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2031年 2月
はぁ、はぁ、と自分の乱雑な呼吸音が乱反射し、白い呼気が口から現れる。
二月の酷く堪える極寒は、どれだけコートで暖かくしようとも露出した首元を通し背筋を寒がらせた。
狩猟官のとある小隊が予想だにしていない数の感染者に襲われ、援軍を求むという連絡を受けて五分、近場にいた俺は現場へ疾走していた。
とはいえ全力ではない。体力が尽きてしまえば俺もアイツらの餌食になるのもある。
もう一つの理由としては──連絡が来て数分が経過してしまったことだ。
無線越しの泣き叫ぶと言う表現が正しいであろう声色の調子と、その間から僅かに聞こえた、感染者特有の言語を失った唸り声。
ザクザク、と新雪を踏みしめる音が耳障りだ。
あれは多分間に合わないだろうということに、八年の間狩猟官として前線を歩み続けた俺の勘が告げていた。
細くうねった路地を進み、湿度を帯びた小道を駆け抜けた先──そこに広がっていたのは、想像していた通りの凄絶たる惨状である。
狩猟官たちの遺体は無惨にも食い荒らされ、あたり一面に血と肉片が散乱していた。そこには十から二十の感染者が死体を囲むように一心不乱にそれを下品な水音を立て貪り食っている。奴らの隙間から見えた奴らのデスマスクは恐怖と苦悶に歪み、まるで食い殺される激痛と絶望を如実に語るかの如くであった。
「あ~ぁ、ま、こんなもんだろ」
間に合わないのは分かっていたこと。腰元に携帯してた特殊警棒を一振りすれば、カチンと刻み良い音を鳴らし三倍ほどに伸長する。
俺の声に反応した『数匹』の感染者が振り返る。……もともと人間だとは思えない程、落ち窪んだ眼窩に、明らかに死者の色を成した肌、そして奴らを取り巻く濃厚な死の臭いが自棄に鼻についた。
感染者が喉から絞り出すようなうめき声と共に、緩慢な動きで俺へ接近してくる。
だが、奴らが来ているのはあくまで前方のみ。
「囲まれなきゃ案外どうにでもなるもんなんだよ」
特殊警棒のグリップを握りなおし、俺は一気に感染者に突っ込んだ。振り下ろした一撃が感染者の頭蓋を潰し、そのまま横薙ぎに振ると二匹目の首が嫌な音を立ててねじ切れる。
死者の群れを切り裂きながら、俺の呼吸は乱れ、手元には奴らの体液がこびりつく。ふ、と一呼吸を付きつつ、冷静さを保ちながら一匹ずつ撲殺していく。
いつからだろうか、奴らを殴り殺すことになんの感慨すら覚えなくなったのは。
いつからだろうか、目の前に転がった陰惨な亡骸に対し憐れみこそ覚えても悲しみを抱かなくなったのは。
十分にも満たない時間だっただろう。最後の一匹を仕留め、深い息をついた。周囲には感染者たちの死骸が転がっている。だが、冷たい勝利の感覚が胸を満たす前に、何かが引っかかる。
「……一人、足りねぇな」
狩猟官の小隊は四人で組むのが定石。転がっている死体は酷く損壊されているものの辛うじて三人。一人、いない。
完全に奴らの腹ん中に納まったのかと考えるも、感染者は純粋に食べ残しが多いこともあり、多分その線は薄い。
……逃亡したのか。だとしたら生きているかもしれない。
その期待は周辺をうろうろし、一つ目の角を曲がったところで打ち砕かれる。
半壊した民家。数体の感染者らしき死体が転がっている。瓦礫に隠れたところで、若者が一人の感染者に腸を食われていた。しかも生きているらしく、喰われながらもその眼差しの焦点が俺へ力なく向けられる。
血を逆流させながら助けて、とゆっくり口にする若者。その手に握られているのは無線機だ。どうやら彼が俺へ連絡していたようである。
すぐさま俺は特殊警棒を振り下ろし、生卵のように奴の頭蓋骨を破砕した。一際大きい呻き声を発し、感染者がドシャリと糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
「大丈夫か?」
感染者が全滅したことを再確認した俺が若者の前に立つ。……腸は大きくえぐれ、内臓や骨が露出している。呼吸も浅く、意識も最早朦朧としている有様だ。
彼のことを俺は知っていた。大学を卒業し狩猟官となった奴で、良く俺に引っ付いていた。可愛げがあって、妙に馴れ馴れしく距離を詰めてくる、世間一般で言う良い奴だった。
「お前、病気の姉のために稼ぐって言ってたな」
いつだっただろうか、酒の席でこいつは態々隣へ腰を下ろし、ロックグラスを手に豪語していた。『俺は浅学ですが、それでも必死に育ててくれた姉に恩返しをしたいんです。そのために多少リスキーでも、頑張って挑んでいくつもりです』と。
助からないな。
若者がゴポゴポと血潮を口から流しながら、苦しそうに言う。
「た、すけ……て……。い、たい……よ……」
俺はその若者の苦しそうな顔を見下ろす。助ける術はない。これ以上生きていても、彼に待つのはさらなる痛みと絶望だけだ。
カチャリ、とホルスターから拳銃を抜き、若者の顔に向ける。
「……楽にしてやる」
介錯は慣れている。長く第一線を張っていれば、遅かれ早かれ死にきれず苦しむ『人』を殺すことになるのだから。
彼は薄く目を開き、俺を見た。その目には恐怖と僅かな期待が混じっていたが、俺の決意を悟ったのか、力なく瞼を閉じた。
撃鉄を引いた。眉間に風穴があき、彼は満足な遺言も残さず逝った。狩猟官は、まともな奴ほど早死にすると誰かが言ってたが、まさしくその通りのようである。




