第九話 無力の代償
闇を裂くような金属音が響いた。火花が散り、夜の静寂を一瞬でかき消す。剣と剣が激しくぶつかり合い、そのたびに風がうねるように舞う。
「クリス、気を抜くな!」
アトムの鋭い声が飛ぶ。その前には、大型の魔物が数体、牙をむいて唸っていた。巨大な狼のような魔物が、鋭い爪を振り下ろす。
「抜いてねぇよ!」
クリスは素早く体を捻り、魔物の爪をギリギリで回避すると、そのまま低く構えた剣を跳ね上げるように振るう。
刃が肉を裂き、鮮血が夜空に舞う。
その動きにはかつての頼りなさは微塵もなく、鍛え抜かれた技と研ぎ澄まされた感覚が宿っていた。
「はっ、前だったらこんなでかいの見ただけで尻込みしてたのにな!」
クリスは口元を歪め、笑みを浮かべる。
「調子に乗るな、戦いは最後まで油断するなと言っただろう!」
アトムは鋭く言い放ち、素早く剣を構える。その刹那、背後から別の魔物が飛びかかった。しかし、彼はそれすらも察していた。
振り向くこともなく、アトムは剣を大きく振り払う。
「——遅い。」
刹那、鋼の刃が閃き、襲いかかる魔物の首を正確に刎ね飛ばした。魔物の巨大な体は前のめりに崩れ、地面に激突する。
クリスはその光景を目の端で捉え、舌打ちをする。
「くそっ、爺さん相変わらず化け物みたいに強ぇな!」
「言ったはずだ、戦いにおいて経験と技術がものを言う。お前はまだまだ未熟だが……」
アトムはちらりとクリスを見やる。
「それでも、随分と成長したな。」
その言葉に、クリスはほんの一瞬だけ目を見開く。しかし、すぐに口元を引き締めた。
「そりゃあな! 俺はもう昔の俺じゃねぇ!」
クリスは再び前へ踏み込む。目の前の魔物が雄叫びを上げ、牙を剥いた。
「行くぜ……!」
彼は力強く地面を蹴り、一直線に魔物へと突き進む。剣を構え、次の瞬間——
閃光のような一撃が魔物の胴を裂いた。
◆
夜明け前、村の外れには魔物たちの死骸が転がっていた。
それらのほとんどは、一晩の戦いで仕留められたものだが、魔物の数が予想よりも少なかったことにアトムは気付いていた。
「……ふむ。数は思ったより少なかったな。」
アトムが血の滴る剣を肩に担ぎながら、魔物の死体を見下ろす。
「楽勝だったな! いや、マジで俺、前よりめちゃくちゃ強くなってる気がするぞ!」
クリスが剣を軽く振るいながら満面の笑みを浮かべる。
「調子に乗るな。これは元々魔物の数が少なかっただけだ。」
アトムは言葉を濁しながら、死骸のいくつかを蹴り転がした。
「こんなに魔物が少ないのは不自然だ……。最近、妙な動きをする魔物もいるしな。」
クリスは「なんだよ、それ」と不満げに言いながらも、アトムの様子を見て黙った。
「ま、少なかったのなら、それに越したことはないか。ともかく、村は無事だった。」
アトムはそう言い、血を拭った剣を鞘に収めた。
村の戦士たちが安堵の息をつく中、戦いの気配が消えたことを確認した村人たちが家から出てきた。緊張が解け、ようやく静けさが戻る。
◆
「母さん……本当に村を出るつもりなの?」
戦いが終わり、少し落ち着いた後の家の中で、僕は母に問いかけた。
母さんはゆっくりと椅子に腰掛け、僕を見つめる。
「ええ。もう、ここにいるのは危険すぎるわ。」
「でも、まだ決まったわけじゃないし……村長もまだ迷ってるみたいだし……!」
僕は焦るように言った。だけど、母さんは首を横に振った。
「迷っているからこそ危ないのよ。貴族たちは引き下がらない。ここにいれば、また魔物が襲ってくるかもしれないし、別の手を使ってくるかもしれない。次は、誰かが巻き込まれるかもしれないのよ?」
「それでも……!」
僕は言葉を詰まらせる。母さんの言うことは正しい。僕自身も、貴族がどこまで強硬手段に出るかわからないことを理解していた。
「僕が……僕がもっと強ければ……!」
拳を握る。あの日、戦いの最中で何もできなかった自分の無力さが脳裏をよぎる。
アリスが僕の袖を引っ張る。
「お兄様……そんなに悲しまないでください。」
「アリス……。」
「私たちはまだ家族です。どこにいても、お母様がどこへ行っても、家族なのは変わりません。」
アリスの言葉に、僕は少しだけ息を整えた。そうだ。僕にはアリスという守るべき妹がいる。母さんは僕が守る必要なんてないほど強いんだ。だから、僕はアリスを守らないと。
そう考えるバレットの傍らで、アリスの目は、その瞬間だけ、ほんのわずかに細められていた。
(これでようやく……邪魔者がいなくなる。)
彼女の胸の内で冷たい笑みが浮かぶ。
(お母様がいなくなれば、もう誰も私のやり方に口出しはしない。お兄様を守るために、誰にも邪魔されず、自由に……。)
だが、その邪悪な思考を隠すのは、彼女にとって容易いことだった。
「お兄様、私はお兄様と一緒にいられれば、それでいいんです。」
アリスは微笑み、バレットの手をそっと握った。
◆
一方、村の中央では、村長が頭を抱えていた。
「……どうすればいい。」
彼の前には数人の村の有力者たちが集まっていた。
「やはり、引き渡すべきだろう。あの魔女がいるから、村が危険にさらされている。」
「しかし、彼女がいることで村はこれまで助かってきた部分もある……農作物の成長促進や薬草の栽培、どれも彼女の魔法があってこそだ。」
「だが、このままではいずれ村が滅ぼされるぞ……。」
意見はまとまらなかった。
その時——。
「決める必要はないです。」
静かな声が響いた。
村長が顔を上げると、そこには母が立っていた。
「私は、ここを去ります。」
その言葉に、村人たちは息を呑んだ。
「お前……。」
「私がいなければ、村は貴族からの圧力を受けることもなくなるでしょう? それなら、私が消えれば済む話です。」
母さんの決意は固かった。誰も反論できなかった。
村の存続と、家族の安全。どちらも守るために。
「……村長さん、今までありがとうございました。ご迷惑を沢山おかけしました。」
母さんは静かに頭を下げた。
その背中を見て、僕はただ——
拳を握りしめることしかできなかった。
無力な自分が、悔しくて仕方なかった。