1-2 レビュアーはプロのエッセイスト
【ところで、異世界っていったい何なのでしょうか?】
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「イセカイ? ここはずっと昔からエパピアラ王国だぜ? イセカイなんて呼び名は聞いたことねぇな。なぁ、ソフィア」
「そうねぇ、あたしも聞いたことないわ」
「いや、ふたりとも聞いたことがないのならいい。忘れてくれ。お? あそこだ。あの酒場にフィーリアス船頭長が居るはずだ。ジャンパオロ、ソフィア、俺から離れるなよ?」
酒場に着いたのは、山の稜線が漆黒に溶けて、その存在が極めて曖昧になったころだった。
振り返ると、よくここまで間隙無く敷き詰められるものだと感嘆させられる石畳が、緩やかな勾配に身を預けながら坂下の商人街から続いている。
見れば、眼前には丘の上で我らを待つ石造りの酒場。
重厚な木の扉の横では、エパピアラ王の紋章を象った灯篭が炎を湛え、その下に酒場へ踏み入れようとする者への但し書きが掲げられている。
『酒場内での諍い、剣戟、魔法の一切を禁ず』
酒場の中での、戦闘や魔法の使用を禁ずるという文言。
「ジャンパオロ、お前、これが読めるか?」
「馬鹿にしてんのかぁ? 酒場の中で揉めるなってぇことだろう? 心配すんな」
「そうねぇ、あんた、頭に血が上るとすぐにその剣を引き抜くもんねぇ」
「ソフィア、黙らねぇとそのご自慢の魔法杖を叩き折っちまうぞ?」
「こら、そういうところだ。ちゃんと大人しくしててくれよ? フィーリアス船頭長の説得は俺がやる。さて、どこまでこの嘘が通用するか――」
そう言いかけたとき、守衛がその重厚な扉をゆっくりと開いた。
どうやら、嘘だらけの紹介状が店主の気を許させたらしい。
扉の錆び鳴りがまだ終わらぬうちに、おもむろに踏み入れた足。
外の日暮れの空気とはまったく違う、甘い熱気がねっとりと頬に絡みつく。
見渡すと、酒場は半分に割ったすり鉢のような造りだ。
手前から奥へ半円形の床が階段状に下がって行き、最後は小さな舞台に辿り着いて終わっている。
長い鎖で点々と吊り下げられたランタン群。
それはなんとも幻想的な淡い青緑の炎を揺らし、直上の石天井にべっとりと黒いすすを付けていた。
「くせぇ。こりゃ、青ゴブリンの皮油だな」
「へぇ、ジャンパオロの鼻でも、これは臭いんだな」
「うるせぇ。しかしもうこの辺りにゃ青ゴブは居ねぇだろ。俺さまが根絶やしにしてやったからなぁ」
「ねぇねぇ、フレッド。あたし飲んでもいい? コプリアット酒があるみたい!」
「え? ああ、少しだけだぞ?」
「やったぁ! さっすが勇者クラスは話が分かるわねぇ。愛してるわ」
「俺もだ。お、居たぞ。舞台の右側の独り掛けの席。船頭長のフィーリアスだ」
遠いその男の横顔に視線を投げて、俺は左腰の剣鞘をぎゅっと握った。
石階段の上の砂。
砂を噛むブーツの底裏。
一歩一歩、俺たちはゆっくりと下り、そしてついにその男のすぐ脇に歩み寄った。
これ以上ない嘘つきの顔で、俺はゆっくりとその隣に座る。
すると、独りで壁に向かっていた髭面が、なんとも怪訝そうな瞳と共にこちらを向いた。
「誰だ? お前は」
「よぉ、エパピアラ随一の銘船頭、フィーリアス。そろそろ目を覚ましてもらおうか」
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『よぉ、「夏目坂文芸会」ナンバーワンの銘物書き、いしずえ翔! そろそろ目を覚ましてもらおうか!』
突然鳴ったインターフォン越しに聞こえたのは、ガハハという笑い声と覚えのある低い声。
こんな朝早くからなんの用だと腹立たしく時計を見ると、もうすでに午前十一時を回っていた。「なんだよ、朝っぱらから。そのペンネームはもう封印したって言ったろ? 鬼泪山」
『なにが朝だ。もう昼だぜ? 早くここを開けろ』
「ふん」
昨晩は帰宅した後、あの大口のおかげでずいぶんといい気分でビールを煽った。
そして、さて明日は寝られるだけ寝てやろうと積極的な後ろ向きでベッドへと入り、今朝は見事にその計画が完遂されたわけだ。
今日は土曜日。
せっかくの休みに叩き起こされたのは腹立たしいが、コイツのあまりの厚顔さには恨み節を言う気にもならない。
仕方なくドアを開けた。
良く晴れている。
見上げると、空はまるでその中に沈んでいると錯覚してしまうほどのラムネ色。
その空がまったく似合わない鬼泪山が、勢いよく玄関の扉を引っ張って部屋へと上がり込んだ。
この部屋は、伯母さんが世話してくれたもの。
リビングと別に八畳ほどの洋室もあって、僕がひとりで済むにはずいぶんと広い。
なんとそれを、ほぼ1Kに近いくらいの家賃で借りている。
そして、その広いリビングには、これまたひとり暮らしには不釣合いな壁一面の大きな本棚。
実は、僕は幼少から本棚と寝起きを共にする暮らしをしている。
「さぁすが、相変わらずキレイに片付いてるなぁ」
「片付けてるんじゃない。散らかさないんだ」
「屁理屈だな」
いつもは自分のほうが屁理屈ばかりこねるくせにと思いつつ、リビングテーブルの座椅子を指さす。
「で? 何しに来たんだ?」
「別にぃ。実家に帰る途中にちょっと酔狂で寄っただけだ」
そう言って座りながら鬼泪山がドサリとテーブルに置いたのは、なにやら大きく膨らんだコンビニ袋。
四畳半フォーク時代を気取った長い髪がバサリと肩から落ちる。
格好もボロボロの綿シャツにくたびれたラッパズボンと、まぁ……、なんとも汚らしい。
「ショウ、お前の投稿サイトの小説にレビューを書いた殊勝なユーザーが居るだろ」
「え? なんでそんなこと知ってんのさ。それに、僕はもう『ショウ』じゃない。『恒河沙』だ」
「うるせぇ。俺はこっちのペンネームのほうが好きなんだ」
「僕はその名前は嫌いなんだよ」
僕が所属していた大学の文芸サークル『夏目坂文芸会』では、なぜかみんなお互い常にペンネームで呼び合うと決まっていた。
僕の昔のペンネームは、『いしずえ翔』。
だから、確かに大学のときの仲間からすれば僕はいまでも『ショウ』だ。
ちょっと子供っぽいペンネームだが、実は嫌いだというのは嘘。
いまでもこのペンネームはとても気に入っている。
ただ、もう気安く使うことができないだけ。
そう。
あの、一作だけ世に出た、僕の書籍。
その表紙では、この『いしずえ翔』の名が堂々としていた。
僕の学生時代で一番嬉しい出来事で、そして一番思い出したくない出来事。
「で? 僕の小説にレビューつけてくれた人がなんだって? だいたい、僕にレビューを書いただけで『殊勝』なのか」
「そりゃそうだろう? お前みたいな軟弱者を気遣うヤツはみんな殊勝だ。この俺さまもな! ガハハ!」
「そんな人を気遣う暇があったら、ちゃんと大学を卒業しろ」
鬼泪山は僕と同じ歳だ。
同じ文学部で、同じ文芸サークルで大学時代を過ごした。
もちろん、この『鬼泪山』というのも、文芸サークルでのヤツのペンネーム。
本名は……、えっと、なんだったっけ。
ただ、僕と同じ歳なのは間違いないんだが、なぜかヤツはまだ大学で学生をしている。
本人いわく、「学長がもう一年だけ残ってくれって言うんだから仕方ねぇだろ」とのこと。
ずいぶん奇抜な感性の持ち主なので、出会ったころは「こういうヤツが物書きとして大成するんだろうな」なんて、やや畏敬の念を持って接していた。
しかし、いまのところ大成はしておらず、なにやら物書きのアルバイトをやりつつ、のらりくらりと大学五年生をやっている。
「そんなことはどうでもいい。レビューだ。お前のくだらない勇者さまの話にレビューをつけた、あのユーザーだがな?」
「くだらないは余計だ。あの『たばなお』って人だろ? なんか知らないけど、えらく筆達者だよな」
「お前もそう思うだろ? あれな? 俺が思うに……、あれはたぶん、プロの物書きだ。 エッセイスト」
「エッセイスト?」
「おうよ。『田原直子』って知らないか? イギリス文化のエッセイを書いてる。たぶん彼女に間違いねぇ」
「『田原直子』? ああ、それで『たばなお』なのか。いや、ちょっと知らないな」
「実は俺、彼女のファンでな。『TABANAO英国館』っていうイギリス旅行記のサイトをやってて、エッセイ本は『オフィス光風』と『竹邉書房』の共同出版でもう何冊も出してる」
初めて聞いた名前。
プロの物書きが僕の小説にレビューを?
本当のことなら、まぁ、それなりに嬉しさもある。
「しかし……、あれはプロにしてはずいぶんお粗末な天然だぞ? ダイレクトメッセージをよこしてくれたけど、なんていうか、『異世界って何ですかぁ?』的な感じで」
「そりゃあエッセイ書きにゃ異世界はそれこそ異世界だろうよ。お前、返信はしたんだろうな?」
「いや、まだしてない。きのう遅かったから、今朝起きてからやろうと思ってたんだ」
はぁ? という顔の鬼泪山。
するとすぐに、テーブルの端に置かれていた僕のスマートフォンがその手にむんずと掴み上げられ、少々乱暴に僕の顔の前に突き出された。
「すぐしろ」
「やだよ。あとでゆっくりやる。僕の『異世界遁逃譚』に出てくる暴力剣士『ジャンパオロ』のモデルがお前だって紹介しといてやるよ」
「いや、それはやめろ。あの頭の悪そうなキャラのモデルが俺さまだなどと、あまりにイメージが悪すぎる。とにかくっ、そんなのはいいからいますぐ返信しろっ!」
「なんでそんなに急かすんだよ」
「俺は彼女とお近づきになりてぇんだよ」
は?
いや、お前まったく関係ないだろ。
思わず笑ってしまった。
「まぁ、プロだとか僕には関係ない。そのうち気が向いたら返事を書くよ」
目の前の鬼泪山は興味なさげな僕の返事を聞いて、さらに『田原直子』について熱く語り始めた。
まぁ、もし本当にこの『たばなお』が鬼泪山ご執心のエッセイスト『田原直子』なら、個人的に仲良くなってみるのも面白い。
きっと、小説投稿サイトつながりとはまた違ったコミュニティーを持っているだろうし、僕の小説をそこで宣伝してくれるかもしれないし。
そう思ってすぐ、ふと我に返った。
僕のこの顔は、嘘つきの顔だ。
鬼泪山が真剣に語るその前で、僕はこんなにも邪なことを考えている。
プロのエッセイストに高評価されて、嬉しくない素人物書きなど居ない。
その背後にある出版社やプロのコミュニティーに、己のことを知ってもらいたいと考えないヤツはまず居ない。
僕は、最低の男だ。
他人にどう思われようと構わないという大器を装う、どうしようもない最低の男。
結局、僕は自分の物語のできの悪さを棚に上げている。
閲覧者が居ないのは正当な評価をしてくれるコミュニティーに身を置いていないからだと、すべて環境のせいにして根本を無視したお門違いな責任転嫁をしている。
そしてさらに、心のどこかで思っているんだ。
悪いのは僕じゃない。
悪いのは……、『恒河沙』だと。
「……おい、聞いてんのか?」
「あ? ああ。とにかく、この『たばなお』さんへの返信はよく考えてからゆっくりやるよ。うまくSNSなんかで友だちになれたら鬼泪山も紹介するから」
「頼むぞ?」
「でも、本人かどうか分からないからな?」
「いや、間違いねぇ」
「すごい自信だな」
それからひととおり小説談義を一方的にぶったあと、鬼泪山はまた実家へ至る小旅行の途上へと身を戻した。
ヤツが帰ったあとによく見てみると、テーブルの上にはスナック菓子に混じってプリンだとか栄養ドリンクだとか、病人のための品揃えがふんだんに置かれていた。
僕が、ちょっと体調が優れないなんて言ったからだろうか。
思わず、笑みがこぼれた。
大学を卒業していろんなものが変わったというのに、アイツだけはあのころとまったく同じように接してくれている。
まぁ、それはそれで有難いことだとひとりごちて、僕はまたベッドに身を投げた。
【たばなおさま、お礼が遅くなりまして申し訳ありません。この度は、拙作『異世界遁逃譚』に素敵なレビューをつけてくださり、本当にありがとうございました】
気がつくと、秋空が夕闇に追われ始めた窓から、細く長い朱色がリビングテーブルの上へ落ちてゆらりとしていた。
あのあと、僕はまた眠ってしまったらしい。
見ると、鬼泪山が去ったあとに読み始めた例の湊桃香さんの異世界ライトノベルが、手を離れてベッドの下のフローリングに無造作に転がっている。
笑顔で彼女へ返した、『楽しく読ませてもらう』という大嘘。
本当は、まったく読む気が起こらない。
あんな女子高生が書いたへんてこりんな小説が書籍になっていることに、どうしようもない憤りを感じている自分に気がついて、さらに自己嫌悪が増した。
しかし、読んでみると、今度は別の憤りが湧き上がる。
その文章は、明らかに彼女が以前に小説投稿サイトで公開していたものと違う。
あれは、本当にひどかった。
こんな文章をよく人に見せられるなと、辟易した。
しかし、これはどうだ。
ちゃんと小説になっている。
まぁ、書籍化されるときは当たり前に編集者の手が入るし、少々原本と雰囲気が変わってしまうことはままある。
しかし、この変わり様はおかしい。
彼女が相当に努力してそれなりの筆致を会得したのか、それとも誰かが大幅に筆を入れたのか。
小説投稿サイトのほうの彼女の作品を見てみようとしたが、そのページは見つけられなかった。
ユーザー情報もなく、どうも退会してしまっている様子。
なにがあったというのだろうか。
しばらく考えたあと、それは僕には関係ないことだとハッと我に返り、僕はそそくさと立ち上がってリビングテーブルの上で寂しそうにしていたコーヒーをぐびりと煽った。
まぁ、、おそらくこの子もこの一作で終わりだ。
存分に浮かれるがいい。
そんなことを考えつつカップを置き、昼に鬼泪山が陣取った座椅子にドサリと腰を下ろして、伏せていたノートパソコンのディスプレイを開いた。
そうして表示したのは、小説投稿サイトのメッセージ画面。
さて返信を書こうとしたとき、ほんの少し気になって、このレビューをくれた『たばなお』のプロフィール画面を呼び出した。
なぜか、小説やエッセイはまったく投稿していない。
投稿どころか、『お気に入り』に入っている作品も僕の『異世界遁逃譚』だけ。
どういうことだろう。
もしかして、この人は僕の作品にレビューを書くためだけに、この小説投稿サイトにユーザー登録したのだろうか。
やや首を捻りつつ、返信を入力する。
【お見受けするに、普段は異世界ものはまったくお読みでないようですね。にもかかわらず、私の物語が気に留めていただけたのは僥倖の極みです】
よく考えて送るなんて鬼泪山には言ったが、結局、電車の中で書いた下書きをそう深くも考えずにそのまま送った。
当たり障りのない返信。
僕に関心を払ったこの『たばなお』も、おそらく一時的な興味心でメッセージをくれたに過ぎない。
そうだ。
僕が考えているほど、他人は僕に興味が無い。
僕が考えているほど、他人は僕の物語に感動してくれない。
それは、大学生のときに経験済みだ。
浮かれないように、勘違いしないように、ただ淡々と返事を返す。
そんなことに思いを巡らせながら、何気なく検索サイトで『たばなお』を検索してみた。
確かに、『田原直子』というエッセイストが居る。
残念なことに、顔写真は出てこない。
さらに検索結果を読み進めていくと、彼女のSNSプロフィールへのリンクを見つけた。
ユーザー名は……、『たばなお@田原直子☆TABANAO英国館管理人』。
プロフィール画面には、イギリス留学から帰国して日本でイギリス文化を紹介するエッセイを出版する傍ら、インターネット上で『TABANAO英国館』という旅行記を中心としたイギリス文化に関する情報発信サイトを運営している……、と書かれている。
鬼泪山がご執心だと言っていたエッセイストは、おそらくこの人に間違いない。
そして僕は、特になにも考えずに、ほぼ習慣的にその『たばなお』のユーザー名のすぐ横にある『フォロー』のボタンを押した。
僕のユーザー名は『恒河沙』。
彼女には、『恒河沙というユーザーからフォローされた』という通知が行くはずだ。
この『田原直子』がレビューを付けてくれた『たばなお』本人だとするなら、もしかしたら僕のユーザー名を見て何かリアクションをくれるかもしれない。
「ふん……、そんなうまい話があるか」
思わず、独り言が出た。
そしてそれを小さな溜息が引き継ぐと、僕はどうにも落ち着かない気分になって立ち上がり、そそくさと冷蔵庫へと向かった。
大口女のときに買った、ビールの残り。
ぞんざいにそのプルタブを引き上げ、僕らしくなく粗野にそれを煽る。
そして、一気に半分以下になった缶を揺らしてリビングへ取って返したとき、そのメッセージの着信を告げる通知音がパソコンのスピーカーから放たれた。
ハッとして画面を覗く。
そして、そこにあったのは……。
【フォローありがとうございます。もしかして、『異世界遁逃譚』の『恒河沙』先生ですか?】