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4ー2 ヒロインはいずこへ

【愛加里さん、誕生日おめでとう】

 一月十二日の朝に送った、そのメッセージ。

 辛くも『既読』にはなったものの、その返信は一週間経っても、『竹邉ノベルズ文学賞』の一次選考結果が発表になっても、とうとう帰って来なかった。

 もしかして、本当に嫌われてしまったのかとも考えたが、愛加里さんと日々顔を合せている田原さんは、『それは絶対に無い』と繰り返す。

 僕の作品は、『竹邉』の一次選考を通過していた。

 応募総数、百四十七作品。

 一次選考通過、三十五作品。

 無事に一次を通過したことに安堵し、同時に例年に比べてずいぶん応募総数が少なかったことに少々驚く。

 そして、画面に表示された三十五作品の中に求めたのは、彼女が『僕ならすぐに分かる』と言ってくれた、そのタイトル。

 しかし、何度も何度も目を皿のようにしてその一覧を見返したが、僕はついにそのタイトルも、そして彼女のペンネームも見つけられなかった。

 彼女に直接尋ねようかと、幾度か開いたメッセージの作成画面。

 しかし、誕生日のお祝いメッセージにも返信をくれない彼女が、おいそれと僕の問いに答えてくれるはずがない。

 おそらく、彼女は敢えてタイトルもペンネームも僕に教えなかったんだろう。

 ただ、その真意は分からない。

 もしかするとそれは、たとえ大賞を獲って父親の呪縛から逃れる道を切り開けたとしても、そのこと自体をうやむやにして、故郷へ帰る僕とは歩みを共にしないつもりだということなのだろうか。

 彼女はそんなにも、亡くなった彼を想い続けることは僕の隣に居られないことなのだと……、その『資格が無い』ことなのだと、そう思っているのだろうか。

 一次選考結果の発表から、二週間。

 ついに二月も半ばに差しかかり、学習室には目前に国立大学の二次試験前期日程を控えた受験生たちの疲れた顔が並んでいる。

 愛加里さんの作品が一次選考を通過したのかどうかまったく分からないまま、様々な思いに苛まれて悶々と過ごす日常。

 その僕の心を代弁するかのように、窓の外では音もなく舞う粉雪が、行き交う人の波を白々とさせていた。

 講師控室から見下ろした僕の古巣のキャンパスは、先週から春休みに入ったせいもあってずいぶん静かで、今日はまるでシュガーポットの中に沈んでいるかのようだ。

 彼女は、どうしているだろうか。

 おそらく、今日か明日には、『竹邉』の二次選考結果の発表がある。

 思わず、キャンパスを見下ろす冷たいガラスに額を押し当てた。

 外気が僕の苦悶の熱を少しずつ奪う。

 もしかしたら、もうお父さんの所へ引き戻されてしまったのかもしれない。

 ぽっかりと、穴が空いた胸。

 改めて、僕は愛加里さんを支えていたつもりで、実はずっと支えられていたんだなと、そう思った。

【恒河沙さん、お仕事中ですか? 『竹邉』の二次選考結果、いま出ましたよ?】

 田原さんだ。

 なぜか最近は、頻繁にメッセージをくれる。

 僕の心の風穴の大きさが見えるのか、ずいぶんと気遣って励ましてくれている。

 そういえば先日、彼女からとても元気づけられるメッセージをもらった。

『素敵な物語! 私、恒河沙さんのファンになりました!』

 どうやら、僕が『竹邉』へと挑ませているあの作品を読んでくれたらしい。

 奏さんから校正原稿を見せてもらったそうだ。

 エッセイストで僕とは畑が違うとはいえ、田原さんは紛れもなくプロの物書き。

 その彼女から、お世辞でも『ファンになった』と言われて、口角が上がらないはずがない。

【そうですか? 僕の名前、ありました?】

【どうぞ、ご自分で確かめられてください! 『いしずえ翔』先生?】

 そうだ。

 あの『竹邉』へと送り出した作品を書いたのは、以前の『恒河沙』という作家じゃない。

 かつて『ぬくもりは珈琲色』という、その一作だけを世に送り出すことを許された、あの男だ。

『いしずえ翔』

 有頂天になっていた大学生の萩生翔が、あの酷評に粉々になって真っ先に封印した、その名前。

 今回、僕は敢えて再びこの名を選んだ。

 この名前は、僕が本当に書きたい物語を、揚々と、そして堂々と書き綴っていたころの、僕そのもの。

 愛加里さんが思い出させてくれた、使い古しているが限りなく新しく、幼くも聞こえるが見紛うほどに成熟している、生まれ変わった僕の象徴だ。

 デスクへと戻り、スマートフォンを手に取る。

 おもむろに開いた、『竹邉書房』のページ。

 『第三十一回 竹邉ノベルズ文学賞 二次選考結果』

 二次選考通過は、七作品。

 ひとつずつ、その作品名に瞳を留める。

 あった。


『僕が恋した図書館の幽霊  いしずえ翔』


 七作品の一番最後。

 僕の作品名とペンネームが、あたかも当然のようなすまし顔をしてそこに居る。

【田原さん、僕の名前、ありました! まさか最後の七作品に残してもらえるとは思っていませんでした】

【おめでとうございます! 素晴らしいですね。このまま一気に大賞まで行って欲しい! ペンネームも素敵です。『いしずえ翔』を復活なさったんですね】

【はい。思うところがあって、またこの名前を使うことにしました】

 どうして、田原さんはこの名前が『復活』させたものだと知っているんだろう。

 奏さんが校正してくれた原稿には、確かにこのペンネームを書いていたが、もしかして、愛加里さんが以前のことを彼女に話したのだろうか。

【僕の昔のペンネームのこと、知ってくれていたんですね。そういえば、愛加里さん、どうしてますか? 彼女の作品はどうなったんでしょう】

 そう書いたところで、僕は思わず指を止めた。

 送信ボタンの直上で、親指が震える。

 小さく吐いた息。

 無意識に、粉雪が舞う窓の外へ視線が泳いだ。

 なぜか、田原さんはここ最近、ずっと愛加里さんの近況を、『特に変わった様子は無い』としか話してくれない。

 むしろ、愛加里さんの話題を避けていると言ったほうが正確かもしれない。

 一次選考の結果が出たあと、一度だけ愛加里さんの作品のタイトルとペンネームについて田原さんに尋ねた。

 しかし、彼女の答えは、『聞かされていない』……のみ。

 あれだけ親しくしている田原さんに、愛加里さんが話さないはずはない。

 奏さんも同様だ。

 もちろん、奏さんはほとんど事務所に居ないのだから仕方がないとは思うが、それにしてもあまりに愛加里さんの件について無関心すぎる。

 奏さんと、田原さん……。

 間違いなく、このオフィス光風のふたりは、敢えて僕に愛加里さんのことを話さないようにしている。

 もしかして、愛加里さんがそうするよう望んだのだろうか。

 それとも、もう彼女はオフィス光風を退社させられて、父親のところへ引き戻されてしまったのだろうか。

【恒河沙さん……、いえ、いしずえ先生? 私、ずっと応援しますからね? 頑張ってください!】




『もしもし? 恐れ入ります。いしずえ翔先生に間違いありませんでしょうか。竹邉書房文学賞事務局の山本と申します』

「はい。いしずえです。お電話、ありがとうございます」

『早速ですが、お尋ねします。この度、ご応募いただいた作品ですが、執筆にあたって、引用したり模倣したりした他の作家さんの作品がありますか?』

 先週の銀世界がまるで夢だったかのように、鮮やかな彩りを取り戻した街並み。

 三月末の退職を睨んで、塾の事務担当者と年次休暇の消化の打ち合わせをしていたとき、その『竹邉』からの電話が鳴った。

「いえ、ありません」

『そうですか。僕も読ませていただきましたが、いまのところ、他作品の知的所有権を侵害するような内容は含まれていないと判断しています』

「ありがとうございます」

 創作とは関係ない、実に無味な事務的作業だ。

 大賞を獲った場合、その作品は書籍になって店頭に並ぶこととなるので、それが他の著作物の権利を侵害していないかを予め確認しておく作業。

 しかしこの担当者の声音には、その事務的な無味さがあまり無い。

『ちなみに、あの主人公の「はじめ」という名前は、なにから取られたんですか?』

「え? あまり深い意味はありません。苗字が『橋本』なんで、イニシャルが『H・H』になるように考えただけで……。ディズニーのキャラクターに倣った命名です。『ミッキー・マウス』の『M・M』とか、『ドナルド・ダック』の『D・D』とかと同じ感じで」

『ああ、なるほど。実は僕も、名前が「はじめ」なんです。同じ字、同じ読みで。いつも「ソウさん」と呼ばれて、主人公とまったく同じ思いをしてるんで、思わず笑ってしまって』

 実は、あの主人公の名は、奏さんがよく『ソウさん』と呼び間違えられていたという思い出話をヒントに付けたものだ。

 しかし、僕にとっては、その下の名前よりも苗字のほうに思入れがある。

 あの作品は、愛加里さんが書いた作品の遠い続編。

 彼女の作品の、約三〇年後を描いている。

 愛加里さんの話では高校生だった主要なキャラクターたちを、僕の作品ではいい感じの落ち着いた年代にして、主人公やヒロインを取り巻く重要なポジションで登場させた。

 その、愛加里さんの作品の中で、名前だけ登場した放送部部長の『橋本くん』が、僕の作品では主人公の父親となるので、実はこの苗字こそ愛加里さんの作品から受け継いだ、僕にとってずいぶんと意味のあるものになっている。

「そうなんですね。なにか縁があるのかもしれませんね」

『はい。なので、僕はいしずえ先生の作品を応援しますね』

「あはは。いいんですか? 事務局の方がそんなこと言って」

『いいんです。僕は選考にまったく関係ありませんし』

 厳格で生真面目な社風の竹邉書房にしては、ずいぶん柔軟な印象の人だ。

 思わず吹き出した僕を見て、事務の女性がきょとんとした。

 そうして、その通話を終えて年次休暇の話へ戻ろうとした、そのとき。

「ちょっとっ、勝手に入らないでくださいっ! ここは塾関係者以外――」

「あんたじゃ話にならん。塾長を出せっ! ここに萩生って講師が居るだろっ! そいつも連れて来いっ!」

 パーテーションの向こう、事務所の入口で聞こえた押し問答。

 受付の女性が慌てて席を立って、男を制止しているようだ。

 その男の声にあった、僕の名前。

 あいつか。

 何しに来たんだ?

 僕はぎゅっとネクタイを締め上げて、それからゆっくりとパーテーションのほうへ歩き出した。

 押し問答はまだ続いている。

「塾長は不在ですっ! 萩生がなんですかっ? ちょっと落ち着いてくださいっ」

「俺は落ち着いているぞ? 俺はな? あんなクズ講師をきちんと管理もしないで雇っているこの塾は、いったい何を考えているのかと塾長に問いただしに来たんだ!」

「はぁ? 萩生先生が何かしたっていうんですかっ?」

「何かしたのかだってっ? 俺の女に手を出して、どっかに連れて行きやがったんだぞっ?」

 ずいぶん勝手なことを言っている。

 僕は、喉元に上がって来た熱い塊をぐっと飲み込んで、それから努めて沈着にパーテーションの陰から顔を出した。

「どうしましたか? おやおや、これはこれは、『ビッグプラネッツ出版』に、『竹邉書房』から出向している、『編集者』の、相川さんじゃありませんかぁ」

「なんだ、お前、そこに居たのか。相変わらずの冴えないツラだな」

「仕方ないです。生まれつきなんで。それで? 僕になんの用ですか?」

「お前、愛加里くんをどこへやったんだ」

「愛加里さんを? 僕は何もしてませんけど」

 そう言いながら、僕は彼を制止していた受付の彼女に小さく手のひらを向けて自席へ戻るよう促した。

 その彼女をジロリと睨んだ相川が、小さく舌打ちして再び僕へと瞳を向ける。

「二月に入ってから愛加里くんと連絡が取れなくなったと、竹邉社長が心配しておられる! 野元社長にも聞いたが知らぬ存ぜぬの一点張りだ。お前っ、彼女をどっかにかくまっているだろ!」

「は? こっちが聞きたいくらいですよ。僕はあなたと喫茶店で会ったあの日以来、まったく愛加里さんと会っていません」

「ふん、物書きは嘘つきだからな。お前、彼女が文学賞の一次選考に漏れたもんで、竹邉社長に連れ戻されると思ったんだろ」

 やはり。

 彼女の作品は、一次選考に残れなかったんだ。

 いや、『残れなかった』んじゃない。

 『残らないようにされた』んだろう。

「お前なぁ、竹邉出版を敵に回したら、物書きとしては一生、日の目を見ないぞ? この塾だってすぐに働けないようにもできるんだ」

「あー、ここは来月いっぱいで辞めるので、別にそれはどうでもいいんですが。それより、僕も本当に愛加里さんのことは知らないんです」

「いい加減にしろっ!」

 その怒号と同時に、僕のネクタイを掴んだ相川の右手。

 僕は小さく息を吐いて、それからその右手にじわりと手を乗せた。

「あんた、警察ものとか読まないんでしょうね。これって、立派な『暴行罪』ですよ? なんなら、さっきの『働けなくしてやる』ってやつも『脅迫罪』ですけどね」

「生意気言うな。ガキが」

「すみません。もう、警察呼びます」

 そう言って事務室内へと顔半分向けると、僕の後ろには騒ぎを聞きつけた他の講師たちが集まって来ていた。

 それに気がついたのか、ハッと口を開けた相川。

 僕は、努めて冷静に、その顔に半眼を向ける。

「本当に、僕は何も知りません。もう、帰ってもらえませんか? 相川さん」

 それを聞いた相川は、「覚悟してろ」と低い声を出しながらネクタイから手を離すと、振り返って思い切りドアを蹴り飛ばした。

 響いた、ドンという鈍い音。

 同時に、「おいっ! 待ちやがれっ!」と背後から他の講師たちの罵声が飛んだ。

 僕はすぐに振り返り、小さく両手を広げながら彼らに苦笑いを向ける。

 事務所の奥から聞こえた、誰かが一一〇番通報している声。

 僕は、乱れたネクタイをおもむろに整えながら、彼らに大きく頭を下げた。

「皆さん、すみません。お騒がせして」

 そうして僕が顔を上げてもう一度彼らに瞳を向けたとき、ちょうど相川が去って行った通路の向こうで、彼をここから逃がすエレベーターのガイダンス音声が淡々と響いた。

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