第三十七話 甘美なる夢
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日が傾き、屋敷の窓から差し込む夕陽が長い影を作っていた。
クリスとの長い訓練と朝の食卓での居た堪れなさから、僕はなんとなく疲れていて、自室へ戻ることにした。廊下を歩いていると、アリスが静かに近づいてくる。
「お兄様、少しお時間をいただけますか?」
アリスの声音は穏やかだったが、どこか奇妙な響きを帯びていた。何かを確かめるような、そして僕を誘導するような。
「ん? どうかしたのか?」
「いいえ。ただ……お兄様にはもう少し、しっかりと休んでいただきたくて。」
アリスは小さな銀のカップを差し出した。そこには湯気の立つハーブティーが入っていた。香りは心を落ち着かせるような甘いもので、疲れていた僕にはちょうどよく感じられた。
「ありがとう。」
何の疑いもなく、僕はカップを手に取り、一口含む。すっと喉を通り、心地よい眠気が広がる。
アリスはそんな僕をじっと見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「お兄様……おやすみなさい。」
その言葉を最後に、意識がゆっくりと霞んでいく。
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夜の静寂が屋敷を包み込んでいた。
長い一日を終え、僕はベッドの上で深い眠りに落ちていた。戦いや陰謀の疲れが蓄積し、体は心地よい倦怠感に包まれていた。だが、その夜の眠りは、いつもとは違っていた。
柔らかな闇の中、僕は奇妙な夢を見た。
どこか遠い場所。温かく、甘い香りが漂う場所——。
体が重い。だが、その感覚は不快なものではなく、むしろ心地よい。まるで絹の波に包まれるように、ゆっくりと沈み込んでいくようだった。
指先に感じる何かの温もり。いや、温もりというには生々しく、艶やかで——。
(……なんだ……?)
頭がぼんやりとする。まぶたは重く、意識が霞んでいる。夢の中の出来事なのか、現実なのかすら分からない。けれど、その感覚はあまりにも鮮明で——。
風が吹いたような気がした。だが、それは夜風ではなく、息遣いのようにも思えた。
囁き声が聞こえる。とても甘く、耳元でそっと紡がれる声——。
(……アリス……?)
名前を呼ぼうとしたが、声は出なかった。夢の中で、僕はただ流されるままに、甘い波に身を委ねるしかなかった。
まるで、心の奥深くに入り込まれたような、そんな感覚。
やがて、その波は引いていき、再び静寂が訪れた。
体はまだ重い。だが、不思議なことに満たされたような気持ちが残っていた。
そして、次第に意識が覚醒し始める。
ゆっくりとまぶたを開くと、部屋には静かな闇が広がっていた。
隣に誰かがいた気がする。だが、それは夢の中の出来事だったのかもしれない。
僕は深く息をつき、再び眠りの中へと落ちていった——。




