕生日はまだ半年先だ。


「たまに無理して頑張ってる感じも、見ててしんどいし。今日とかも」


 そう言って、頭の先から上半身までを視線が通過する。一つでも上だから、落ち着きのある大人っぽさを出したかっただけなのに。


「新しい彼女は歳下だから、ペースっていうの? そういうのが合うんだよねぇ」


 頬杖を付きながら、夢見心地のような笑みを向けられる。


 彼にとって、私と別れてその人と付き合うのは、中学生のそれと同じなのだろう。


「へー、そうなんだ」


「だからさぁ、お願い」


 話が一区切りついたような雰囲気だったから、必死で相槌を打った。それなのに彼は私の心境など想像もできないのか、顔の前で手を合わせて懇願される。


「ちなみにさぁ、どうして今日はこのお店予約してくれてたの? こんないいところ初めて来たから、緊張してたんだよね」


「えっ、燈架も緊張するの? じゃあもっと安いところにしたらよかったー」


「そうじゃなくて、」


『期待してた』


 その言葉は呑み込んだ。


 なんだか、自分が惨めでアホらしくなってきた。


「そうじゃなくて?」


「とにかく、理由は?」


「うーん、まぁ三年も付き合ったし? 結婚も悪くないかなーって思ったんだけど、やっぱ違うかなーってなって。そんな時彼女といい感じになって、どうしようかなーって迷って。そうこうしてるうちにキャンセル料発生する期間になって、勿体無くて」


 予約したのは一カ月前だ。その間ずっと浮気していたのか。いや、この調子では浮気とは認識していないだろう。ただ、他にいいなと思う人が現れただけの期間、だ。


「まぁ、ちょっと早いけど、誕生日祝いってことで」


 別れるのに誕生日祝い?


 駄目だ。ツッコミ所が多すぎる。


 右手の奥にある、水の入ったグラスが目に入る。


 これをかけて、「最低!」とでも叫んで、店を出てやろうか。


 そんな考えが頭を掠めるも、その気力すら沸いてこない。


『何だったんだろう』


 そんな思いが込み上げてくる。


 十代の学生の三年と、大人になってからの三年という交際の月日は、別物だ。


 お互い年齢も年齢だ。そしたら次を……結婚を、真面目に考えないのだろうか。


 そこを真剣に考えながらお付き合いするものではないのだろうか。


 籍を入れたくないなら、それを伝えるくらいしてくれてもいいのに。そしたら私だって、そっちの方向でこれからを考えてみたのに。


 そうやって真剣に考えていたのは、私だけだったということだ。


 なんだか、とても、疲れた。


「いいよ、別れよう」


「よかったー! じゃあ、最後にデザート食べて帰ろうな」


「いや、私はもういいや。お腹いっぱい」


 本当は、この店の有名なナポレオンパイを楽しみにしていた。


 周りがアーモンドスライスで覆われていて、サクサクでパリパリで、なのにカスタードクリームの上品な甘さがとても魅力的だと聞いた。ネットで見た、ルビーのように真っ赤なイチゴが、脳裏を(よぎ)る。


 が、そんな気分でもない。


「ごめん、先帰るね」


 水はかけないから、せめてこの空間に、一人置き去りにしてやりたかった。


 さっさと荷物をまとめて、立ち上がる。


「ちょっとちょっとちょっと! 先帰るならお金!」


「……は?」


「だってもう彼女じゃないんだから、こんな高いとこ奢れないよ!」


 今度こそ溜め息が漏れた。明らかにこちらが苛立っているのに、それすら気付かないのか気にならないのか。彼は変わらぬ様子で店のスタッフを呼び、伝票を受け取った。それを私が受け取り、中を確認する。


 一人八千五百円。


 フレンチのディナーでこれって、安いのだろうか、普通なのだろうか。それすらも、よくわからない。


 ただ、平日に財布の中に一万近く入れて出掛けるなんてしないから、そんなお金、ありはしない。カードで払うしかない。


「私が払っておくから、尚登はゆっくりしていって」


「マジで⁉ ラッキー! ありがとう」


「ごめん」も「今度返す」の一言もないのかよ!


 でも、ちゃんと「ありがとう」は言ういつもの彼がそこにはいて、さっきとは違う胸の痛みがあった。






 会計を済ませて一人夜の街を歩いた。


 駅に行ってとっとと家に帰ってしまえばよかったのだけれど、できなかった。久々に平日にオシャレをしたのに、このまま帰るなんて、勿体無くて。


 耳で揺れるアクリルパールのイヤリング、首もとには小粒のキュービックジルコニアのネックレス。


 仕事をするだけなのだから、普段装飾品なんて着けない。満員電車に乗るから服は洗濯できる物を選ぶ。


 アラサーになっても大した給料なんてないから、残業代で稼いでいる。


 昼食はほぼお弁当を持参して、コンビニで買う時は五百以下のお弁当を買う。土日にたまに近所でファストフードを食べるくらいで、家でもほぼ自炊だ。


 それは尚登だって同じ。


 実家で暮らしながら働いている人達とは、天と地ほどの差の生活水準だろう。


 デートだって、なるべく安く済ませてきた。


 フレンチなんて来たのは、今日が初めてだった。


 だから、『ついにその時がきた』と思ったのに。


 彼とは、結婚しても上手くやっていけると思っていた。


 出会ったのは社会人になってからだけど、周りは実家で暮らしながら親に出してもらったお金で大学に通う中、奨学金を借りて地方から上京してきた者同士、「都会暮らしはお金がかかる」という苦労がわかり合える仲だった。社会人になっても自分一人を生かすのが精一杯の給料で、オススメのレシピを教え合ったり、休日のささやかな暮らしを話すうちに仲良くなり、交際に至った。


 決して華やかなデートなんてしたことなかったけど、映画を観たり、フラワースポットで有名な公園に行ったり、たまに江ノ島や鎌倉といった観光地に行ったり。そういう小さな幸せを積み重ねていた。


 豆苗みたいなものだ。毎日水を替えて、日に当てる。それだけで愛は育っていく。


 育った愛は、小さくても、このまま花を咲かせると思っていたのに……。


 今になって涙が滲みそうになった。


 上を向いて、気を紛らわせる。


 空には一面の紺碧が広がっていた。


 星なんて一つも見えやしない。


 街の明かりで、空もぼんやり光っているように見えた。アイシングを塗ったみたいに艶やかだった。


 その時、右肩が人とぶつかった。


「すみません!」


 反射的に謝ったけれど、相手は一瞬こちらを見て、そのまま行ってしまった。舌打ちのような音が聞こえたのは、気の所為ではないだろう。今のは私が悪い。余所見をして歩いていたのだから。


 周りに視線を戻すと、会社帰りの飲み会や、デートをしている人の姿で溢れていた。


 一人でいることに、改めて惨めさを感じた。


 もう、帰ろう。


 駅は、というか、ここはどこだろう。


 スマホで地図アプリを開き現在地から駅までの道のりを調べる。けれど、バグなのか、位置情報がさっきのフレンチレストランのまま動かない。銀座なんて普段来ないから土地勘もない。そもそもここはまだ銀座なのだろうか。この辺りは気付けば日比谷や有楽町に出ている時がある。どこからどこまでが銀座なのか、よくわからない。


 一度、来た道を戻ろう。


 そう思って振り返ると、真っ白な外壁の小さな店が目に留まった。


 植物のツルを壁に纏っていて、都会的な外観とはかけ離れていた。白い四角の建物に緑のツルがリボンのようにクルクルと垂れていて、大きなプレゼントボックスみたいに見えた。


 窓から飴色の光が漏れている。導かれるように歩み寄った。


 中を覗くと、ショーケースがあった。ケーキがポツポツと並んでいる。


 そこで思い出す。私、デザート食べてないんだった。


 ここで、買って帰ろうか。


 外壁と同じ白い扉から中に入った。


「いらっしゃいませ」


 ケーキに夢中で気が付かなかった。ショーケースの後ろに、白いコックコートを着たパティシエらしき男性が立っていた。歳は三十代後半に見える。


 少し癖毛のあずき色の髪は耳上辺りで切られていて、重くならずすっきりしていた。


 しっかりと眉山があるのに、タレ目で柔らかい印象だ。奥二重と落ち着きのある声が、どこか甘い雰囲気を醸し出している。


 身長は平均より高い。一八〇センチあるだろうか。太いとかゴツイという印象は受けない。けれど、捲られて七分丈になっている袖から覗くのは、筋のある男性の腕。肩幅もしっかりとある。


 イケメンのいるケーキ屋。


 オシャレな街にはオシャレなパティシエ、か?


 そんなことを頭の片隅で思った。


 彼の後方には大きな窓があり、厨房が見える。男性が一人忙しなく作業をしていた。


「お決まりになりましたらお声掛けください。と言っても、残りわずかなのですが」


 そう言って彼はショーケースを見た。釣られて見ると、プリン、シュークリーム、チョコレートケーキ、チーズケーキが一、二個ずつあった。


 私が求めていた、ルビーのようなフルーツが載ったケーキは一つもない。


 買わずに出るのは失礼だろうか。でも、この際コンビニのショートケーキでもいい。


「お気に召したものはございますか?」


 優しい音の言葉が降ってきて、顔を上げる。


 店員はにっこりと微笑んでいた。


 蜂蜜のように甘い瞳と柔らかい雰囲気で、スイーツがよく似合っていると思った。


「えっと……、」


「最近のラインナップですとこんな物をご用意しております。お取り置きやご予約も承っていますので、気になるものがございましたら仰ってください」


 店員はサッとスマホを取り出して、写真投稿に特化したSNSに投稿したと(おぼ)しき画像をいくつか見せてくれた。


 色鮮やかなケーキがいくつも並んでいる。


 黄緑色のピスタチオはペリドット、イチゴムースはモルガナイト、ホワイトチョコは真珠……、売れ残るのを寂しそうにしているチョコレートケーキとチーズケーキも、ブラウンダイヤモンドやインペリアルトパーズのように、甘美な色彩を放っている。


「宝石みたい……」


 思わずそう呟いてしまって、羞恥心が込み上げてきた。


 何を、そんな、子供みたいな感想を……。


「ありがとうございます。どんなものがお好きですか?」


 店員は変わらず、甘い微笑を浮かべている。


 その笑みに釣られるようにして、思考が巡る。


 脳内に浮かんでくるのは、アメジストのようなブドウのタルト。瑪瑙(めのう)のようにツヤツヤなアップルパイ。磨き上げられた大理石のようなオペラ……。


「真っ赤なルビーみたいな、イチゴのケーキ」


 まだそんなに、遅い時間ではないはずだ。夜の十時や十一時になっているならともかく、そうでもない時間帯に、普段内に秘めている言葉を漏らしてしまうだなんて。


 なのに、心は妙に落ち着き払っていた。


 相手にどう受け止められるかを、酷く冷静に待っていた。


「あの、」


 店員が口を開いた。


 笑われたとしても構わない。


 社交辞令のお礼でも構わない。


 諦めてはいるのに、建前でもいいから優しく笑ってほしいと、どこかで願っていた。


「実はイチゴを使ったケーキを一点、奥にしまってるんです」


「……はい?」


「フレジェというケーキです。アーモンドを基調とした生地と、カスタードクリームにバターを混ぜた濃厚なクレームムースリーヌに、イチゴを挟んだケーキで、フランス版のショートケーキと呼ばれています。よろしければ、お持ちしましょうか?」


「え? はい……?」


「ご覧になるだけでもどうぞ」


 そう言って店員は、微笑みを残して一度店の奥へと行ってしまった。


 数分して、皿に、表面が赤色の、長方形のケーキを載せて戻ってきた。


 通常のスポンジ生地よりもこんがりとした色の生地に、見た目はカスタードクリームのようなクリームが挟まれている。クリームと一緒にイチゴが敷き詰められており、断面が綺麗だ。端は真っ赤で中央にいくほど色が薄くなるフルーツ特有の色合いが、ケーキ上部のベリージュレの濃い赤色を引き立てている。そのジュレは店内の明かりも手伝って美しく透き通っている。その上には一粒のイチゴが。赤色の発色が瑞々しい。鮮やかで、重厚さがある。まるで、女王様のように鎮座していた。


「いかがでしょうか?」


 そう問われて、ハッとした。


「もしよろしければ、召し上がりますか?」


「え? えぇ? でも、イートインコーナー、ありませんよね?」


 そう訊ねると、店員は一度皿を置き、何か看板のような物を持って外に出た。一瞬『Closed』という文字が見えた。そして何食わぬ顔で戻って来た。


「フォークでしたらご用意できます。今日はもうお客様はいらっしゃいませんし」


「これ、他の方の取り置きや予約の商品じゃないんですか?」


「違います。なので、お気になさらず」


 では、なぜこの商品だけ奥に避けてあったのだろう。


「あ、失敗や廃棄分でもないので、ご安心ください」


 私が疑問に思い戸惑っていることに気付いたのか、店員は慌てて付け足した。


「お代も要りませんので」


「いや、それはさすがに……」


「そのケーキも僕に食べられるより、お客様に召し上がっていただけた方が、幸せだと思います」


 促されるままに曖昧に頷いた。それを見た店員はフォークも取りに行き、


「ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 甘く柔らかい粉砂糖のような笑みで言い、窓際に行き、ブラインドを下ろし始める。


 この店の営業時間が何時までなのかはわからないが、今日は本当に閉店するようだ。


 早く食べて帰らなければと思う反面、できるだけ長くここに居たいとも思った。


 その矛盾する感情の理由はわからない。


 ひとまず、ケーキを食べよう。


 フォークを手に取り、端を下までフォークを差し込み、掬い取って口に入れる。


 口に入れた瞬間、イチゴの甘い香りが鼻を抜けた。しっとりとした生地は風味豊かで、舌触りもジュレとクリームとの統一感がある。クリームは生地に負けない濃厚さがあるのに甘さ控えめだ。生地の甘さと喧嘩しないし、イチゴのジューシーさも殺さない。全体の甘味を、フレッシュフルーツのイチゴの酸味が爽やかにほぐしている。


 ――涙が、溢れてきた。


 今日は、人生で最高の思い出になる日だと思っていた。


 なのに。


 彼にとって、私は必要無い存在だったのだと、わかってしまった。最低な日だ。


 こんな時にスイーツなんて食べても、美味しく食べられない。


 なのに、最低な思い出を覆したくて、平日の退屈さに抗うように夜更かしするのと同じように、ケーキ屋なんて来てしまった。


 どうせ、何を食べても、ただ甘いだけにしか感じられない。


 そう思っていたのに。


 何で、「美味しい」なんて、思うんだろう。


 ブラインドを下ろしていた足音が、こちらに向かってきた。


 ボロボロ溢れてくる涙を急いで拭った。


「これ、とっても美味しいです!」


 泣いていたことがバレないように、必死で目尻を下げて口角を上げた。いくら泣いていても、目が見えないくらいくしゃくしゃにしていたら、気付かれないはずだ。


 店員は、先ほどと変わらない微笑を浮かべて、隣に立つ。


「泣きたい時は、泣いてください」


 馬鹿みたいに明るい声を出していた自分の声が、不意に聞こえなくなった。無音になった店内で、店員の優しい声がそっと響く。


「どんなに悲しいことがあっても、明日はやってきます。だから、泣ける時に、思いっきり泣いてください。また、笑えるようになるために」


 蜂蜜のように甘い目が、メレンゲのように柔らかな声が、網膜と鼓膜を刺激する。


 ……私は、やさしさに触れたかったのかもしれない。


 ただ甘やかされているだけだったとしても、今だけは、やさしい何かがほしかった。


 そういうやさしさを与えてくれる相手は、もういないから。


 だから、代わりにスイーツを求めていたのかもしれない。


 止めどなく涙が溢れてくる。それでも手を止めたくなかった。


 フォークで新たに切り落としたケーキを、口に含む。


 傷口に、やさしい甘さが覆い被さる。


 所詮その場しのぎの代価品で、明日には寄り添ってくれない。


 それはわかっている。


 わかっているから、甘くても傷口はヒリヒリズキズキ染みている。


 けれど、その痛みがやがて快感になるように、その甘さに縋ってしまう。


 ――もう一口。


 今は、この甘さに頼りたい。


 明日も、出社しなければならない。


 有給は余っているから、休もうと思えば休めなくはない。


 でも、私が休んだところで、彼は何とも思わない。


 それが目に見えていて、悔しくて、私も何とも思っていないのだと示すために、出社してやらなければ。


 ――今は涙が出ても、負けたくない。


「すみません、お恥ずかしいところを……。お忙しい時間帯に失礼いたしました……」


 いつの間にか食べ終わって空になった皿を見つめながら、ティッシュで鼻や目元を押さえて、店員に言った。


「とんでもないです。お気になさらないでください」


 徐々に落ち着きを取り戻して、初対面の人の前で泣きながらケーキを食べた自分に引いていた。


 目の前の店員の顔を見るのも気まずい。


「また是非お越しください。赤いケーキ、ご用意してお待ちしております」


 そういえば、なぜあのフレジェだけ、取り置かれていたのだろう。


 まるで私のためだけに取ってあったように錯覚してしまう。


「貴女に会えることを、僕は楽しみにしています」


「え?」


 思わず顔を上げた。


 濃艶な蜂蜜の瞳が、私を捉えている。


「今日貴女に出会えたことは、運命なのかもしれません。是非また、いらしてください。いつ会えるかわからないなら、僕と、付き合いませんか?」


 話の流れが早すぎて、理解できない。


 早いというか、飛び過ぎてはいないか?


 いや、今考えるところはそこではない。


 いやいや、この場合、何を考えたらいいのだろう?


 私の頭は思考が(もつ)れているのに、彼は変わらずその瞳で私を映し続ける。


 こんなにまっすぐに見つめられたこと、尚登にだってない。


 なぜこの店員は、初めて会った私にこんなにも親身になって、挙げ句の果てに告白までしているのだろうか。


 ……もしかして、彼が、私の運命の――?


「あ~ず~き~だ~!」


 気持ちが傾きかけた時、その言葉と共に現れたのは先ほど厨房にいた男性だ。彼はズカズカと私達に歩み寄る。長い足であっという間にすぐそこまでやってきて、右手を大きく振りかざした次の瞬間、「バシィッ」という、実にいい音が響いた。


「きっさま~! さっきからうろちょろしてると思ったら! 閉店間際にお客様にぬぁにしてんだボゲェェエエエエ‼」


 そのいい音は店員の罵声と共に、二回三回……数えきれないほど響く。


「痛い痛い、柏森(かしわもり)くん暴力反対……!」


「貴様のそれはセクハラなんだ! いい加減自覚を持て! お客様に不快な思いをさせて! 店の評判にも関わるんだぞ!」


 そこまで言い終えて、柏森と呼ばれた男性は、私に体を向けた。そして九十度に上半身を折り曲げた。


「大変申し訳ございませんでした。うちの従業員がとんだご無礼を。こんな、ブラインドも閉めて密室のような状態で……泣かせてしまうほど怖い思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます」


「……あ、や、そんな、それは誤解です」


 あまりにも丁寧な謝罪で、一瞬ポカンとしてしまった。彼の所為で泣いていたわけではないということは早急に訂正したく、まだ上手く働かない頭で言った。


 柏森という男性は、怪訝そうに顔を上げた。


「私ここに来る前にちょっと嫌なことがあって、つい泣いてしまっただけなので……」


 彼氏にフラれた、なんてことをここで話すほどのメンタルの強さはさすがに無く、無難な言葉でオブラートに包み込んだ。


 頭を上げた男性は、「あずきだ」と呼んだ男性よりも背が高かった。長方形の眼鏡の奥には生真面目そうな固い目がある。整ったフェイスラインがより堅い印象を与える。


「さ、左様ですか……?」


「柏森くんの勘違いだよ。謝るなら僕に謝ってほしいね」


「セクハラはセクハラだ!」


 叩かれていた肩や背中を(さす)っていた男性を、またバシィッっと叩いた。


「ああ、いえ、そんな、不快になったりしてないので……。むしろ、ちょっと元気が出ましたし……」


「なので落ち着いてください」その言葉はなんとか呑み込んだ。


「そ、そういうことでしたら……」


 男性は恐る恐る、というように謝罪をやめる。あずきださんは今しがた叩かれた場所を擦りながら、不愉快そうに柏森さんを見つめている。


「私、そろそろ失礼します。ケーキ、ご馳走様でした」


 柏森さんは急いで売り場の端に行き、何かを纏めている。あずきださんは私に合わせて出入り口まで誘導してくれた。扉を開けて、私が出やすいように『Closed』の看板を少しずらした。私が外に出てあずきださんに向き直ったタイミングで、急ぎ足で柏森さんがやって来た。


「お騒がせしてしまって申し訳ございませんでした。よろしければ、こちらをどうぞ」


 彼の手には、マドレーヌが二つ入った透明のビニール袋が。取り出し口が蛇腹に折られたビニールは、白いリボンで縛ってある。ふんわりとした、綺麗なリボン結びだ。


 店には壁際に焼き菓子が確かにあった。けれど、一つ一つ個包装されていて、箱詰めされているものはあっても、ビニールにラッピングされている物は置いていなかった。あのわずかな時間に、これを仕上げたのだろう。


 マドレーヌの綺麗な貝殻型と丁寧なラッピングに、思わず手が伸びた。


「マドレーヌになります。片方は期間限定の桜味でございます」


「騒いでいたのは柏森くんだけどね」


「すみません、コイツ、告白せずにはいられないというか、告白して玉砕しないと気が済まないというか、そういう病でして」


 どういう病なんだ?


「なので、お気になさらないでください、というのも変な話なのですが、まぁ、その、受け流してください」


「は、はぁ」


 柏森さんは変わらず生真面目な顔で困ったような表情で言った。


 あずきださんは先程のように訂正はせずに、その言葉を受け流していた。


 受け流さないといけないのは私の方なのだろうけど、二人の言動がおかしくて、いけないと思いつつも、口角が上に上がってしまう。それを誤魔化すように口を開いた。


「今日はありがとうございました。ケーキ、本当に美味しかったです」


「本日はご来店いただき、誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


 そう言って柏森さんは頭を下げた。あずきださんも一緒に頭を下げている。


 これは、客が立ち去るまで頭を上げない接客パターンだ。


 そう察して、足早に歩きだした。


 四、五歩歩いたところで、服が擦れる音が聞こえた。さらに数歩歩いたところで、


「ルビー色のケーキ、ご用意してお待ちしております」


 大きな声で言われた。振り向くと、右手を口元に添えて、蜂蜜のような甘い瞳と、粉砂糖のような柔らかい笑みを浮かべた、あずきださんが、


「あ~ず~き~だ~! いい加減にしろ!」


 柏森さんに、本日何回目かもわからない平手をくらっていた。

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