表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

樹海の底 ⑦

   義樹の手記⑥


 私は子を持ちたかったのだろうか。過去を振り返り、また現在の自分の心境を見つめ、改めて自分に問うてみる。当時の私は子供のことなど考えていなかった。結婚当初のことだ。妻と話していると単純に楽しく、今まで空虚だった心が満たされていくような気持ちになった。愛されているという実感があった。私のために食事を用意し、身の周りのことをやってくれる人がいるというのもありがたかった。結婚するまでは自分は一生独りでいようと思った。女に不器用であったし、好かれるタイプではなかったからだ。孤独を自ら好み、人生を諦めているところがあった。けれども、継母は次々と見合い話を持ち込んできて、断ることもできずに受けた。素の自分を見せずに相手と接していたせいか、私自身、結婚にやはり前向きではなかった。取り繕い、恰好よく見せていた自分には難しいと思っていたのだ。私は何度か継母に結婚はしたくないと申し出た。しかし、継母は受け入れてはくれなかった。結婚をし、子供を持つのだと強く言われた。私にはまだその気はなかったが、継母は若く美しい人を連れてきてくれた。それが私の妻である。最初は嫌われるのではないかと臆病になっていたが、相手も慕ってくれ、私もその気になった。継母は私のプライドを満たしてくれる理想的な女だと思っただろう。継母は妻のことを、心身共に健康で活発で職業も申し分ないと私に言ったのを覚えている。私は妻を尊敬していた。自分より優れた存在だと思っていたからだ。結婚は内心怖かったが、してみるとなんということもなく、もっと早くにすればよかったと思った。都合のよいことに、妻は継母と私のいる家に嫁いでくれたのだから、私にとって文句はまったくなかった。

 結婚とは何であろう。結婚と同時に、妻は子供を望んでいることを知った。継母も当然のように思っていた。しかし、私だけは子供を欲しいとは思えなかった。この幸せな生活がずっと続けばよいと思った。それ以上のものを望んではいなかった。そもそも、街中を歩いている子供を見ても、少しも可愛いとは思えなかった。素直な子供もいずれ生意気になり、成長して大人になることが、私にとっては恐ろしいことでもあった。私は、自分が子供の頃は腺病質で頼りなげであり、大人を煩わしてばかりいたと思う。それでも生きている限り大人になり、こうして生きて年老いた。それが怖かった。同じことを繰り返すような気がしていたからである。子を持てば、自分も子供時代に戻って接するようになるはずだ。弱かった自分とその分身を重ね合わせるような作業が恐ろしく思っていたのだ。私にはとても出来ないと思った。そんなことを軽くではあったが、継母に言ったと思う。

「私は子供が欲しくないんです」

 そうはっきり言ったと記憶している。そして、継母は私を宥めるように言った。

「子供を持たなくては、一人前にはならないでしょ。子供がいてやっと大人になれるというのに。私は許しませんよ。あの人なら子供をしっかり産んで育ててくれるでしょうし。所詮、育てるのは女だから、男はたいして関わる必要なんてないわけです。女に任せておけば子供は成長するものだから。それに、あの人は活発な人だから、子供もそうなるでしょう。だから、子供が欲しくないなんて言ってはいけませんよ」

 私は継母の言葉を信じ、そして子供を持ったのだ。私は子供を持ったのは年齢的に遅かったが、継母も妻も何の疑問も抱かずに子であり、孫であるあの娘を可愛がったのだ。その数年後継母はあの世に旅立っていったが、死の数日前には私にこんなことを言った。

「あなたを育てるのは大変だった……。だけど、こんなに大きくなって孫まで私に抱かせてくれた。私の誇りです。子供はいずれあなたを助けてくれるでしょう。あなたを支えてくれる、そんな子に育つでしょうよ」

 私は悲しくなかった。継母が旅立ってしまっても、自分の生きる術をすぐに考えた。それまでは継母を慕う傾向があったが、妻に寄り添う仕草をした。妻を支えるというより、私自身が生きるために妻に振り向いてほしかったのだ。しかし、妻はあの娘に付きっきりになった。妻は、母親という生き物に変貌していたのだ。私は自分のプライドを切り裂かれたようだった。妻とあの娘を見ていると、なんだか嫌気がさしたが、それでも我慢をした。継母の言うように、あの娘が大人になったら、私のことを支えてくれるのだと信じていたのだ。

 一体、何がいけなかったのであろう。長い年月が経つと、妻は図太くなり、言いたいことを言い、私に敬意を払うこともなくなってしまったように思う。それは、すべてあの娘のせいである。そもそも何不自由なく育ったにも関わらず、二十歳を超えてあのような人間になってしまった。私は少しばかり期待していたのだ。あの娘が年老いていく私たちを気遣い、うまく生かしてくれるよう道具になってくれることを。しかし、そんな道具にすらならない。私が一生懸命働いた金で自分が生活しているのだ。呆れてしまう。継母が言ったようにはならなかった。それを今になって知ることになった。私の判断は正しかったのだと思う、子供が欲しくなかった私が一番正しかったのだ。なぜもってしまったのだろうか。継母に従ったばっかりに、こんなことになってしまった。今になっては後悔しかない。子供が産まれない理由を妻のせいにすればよかった。私は男だからどうとでもなったはずだ。

 今朝も神社に足を運んだ。最近はそんなことばかりである。私は手を合わせて祈ることしかできない。この世の不条理を、うまくいかないこの世を呪っては神に祈るのだ。誰にも私の心の声など届きはしまい。それでも、私は神社に行くのだ。ここに来ると、目に見えない不確かなものを信じられる気持ちになる。あの娘の内面を知らぬように、私を待ち伏せている真っ暗な未来よりも、神々しい光を放つ未来に手を合わせたいのである。

『私は自分を守るために生まれてきたのです。私は誰のためでもなく、自分の人生を歩みたいのです。妻子のためではなく、自分のためだけに。それはいけないことでしょうか。口に出さないだけで、誰もが自分自身のために生きているのです。私の心など誰も受け入れてはくれないでしょう。だから、祈るのです。あの娘は私の人生を台無しにします。私の顔に泥を塗るような子です。もしママがいるのなら、ママに頼みます。ママは神の近くにいるでしょう。私を助けてほしいのです。近頃、ママに頼み事をするような私になってしまいました。情けなくもあります。あの世はどのようなところでしょう。この世は汚いことばかりです。あの娘もこの世で穢れてしまっています。私を助けてください。ママならきっとわかってくださると思います。私の苦しみを、私の憎しみを理解してくれるでしょう』

 神はママであり、ママは神であるのだろうか。私の心は混同している。神社に行くと、私はどこかおかしくなるようだ。愛とはなんなのか。私は最近こう思う。愛とは独りで歩いていくことだとしみじみ思う。所詮誰もが独りなのだ。あの甘えた娘もそうである。独りで人生を歩いていく覚悟がないから、あんな怠けた生活を送っているのだ。だが、私や妻が犠牲になって子を育ててきたのだから、責任をとってもらおう。あの娘は私たちの人生の終末まで見送るということだ。それくらいできるであろう。私が父や継母を見送ったように、あの娘には責任というものがあるのだ。あの娘は何を考えているのだろう、このたった今。私がこんなことを記している間、自分の部屋でのうのうと寝ているのであろう。ママは必ず見ているのだ。私を残して死んでいったママは悔やんでいるであろう。私への愛をたった独りで見守っているであろう。だから、この私を助けたいと思っているに違いない。私は自分自身の人生を、曲がることなく歩んでいきたいのである。ママに恥じぬように……。




 和子は近所のデパートでかつての教員仲間に出くわし、赤野美代子が膵臓を悪くして入院しているのだと耳にした。一ヶ月ほど前に電話があったはずで、何の変わりのない電話だった。赤野は元気がよく毒舌で、とても不愉快な電話であったことを和子は記憶している。その教員仲間の話では、赤野美代子は東飯能駅近くの楓病院に入院していて、あまり調子がよくないのだと言う。和子は電話で話したことを思い出しては病気であることが信じられなかった、しかし、十年以上前に自分が肺炎を患ったときに見舞金を受け取ったことを思い出し、見舞いに行かなくてはならないと思った。教員仲間からは二階の個室にいると聞いた。和子は赤野美代子が病気になっているとは信じがたかった。電話では皮肉たっぷりに話し、体調の悪さなど微塵も感じさせなかったからだ。和子は気乗りがしなかったが、見舞金を包み、午後一時過ぎに家を出た。

 東飯能駅の改札口の前を通ると、制服姿の学生たちが通り過ぎていくのを目にした。大きな笑い声も聞こえる。はつらつとして悩み事などなさそうに見える。何年か前は由依も制服を着て学校に通っていた。あんな姿だっただろうかと思いながら、そんな光景と由依を重ね合わせていた。自分もかつてあんな学生だったはずだが、あまりに遠い過去であり、大声で笑えるような感覚さえ思い出せずにいた。若さこそ買うことのできない宝のように思いながら、由依はなぜあんなふうなってしまったのだろうと思った。和子は少し憂鬱になりながら、駅近くの楓病院の前に立った。二階建ての病院。最近、病院に入るのは由依が自殺未遂をはかってから二度目になる。楓病院の二階のほうを見上げながら、少し息を吐いて中に入った。受付で聞くと、二階の二〇一号室だと言う。面会時間と名前を用紙に書くよう言われ、書き終わると玄関近くの階段を上った。上り終えたすぐ近くに、その病室はあった。和子は恐る恐る病室のドアを開けた。窓寄りにベッドがあり、周りのカーテンは開けられ、開放的だった。和子は小さな声で、こんにちはと言う。横には点滴の管が垂れさがり、ベッドに横たわっている赤野美代子は顔だけ和子のほうを向け、あらとか弱い声で言った。

「入院してると聞いたものだから、お見舞いに来たのよ」

 和子は赤野美代子の顔をまじまじと見て、驚いた。久しぶりに顔を見たが、以前とは形相が変わっていた。顔は一回り小さくなり、首筋や顔全体の皺が目立って痩せ細り、顔色も悪い。元々肌の色が白くない人であったが、血色がなく、黄土色と茶が入り混じったような病人らしい顔色をしていた。

「……川西さんがお見舞いに来てくれるなんて思わなかったわ。病気なんて誰が言ったのかしら、いやねぇ」

 声だけは電話で聞いたときと同じ勢いがあった。

「具合はどうなの?」

 和子は、赤野和子の容姿を見て病状はよくないと思ったが、とりあえず聞いた。すると、赤野美代子はくすくすと笑いだしながら言った。

「私ね、ガンになっちゃったの。健康には気をつかって生活してたのにね。こんな病気になるなんて信じられないわ」

「この前電話もらったばっかりなのに。急に具合が悪くなったのかしら。赤野さんが病気になるなんて信じられないわ」

 赤野美代子は和子を恨めしそうに見つめた。和子は一瞬たじろぎ、バッグの中から見舞金の入った封筒を取り出した。

「これ、お見舞金。前に私が肺炎やったとき頂いたし、ここに置いておくわね。早くよくなるといいわね」

 和子はベッドの横の棚の上にそっと置いた。赤野美代子は黙ったままだった。そのうち赤野美代子は天井を見て、悔しそうに顔を歪めた。

「前に電話をしたときには入院してたの。病院からかけたのよ。川西さんのことを思い出してね……。懐かしかったからじゃないわ、べつに。私はこんななんだものね。言いたいことがいっぱい……。なんでかしら? 川西さんはお見舞いなんて来て、病気の私の顔を見たかっただけなんでしょ」

「そんなことないわよ。ただ、心配だっただけよ」

 和子は赤野美代子を少し気の毒に思い、一方でその強がりを不快に思った。

「もう私はベッドから動けないし、仕事だってできないのよ。そんな私を見て嬉しいんでしょ」

 赤野美代子の弱々しい声には、ぶれない強さが込められている。和子は早く部屋を出たかったが、以前見た面影もない相手の姿を見ると、話を最後まで聞かないといけない気持ちになった。

「そんなことあるわけないわ」

「そんなことあるわよ」

 急に腹に力を入れたような掠れた声で言ったので、和子は直立したまま赤野美代子の顔を見つめていた。皺だらけの顔に澄んだ目だけが鋭く光っている。和子は怖かった。なぜ見舞いに来ただけで、こんなに怒っているのだろうと思った。自分が動けない苛立ちや病気になった悔しさがあるのだろう。赤野美代子のプライドから病気の姿を誰にも見せたくなかったのだろうと思うと、早く話にきりをつけたほうがよさそうだと思った。

「もう最期だと思うから、私は言うのよ。あなたは私の主人を殺したのよ」

 和子は一体何を言い出すのかと驚き、鼓動が高鳴った。何か言おうとしたが、怖くて何も言い出せない。病気のせいで頭がおかしくなってしまったのだろうか。

「私が学生だったとき、うちの主人があなたのところに私のことを聞きにいったでしょ。結婚を考えてるけど、どんな人だって。あなたは私のことを魔物のような人だって言ったわね。主人はずっとそのことを言ってた。結婚してから、私はあの人にずっと尽くしてきたのに、おまえは怖くて我儘で気が強くって、友達が言った魔物のような女だってずっと言ってた。自殺する前の日も言ってたのよ、おまえのような魔物のような女と結婚したことを後悔してるって。私が尽くしても尽くしても、主人は同じことばかり私に言ってきたんだ。友達が言った通りの女だったって。結婚は汚点だったって。おまえといると息が詰まるって。おまえは魔物だから俺は死ぬんだって口走ってた。それで死んじまったんだ、全部あなたのせい、あなたが私のことをそう言ったせいで、主人は死んだの。どう責任とってくれる?」

 赤野美代子は歪んだ唇で一気に話し終え、苦しそうに深く呼吸をした。和子は小刻みに体を震わせながら、学生時代のことを思い出したが、そんなことを言ったか思い出せなかった。赤野洋と交際をして結婚したわけだが、赤野美代子のことを魔物のような人と言ったことなど思い出せなかった。仮に聞かれてそんなことを口走ったとしても本意ではない。言ったとしてもただの冗談だ。しかし、和子にはその記憶はなかった。冗談など忘れてしまうものだ。冗談とはそういうものだろう。

「そんなこと言うはずないじゃないの。なんで私があなたのことそんなふうに言うのよ。言ってないわよ」

 和子は声を震わせながら、強い口調で言った。そう言うしかなかった。

「言ったのよ、この、人殺し!」

 赤野美代子の鋭かった目は天井を向き、一点を見つめている。和子は人殺しと言われ、うろたえた。覚えていない過去の冗談が、赤野の夫婦仲に亀裂が入っていたなど知る由もない。言葉が裏切らず、相手が偶然そんな人間だったというだけだ。そもそも結婚を選んだのは赤野洋本人であり、自分の言葉のせいではない。和子はそんなことを自分になりすりつけるのは理不尽だと思った。

「主人はね……、交際してたとき、私のことを可愛くて優しいって言ってたのよ。それが結婚したら変わってしまったわけ。全部あなたのせいじゃないの」

 赤野美代子は静かな声で淡々と言った。

「それは一緒に生活して変わっていっただけじゃないの。そんなことどこにでもあることだわ。それを私のせいにされても困るわよ」

「あなたが主人に、魔物なんていう言葉を吐いたから……、人を死に追いやっておいて、言い訳がましいわね」

「それは赤野さんの思い違いでしょ」

 そう言うと、赤野美代子はやはり天井を見つめたまま黙り、唇を強く噛んでいる。悔しいのだろう。和子は一刻も早くここを出たかった。赤野美代子の言うことなどまともに聞くことはできない。声を出せば出すほど相手の体はもたないだろうとも和子は思った。じゃぁ、帰るから元気になってねと言い、そそくさとベッドに背を向けると、か細い震えるような声が和子の耳に届く。

「……由依ちゃんは、……どうしてるの」

 和子は気づかないふりをし、部屋を出て静かにドアを閉めた。階段を早足で下り、病院の玄関を出た。

 和子はホッとして外の空気を深く吸い、もうここに来ることはないだろうと思った。そして、この病院で赤野美代子の命も消えていくに違いない。そして、人殺しなど私はしていない、そんな冗談も言っていない、和子は心からそう思った。見舞い来たことを後悔しながら、心身は疲労感に包まれて体を引きずって歩いた。家に帰ったら、由依がもらってきたあの薬を飲もう。もうこんな思いはしたくない。寝ればリセットされる。この病院に来たことも、赤野美代子に言われた言葉もすべて消えていくだろう。薬がいずれなくなったら、由依を説得してクリニックに貰いにいってもらえばいいと思った。いますぐにでも眠りに落ちたかった。




 翌日、和子の心はざわざわして落ち着かなかった。けれども、赤野美代子があの病室で終わっていくことを思うと、吐いた言葉もすべてが無になる。昨日薬でいくら眠っても、人殺しと言われた言葉だけが頭に残っている。忘れられそうで忘れられない言葉。自分がそれほどひどいことをしたのだろうか。人の人生を狂わせるような言葉を吐いたのだろうか。どちらも定かではなかった。

 和子は洋間のソファに座り、昨日のことを思い出しては溜息をついた。わざわざ見舞いなどいかなければよかった。そうすれば心が乱されることはなかった。テレビをつけたが、芸能人の笑い声が雑音にしか聞こえずにいた。気づくと、隣に由依が立っていた。和子はびっくりしたと言って由依の顔を見上げる。

「さっきから、今日の夕飯はどうするのって言ってるのに」

 由依は口を尖らせて言い、テレビのほうを見てはリモコンのスイッチを消した。

「え、あぁ、ごめんね、聞いてなかったわ。驚かせないでよ」

 和子は胸に手をあて、途端に鼓動が速くなるのを感じた。

「夕飯ねぇ……」

 和子はぼんやりと言ったまま、何も思いつかずにいた。由依は傍らに立ち、和子の言葉を待っていた。

「……あぁ、今日はいいわ。学童は休むことにするから。ちょっと疲れてて。とても子供と遊ぶなんてできなから」

「……そう。疲れてるって大丈夫なの? 疲れてるなら私が作ったほうがいい?」

 由依は急に心配になり、いつになく優しげな声で言った。母は今年で五十五歳だ。自分が歳をとるごとに父も母も歳をとる。その差は生まれたときから変わらない。憧れしかなかった十七歳という年齢もあっさり通り越した。大人になる怖さを感じた二十歳も超えた。父も母もいつまでも若く、健康ではいられない。それは遠いようで近い。将来のことは未知でしかないが、その未知に過敏になって怯えた。

「いいわよ、料理ぐらいできるわよ。……で、西クリニックにはもう行かないの?」

 和子は由依の目を一瞬見ては、すぐに逸らした。いつの間にか薬は由依のためではなく、和子が必要としていた。そのやましさから由依を直視できない。昨日から頭も鈍く痛む気がする。気のせいだろうか。まだ薬はあるが、つい心配になる。

「だって、私は飲む機会がないし、今は必要がないし。行っても先生は何も解決してくれないんだから。薬を出すことしかしてくれない。行ったところで先生に責められるだけ。こうしなさいって言うだけなんだから。私はどうすることもできないんだから」

「……そう。医者だって万能じゃないんだし、自分で努力することも必要よね。苦しかったら、薬を飲めばいいのよね、由依。一歩出るってことが必要よね、薬を飲んで」

 由依はありきたりな母親の言い分に捻くれ、少しの間黙ってはぼんやりとした。和子は自分が薬を必要としていることをごまかしながら、由依に真っ当な正論をあたかもそうであるように言った。

「いつか何かが変わって、薬が必要になったら出してくれるんでしょ、その医者は……」

「……うん」

 母がクリニックにしつこく行かせようとしていることに、由依は疑問を感じながら、行っても無駄なんだと心の中で呟いた。

「何かが変わったらね、必要よね」

「……うん。お母さんうるさい、医者なんてただの人なんだから。私は何も変わらないから。薬なんていつだって出してくれるんだし、無理して行く必要ないから。この前たくさんもらったんだし」

「あぁ、そうよね、そうだよね」

 和子は焦って言った。これ以上執着するのはやめようと思った。由依が訝しがるだけだ。

 由依が自分に背を向け、洋間を出ようとしたとき、和子は咄嗟に声をかけた。

「ちょっと待って」

 由依は立ちどまり、なぁにと言って和子のほうを向いた。相変わらず細い足をして不健康な痩せ方の娘の全身を見ては、和子は胸が高鳴った。

「由依が小学校のとき教わった赤野先生っていたわよね。東飯能駅の近くの楓病院に入院してるんだって。私の友達だった人、知ってるわよね」

「なんで?」

 由依の平坦な声は、和子をさらに動揺させた。和子は自分だけの心に閉まっておくことができなかった。誰かと共有することで、自分の胸騒ぎが収まるような気がした。由依がどう思おうと構わなかった。

「由依が怖がっていた赤野先生、膵臓が悪いんだって。ガンなんだって。お見舞いに行ったんだけどね、もう長くないみたい。点滴もしててね、顔色もすごく悪くて痩せてて。健康そうだったのに、急に病気になっちゃうのね、意外だわよね。人生ってあっという間ね」

 由依はそれを聞き、顔を強張らせた。あの先生が病気で死が近いという現実を残酷にも一瞬思えたが、同時に怒りに似た感情が湧き上がってきた。当時のことが急に頭に蘇る。人の不幸に同情することができない。できないのはなぜかと思うと胸が苦しくなる。由依は母にあてつけるように言った。

「なんでお見舞いなんか行ったの?」

「えぇ、だって、前に私が病気したとき、お見舞金をもらったからよ。それだけよ。あの人、二階の個室を利用しているのよ。どこまでも特別なの。勝ち気でそんな人だから、きっと自分のことだけ考えてるんじゃないかしら」

 和子は少し嫌味っぽく言った。由依に向けてではなく、人殺しと言った赤野美代子にたいしてだ。由依は頭に血がのぼったようにカリカリした。

「二階のどこなの?」

「え、二階の二〇一だったかしら。一番端の道路沿いの部屋だったわね。個室で広くていい病室だったわ、あの人らしかったわ」

 和子は何の疑問も抱かず、聞かれるままにぼそぼそと答えた。

「お見舞いなんか行って……、先生にお見舞いなんてする必要ないんだから。お母さんは何を考えてるの? 何にも知らないから、そんなバカなことするんだ、私は絶対許さないから」

 由依が急にそんなことを言い出し、和子はどうかしたの?と冷めた口調で言う。由依はそのまま洋間のドアを乱暴に閉め、二階へ続く階段を駆け上った。和子は傷ついているのは私なのに、由依は何を怒っているのか理解できず、溜息しかでてこない。しかし、由依が代わりに怒ってくれているような気がし、少しだけ気が楽になった。

 由依は唇を噛みしめ、ベッドに腰かけた。赤野美代子がガンで入院し、死に向かっている。子供のとき、私にあんなことをした罰なのだと思った。そして、先生は死んでいくのだ。そう思うと、なぜか嬉しくなった。死んでいく先生を憎み、そして喜び、病室に横たわっている赤野美代子は何を思っているだろう。由依は私のことなど頭にないだろう。そう思うと悔しい気持ちで胸がいっぱいになる。死に怯えながら、家族に囲まれて慰められ、死んでいくのだろうか。そんな想像などどうでもいい。由依は増していく憎しみに狂うように、本棚のアルバムを開けた。捨てたくても捨てられないアルバム。赤野美代子の顔は押さえつけられた二重画鋲で見えない。そこに収められている由依自身の顔を見た。俯き加減でぼんやりとした視線を向けて唇は半開きで、はつらつとした表情はまるでない。過去の自分を憐れんだ。一本の線で繋がっている過去と現在を、もう誰にも切り離すことはできない。

「先生、死んでくれるんだね……」

 由依の消え失せそうな声は、自分の未来への絶望と希望でもあった。自分は何も変わらず将来に何もなく、自分を傷つけた本人の死は混在し、由依自身を惑わせ、混乱させた。まだ終わってはいない。終わりも始まりもない今に、由依は唇を力強く噛んだ。心の奥からふつふつと湧きあがるものがある。由依の心に火がついたようだった。もう、燃えあがる炎を消せる者はどこにもなかった。




 翌日の午後二時過ぎ、由依は楓病院に向かった。晴天の雲ひとつない澄んだ青空は静かに見守っているように何も変わりなく、肌寒い空気は由依の体を包み込んでいる。由依は息をつく間もなく、楓病院の玄関から入り込み、すぐ横にある階段を駆け上った。受付の人間は誰もおらず、由依は何事もないように患者たちに紛れ、迷いなく進む一人の若い娘を誰も気に留めなかった。由依は道路沿いの個室と見れる二〇一と書かれた比較的大きなドアの前で立ちどまった。長い廊下を見ても誰もいない。ひっそりとしていた。どこからか消毒液のにおいが漂ってくる。由依は思い切ってドアを開けた。中にはベッドに人が横たわっている。あれが自分を苦しみ続けさせた赤野美代子だと思うと、たじろぐことなく近づいた。由依が近づくと、赤野美代子は顔を向けて少しだけ笑った。

「……あら、由依ちゃんじゃない。お母さんがここを教えたの? 嫌ねぇ」

 由依はかつて見た赤野美代子とは別人のような姿に驚き、言葉を発することを忘れた。体は痩せ細り、頬骨が浮き立つように目立ち、皺に埋もれた目が際立っている。縮れたような髪は薄く、顔や手は日焼けでもしたような不自然な褐色であった。皺で刻まれた白っぽい唇が微かに動き、由依は顔を強ばらせた。

「由依ちゃん……元気?」

 鋭い目が由依を見つめている。由依は何を言おうか頭が真っ白になった。ここに来た理由を探しながら、静かに肩で息をした。

「……あなたのお母さんはね、私の夫を殺したのよ、……知ってた?」

「そんなはずないです」

 由依は咄嗟に否定した。私を長年苦しませ、憎しみや恨みで狂わせていき、将来の人生を壊していった人の言うことなんて信じられなかった。

「先生は、私の魂を殺したんです、それも立派な殺人じゃないですか。先生こそ殺したんです、もっともっと大勢の人を殺していったのかもしれない、先生はそういう人です」

 由依は赤野美代子の目を見つめ続けた。すると、呆れたように瞬きをして天井を見つめた。

「……殺人者呼ばわりされるなんて心外だわ。随分、大きな口を叩く子になったのね……そんな子になるなんて思わなかったわ。私がやったのは、すべて躾です。ダメな子にはダメだって教えるのが、先生の仕事……。あなたが悪いの……食べるのなんか簡単なことなのに、グズでね、……お母さんに似たのかしら」

 赤野美代子は強がった。自分に死が近づいていると思うと、こんな若い娘に罵倒されるのが許せなかった。学生時代の友人の娘であろうと、教え子であろうと悔しくて堪らなかった。誰もが自分に従ってきたはずが、こんな場で裏切られる。川西由依をわざと貶めたのは事実だったが、それもこれも川西和子が夫に自分のことを魔物だと言ったことが発端なのだ。何が悪いのだ、これこそ因果応報ではないか。赤野美代子は血の気のない唇を歪め、噛みしめた。

「先生は知らない、私の気持ちなんか……」

 由依は小さく呟いた。どこまでも意地を張る赤野美代子が憎かった。点滴の管が揺れ、赤野美代子は胸のあたりで両手を組み、深々と長い呼吸をした。

「先生は、死ぬんですよね」

 そう言われ、赤野美代子は目だけを由依のほうに向け睨みつけた。由依は容赦なかった。自分には何もない。重なり合った過去の荷物を下ろすことができずにいる。先はまるで見えない。過去にどんどんと追いつめられ、苦しめられる。どうやって生きていったらよいのかわからない。西クリニックの医者もカウンセラーも何の役にもたたなかった。虐待と告げられても過去は取り戻せない。誰が何をしても、絶望を希望に変えること自体不可能なのだ。

「……死なないわ、絶対に」

 赤野美代子はか弱い声で冷淡に言い放った。その意志は変らなかった。体がどんな状態であろうと、生きたかった。ましてこんな娘に突きつめられて自分の死など認めたくはなかった。

「先生は死にますよ。私を殺したなら、先生だって死ぬんです。悪いことをすれば裁かれる世の中ですから。先生の人生はここで終わるんです。……だから、私の苦しい魂も持っていってください、天国でも地獄でも、苦しんだ過去を一緒に葬ってください。そしたら、私、生きていきますから、きっと」

 由依は涙を堪えて震える声で言った。

 赤野美代子はフンッと鼻で息をして、顔を背けて窓のほうを向いた。

「……随分、まぁ、生意気な子に成長したのね。あんなお母さんに育てられたんだもの……その通りの子になったわね」

 由依は黙っていた。赤野美代子の視線の向こうには、窓から飛び立つ鳩の姿が映っている。由依は、いつまでも折れる様子のない赤野美代子を見ては、淋しい人だと思った。そして、自分の母の過去も知らなった。何を根拠に自分の夫を殺したと言っているのか理解できずにいた。

「私も……夫の元にいくんだろうけど、ちっとも怖くないわ。……ここまで強く生きたんだもの、些細なことで人生は狂うのよね、ほんのちっぽけなことで……」

 まるで独り言のように言う。

 由依の心には響かなかった。死を間近にした病人の戯言も、狂わせていった本人の言葉などにしんみりするはずもなく、いつまでも向き合うのがくだらないと思った。自分には死が近くも遠くも感じた。一度死にかけ、生き返った自分は生と死の間にずっといて、それは絶望と希望の間に生きているのと同じであった。とても虚しかった。それでも、明日は来るだろう。

 由依は顔を背けたままの赤野美代子の横たわるベッドからそっと離れ、ドアを開けては閉め、その場にうずくまって泣いた。声をあげずに溢れてはとまらない涙だけを流した。幸い、廊下には誰もいなかった。

 家に帰り、学童保育所に出かけようと玄関で靴を履いていた和子に向かって、由依は言った。

「お母さんは、人を殺したことあるの?」

 和子は目を見開き、立ち上がっては何を言うのと言った。

「あるかないか、ただそれだけ聞きたかったの」

 和子は嫌ねぇと言って、由依の肩に手を優しく置いた。

「人を殺すなんてあるわけないでしょう。また変なことでも考えてるんじゃないでしょうね? おかしなこと言うとドキリとする、心臓が止まっちゃうわよ。もうやめてね、そんな妄想じみたこと言うの。あぁ、怖い怖い……」

 そう言って笑った。和子は妙な気分になりながら、普段通りに振舞おうと心がけた。娘がまたおかしなことをするのではないかと頭を過る。由依はそんなことを口にした自分を恥じながら、少し下を向いた。和子は履いた靴をまた脱ぎ、そそくさと玄関に上がった。

「仕事じゃないの?」

 由依が咄嗟に言うと、

「だって、おかしなこと言うから心配で。仕事なんか休んだって大丈夫だから」

 と、和子は明るく言い放ったが、内心ドキリとして胸が急に高鳴り始めた。

「少し考えすぎただけ。ただの妄想だから、気にしないでほしいの。何でもないから、本の読みすぎだから……」

 和子は何度も、大丈夫なの?と由依に問いかけ、本は読まないようにと言い聞かせ、また靴を履いた。深く頷く由依を見ては、もうどうなってもいいと内心思いながら、玄関のドアを開けて出ていった。

 由依は茫然としては、赤野美代子の病室に行ったことを思い出した。遠い昔のことのようで、今日の出来事には思えなかった。すべてはあの病室の中で終わることであり、もう触れることはないだろう。母も私も赤野美代子との接点は現実からいずれ消えていく。しかし、自分自身は終わらず、明日も生きねばならない。明日は必ず来て、逃げることはできない。医者が言った『食はただ食べればよいのではない』という言葉の意味が心に刻まれる。それでも、生きねばならない。

玄関に掛けられた時計を見た。三時半になろうとしている。夕食を何にするかまだ決めていない。靴を脱いで玄関にあがり、重い体を引きずっては台所に向かった。




       


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ