第一話 夢の始まり
一日一話投稿が目標です。
幼い頃、僕は一冊の本に夢中になった。
それは、偉大な英雄の物語だった。貧しい農民の少年が成長し、魔物を討ち、戦場で活躍し、貴族の地位を手にし、数多の美しい女性たちを従える。彼は強く、賢く、何よりも華やかだった。
その物語を読んだ僕は決意した。
「僕も英雄になる!」
英雄になれば、財も地位も力も手に入る。そして何より、ハーレムが作れる。美しい姫君や誇り高き騎士、聡明な魔法使いが僕を慕い、僕の傍にいる。そんな生活を夢見て、僕は幼いながらも胸を躍らせた。
けれど、現実はそう甘くない。
僕は農民の家に生まれた。父はおらず、母と妹がいる。生活はそこそこ安定しているものの、貴族のような贅沢な暮らしとは程遠い。だが、それでも諦めるつもりはなかった。
「英雄になるには、どうすればいい?」
僕は母に尋ねた。
「うーん……英雄になるには、大きな功績を残すことかしら」
功績。つまり、何かすごいことを成し遂げればいいんだ。
僕はその日から、自分なりに考え始めた。
そう決意し、さっそく母さんに「どうすれば偉くなれるのか」を尋ねてみた。
「うーん、そうね……。基本的には、大きな功績を残すことかしら」
「大きな功績?」
「例えば、国に貢献したり、敵国との戦争で活躍したり、すごい発明をしたり……」
そういえば本の英雄も竜殺し?とやらの功績で貴族になったと書いてあった。
でも、魔物は強くて怖い。
奴らは突進すれば巨木を薙ぎ倒し、口を開けば毒を吐き、その巨体は簡単に人間を殺す。
うん、怖いから近づきたくもない。
じゃあ、魔法はどうだろう?
魔法が使えれば、優位に立てるかもしれない。
「母さん、魔法ってどうやったら使えるの?」
ある日、僕は母さんに尋ねた。
「魔法? そうね、人によって使える魔法は生まれつき決まっているのよ」
「じゃあ、僕も魔法が使える?」
「ええ、使える可能性はあるわ。ただし、まずは魔力を知覚し、精霊と繋がることが必要よ」
母はエルフの血を引いているらしく、魔法の扱いに長けていた。彼女の話では、魔法は精霊の力を借りて発動するものらしい。
「精霊?」
「そう、人間はみんな生まれた時から自分を見守る精霊がいるの。その精霊にお願いすれば、魔法を使わせてもらえるのよ」
「どうやってお願いするの?」
「まずは、自分の魔力を感じることね。魔力を操ることができれば、そのうち精霊が答えてくれるわ」
そうして僕と妹のアリスは、魔力の制御の練習を始めた。
最初は何も感じられなかった。だけど、母と手を繋ぎ、魔力を流してもらいながら練習を続けるうちに、ほんのわずかに温かい何かを感じるようになった。
「……なんか、わかった気がする!」
そう言ったのは、僕ではなくアリスだった。
「えっ、本当に?」
「うん! 精霊さんが教えてくれた!」
アリスは満面の笑みで母を見上げた。
「それで、なんて?」
「《死者を操る魔法》《死者の力を奪う魔法》《死者に力を与える魔法》だって!」
その瞬間——。
母の表情が凍りついた。
それは、まるで敵を見つけた時のような、鋭い視線だった。
そして次の瞬間、母は衝動的にアリスを突き飛ばしていた。
アリスの小さな体が床に叩きつけられる。
「え……ママ?」
アリスは突然のことに困惑し、怯えた目で母を見上げた。
だが、母の瞳にはもはや慈愛の色はなかった。
「バレット……アリスのことは忘れなさい。ここで始末します。」
母の震える声が、静かな部屋に響いた。
「母さん、どうしてそんな話になるの?」
「精霊様は、その人間の本質に合った魔法を授けるの。あれほど邪悪な魔法を持つ者は……」
母の手が震えている。だが、それでも彼女は決断しようとしていた。
「……アリスは、このまま成長すれば、きっと取り返しのつかない存在になる。闇の力を持つ者は、いずれ闇に飲まれるわ。そうなる前に……」
アリスは泣きそうな顔をしながら、母に必死にすがった。
「ママ……違うもん!わたし、そんな怖いことしないもん!」
母の手が震える。
——このままではダメだ!
脳裏に雷が走るような感覚がした。
急速に広がる感覚。心の奥底から湧き上がる熱。
僕の内側から、確かに何かが目覚めようとしていた。
視界が揺らぐ。
次の瞬間、意識の奥で微かに声が響いた。
——お前の願いを叶えよう。
——お前の力を与えよう。
その瞬間、僕の体の内側から力が溢れ出すような感覚がした。
「《精神を落ち着かせる魔法》!」
淡い光が部屋の中を満たした。まるで春の陽射しのように穏やかで、優しく包み込む光だった。その光が母さんの全身を覆い、彼女の硬直していた指先がわずかに震える。
母さんの表情が徐々に変化していく。鋭く吊り上がっていた眉が緩み、こわばっていた口元がほのかに和らぐ。先ほどまで怒りと恐怖に満ちていた瞳には、次第に理性と穏やかさが戻ってきた。
僕は心臓を強く鼓動させながら、母さんの目をじっと見つめた。
「……母さん、落ち着いて」
僕の声は震えていた。それでも、できる限り優しく語りかける。
「アリスは、何もしていない。ただ、自分の魔法を知っただけだよ」
母さんはハッとしたように目を瞬かせ、視線を下げる。そこには床に座り込んだアリスがいた。怯えた瞳が母さんを見上げ、薄い唇を噛みしめていた。
アリスはまだ幼い。たったの六歳だ。僕よりも小さくて、母さんに守られるべき存在だった。そんな彼女を、母さんは——自分の手で傷つけようとしていた。
「……わたし、そんな悪いことしてない……」
アリスのか細い声が、沈黙の中に響く。
「ママ……怖いよ……」
その言葉が母さんの心を締め付けたのだろう。母さんは、まるで自分の罪を認識したかのように息を詰まらせた。
——母さんは優しい人だ。少なくとも、僕はそう信じている。
けれど、今の彼女はその優しさを見失い、恐怖に支配されていた。きっと、アリスの魔法を知った瞬間、母さんの中で何かが壊れかけたのだろう。
でも、それでも——
「母さん」
僕は意を決して、母さんの両手をそっと握った。
「アリスの魔法は確かに怖いかもしれない。でも、それが彼女のすべてじゃない」
母さんの瞳が僕を見る。
「精霊がくれる魔法は“可能性”なんだ。確かに、怖い力かもしれない。でも、それをどう使うかはアリス次第だよ」
母さんの指が、僕の手の中で微かに震える。まだ完全に納得したわけではないのだろう。でも、さっきまでのような激情は、もうそこにはなかった。
「……もし、アリスがその力を悪いことに使ったら?」
母さんは、辛うじて言葉を紡ぐ。
僕は一瞬だけ考え、そして迷いなく答えた。
「その時は、僕が止める。どんなことをしてでも」
自分でも驚くほど、強い口調だった。
「だから、今は信じてあげて」
母さんの表情が苦しげに歪む。
——信じる。
それが、どれだけ難しいことなのか、僕はまだ完全には理解できていない。
けれど、目の前のアリスは、母さんに信じてほしくて泣いている。
僕は兄として、彼女の味方でいたかった。
母さんはゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。
そして、震える手で、そっとアリスの頭に触れる。
「……ごめんなさい、アリス」
アリスは一瞬、何が起こったのかわからないように母さんを見つめていた。
でも次の瞬間、小さな腕を伸ばし、母さんにしがみつく。
「ママ……!」
母さんは、そっとアリスの背を撫でる。
まだ完全に受け入れたわけではないかもしれない。
それでも、今は——
家族の形が、かろうじて保たれた瞬間だった。