第三十話 代償
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月明かりが差し込む部屋の中で、僕は小さなガラス瓶を握りしめていた。指先にじんわりと汗が滲む。
「バレット様、あなたはこの力を手に入れますか?」
ロザリアさんはワイングラスを傾けながら、静かに微笑んだ。その瞳は月光を受け、妖しく揺らめいている。美しくもあり、どこか底知れぬ深さを秘めた眼差しだった。
僕は息を飲み込み、目の前の瓶を見つめた。揺れる淡い紫色の液体——その中には未知の力が眠っている。しかし、それがどのような代償を伴うのか、僕には知るすべがなかった。
強くなりたい——。
その一心で、僕は躊躇わずに瓶の封を開けた。途端に鼻を突く、甘くも鋭い香り。それは魅惑的でありながら、どこか本能的に危険を感じさせるものだった。
だが、僕は迷わなかった。
すべてを振り払うように、一気に喉へと流し込む。
——その瞬間、地獄が訪れた。
胃の奥で液体が爆ぜたような感覚が走る。それが脈を伝い、まるで灼熱の炎となって全身を駆け巡る。
「……ッ!!!」
言葉にならない悲鳴が喉で詰まり、視界がぐらつく。
骨が軋む。筋肉が弾ける。皮膚の内側で何かがねじれるような感覚。全身が灼け付くような痛みが襲いかかり、意識が弾け飛びそうになる。
僕は膝から崩れ落ち、床に手を突いた。呼吸ができない。心臓が強く締め付けられ、鼓動が乱れる。
「ぐ……っ、ああああああ!!!」
床に爪を立てる。痛みに耐えようと体を丸めるが、どんな姿勢を取っても逃れることはできない。まるで体の内側から引き裂かれるような——。
「言い忘れていましたわ。」
ロザリアさんの声が、遠く響いた。
彼女は椅子にゆったりと腰かけ、僕を見下ろしていた。脚を組み、優雅にグラスを傾ける。その表情には一切の動揺もなければ、焦りもない。ただ淡々と、まるで些細な出来事を語るように言葉を続ける。
「もし、その激痛に耐えられず気絶したら——死にますよ?」
——何だと!?
驚きに目を見開き、彼女を見ようとしたが、視界が歪む。言葉を発しようとするが、喉が詰まり、声が出ない。代わりに唇から漏れ出るのは、苦悶に満ちた呼吸だけだった。
「無理もありませんわね。痛みで言葉を紡ぐ余裕などないでしょう?」
ロザリアさんは軽く肩をすくめると、興味深げに僕を見つめた。その瞳には冷淡な光が宿りながらも、その奥底にはほんの僅かな期待の色が見え隠れしていた。
「もし痛みに耐えられないなら、それまでの人……寵愛を送るにふさわしくはありません。」
視界が揺れる。意識がぐらつく。痛みで頭が割れそうだ。
「まあ、今まで無理やり飲ませた騎士たちは、みな死にましたが……。」
さらりと語られたその言葉は、恐怖という感情を引き起こすには十分すぎるほどだった。しかし、それを考える余裕すらない。痛みによって、僕の思考は断絶されつつあった。
ロザリアさんはそんな僕を眺めながら、微笑を深める。
「でも……」
まるで夢を見るような声色で、彼女は囁いた。
「あなたなら……私が運命の人だと確信したあなたならば……耐えられると信じていますわ。」
僕の耳には、もう彼女の声は届いていなかった。
痛みだけが全てだった。
僕の体は、今まさに何かが変わろうとしている。血管が軋み、肉が張り裂けるような感覚がある。けれど、その奥に、確かに何かが生まれようとしている。
……死ぬわけにはいかない。
意識が遠のきそうになるたびに、奥底に眠る本能が叫んでいた。
僕は何のために強くなりたかった?
クリス、アリス僕が死ねばみんなを悲しませる。それに、僕にはまだ、成し遂げなければならない夢がある!!!
「……っ、く……そ……ッ!!!」
全身に力を込め、床を叩く。
こんなところで終われるか。僕は、僕は……!
ロザリアさんはワイングラスを揺らしながら、ゆっくりと目を細めた。
彼女の瞳には、わずかな期待の色が浮かんでいた。
「ふふ……やはり、あなたは——」
ロザリアさんの声が、遠くで微かに響く。
僕はただ、痛みに耐えながら、生き延びるために必死であがき続けるしかなかった——。
体の奥底から、何かが変わろうとしているのを感じながら——。
◆
「やってくれましたね。」
鋭く、静かな声が闇を切り裂いた。
ベッドの上では、バレットが静かに寝息を立てていた。肌にはまだ苦痛の名残が色濃く残り、汗が滲んでいる。その隣で、ロザリアが身を寄せ、彼の髪を優しく撫でていた。時折、指先で頬をなぞり、慈しむように唇を寄せる。まるで、大切な愛玩具を手に入れた子供のように、飽きることなくバレットの肌に触れていた。
しかし、その光景を目にしたアリスの瞳は、冷たく、張り詰めた光を宿していた。
「騎士たちにあなたの足止め頼んでいたのですが、随分とお早い到着ですわね。」
「十分な仕事をしたと思いますよ。全滅させるのに時間がかかりました。何人か亡くなった方もいるでしょう。そのせいで、こんなことになってしまいました。」
その言葉には静かな怒りが滲んでいた。しかし、その怒りの裏には別の感情が渦巻いていた——恥辱。痛烈なまでの自己嫌悪。
バレットの安全と幸福、それだけが彼女の望みだった。自分がそばにいる限り、彼が傷つくことはないと信じていた。バレットだけは絶対に守る——それが彼女の信念だった。
しかし、彼は今、苦痛にまみれた姿で横たわっている。苛立たしい女の隣で。
それも、自分の甘さゆえだった。
ロザリアがここまでのことをするとは思いもしなかった。
好きな人には安全で、幸せでいてほしい——アリスはそう考えていたし、誰しもそう願うものだと思っていた。だが、目の前のロザリアは違った。彼女はバレットを苦しませ、命の危険すら顧みなかった。それなのに、ロザリアはその行為を愛と呼び、彼の髪を撫でて微笑んでいる。
——私の考えが甘かった。
心の奥底で、静かに、けれど確実に自己嫌悪が膨れ上がる。
ロザリアはそんなアリスの視線に気づきながらも、満足そうに微笑む。
「まあまあ、落ち着いてくださいな。結果として、バレット様は無事生き残ったのですから、そこまで怒る必要はないでしょう?」
そう言いながら、ロザリアはバレットの首元に唇を寄せ、そっと触れる。まるで所有を示すかのような、愛撫の仕草。
「無事……ですって?」
アリスはゆっくりと歩み寄る。その足取りには迷いはなく、瞳はロザリアを鋭く捉えていた。バレットの額に浮かぶ汗を見つめながら、次にロザリアの目をまっすぐに射抜いた。
「あなたが与えた薬のせいで、お兄様がどれほどの苦痛を味わったか……。」
喉奥から搾り出されるような低い声。感情を抑え込もうとしているのが分かる。それでも、怒りの炎が消えることはなかった。
ロザリアは軽く肩をすくめ、笑みを浮かべた。
「ふふ、随分と過保護ですのね。そんなだから、バレット様は力をつけられず、あなたたちとの実力差に日々苦しんでいたのではなくて?」
「お兄様は私に守られていればいいのです……。」
アリスの言葉には迷いがなかった。しかし、ロザリアはそれを可笑しそうに笑う。
「意見の相違ですわね。私は好きな方には、私と並ぶ力を身につけてほしいのですわ。」
ロザリアはバレットの髪をゆっくりと梳く。その仕草はまるで、アリスの存在など気にも留めないと言わんばかりだった。
アリスの唇が、怒りのあまり震えた。
「……そのせいで、死の危険を与え、しかも、今後、この薬……定期的に摂取しなければならないと?」
ロザリアは微笑を深める。
「まあ、そういうことになりますわね。」
アリスの目が鋭く光る。
「つまり、お兄様はあなたに依存せざるを得ないというわけですか。」
「ええ、それが何か?」
ロザリアはまるで子供をからかうように言いながら、バレットの指に自分の指を絡める。そして、満足そうに微笑みながら、そっと耳元に囁いた。
「それに、アリスさんだけが私を脅せるのは、不公平ではありませんこと?」
アリスの表情が険しくなる。だが、ロザリアは余裕の笑みを崩さない。
「でも、安心してくださいませ。あなたのことは嫌いですが、私が飽きない限りは、バレット様に薬は提供し続けますわ。」
そう言って、ロザリアはバレットの頬に軽くキスを落とした。その微笑みの奥には、純粋な支配欲と興味が見え隠れしていた。
「飽きっぽい性格の私が言うと少し不安にはなるかもしれませんが。」
その言葉は、アリスにとって決定的な屈辱だった。
彼を守れなかったこと。彼をこの女に委ねざるを得ないこと。
この敗北を、彼女はどう償えばいいのか——。
アリスは静かに息を吐く。
ロザリアはバレットの髪を梳きながら静かに微笑んでいた。彼の体温を感じることで、確かな支配を実感するかのように——。
「さて、これからどうなるか……楽しみですわね、アリス様。」
アリスの目には、静かな決意が宿っていた。彼女は二度と、このような失敗を繰り返さない。
それだけは、絶対に——。




