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3-4 彼女が言った『資格』の意味は

『そう……。あたし、未亡人なの』

 別れ際、僕は彼女に「また明日」と言った。

 彼女は小さく頷いたが、いつも返って来る彼女の「また明日」はなかった。

『あたしの「新井」という苗字は、亡くなった彼が残してくれたもの』

 地下鉄へと向かう道で、ほんの少しだけ『彼』のことを話してくれた愛加里さん。

『彼は……、本気で小説家を目指していた。だから、あたしは、彼に代わってその道を追いかけたいって思った』

 部屋に帰り着いてすぐに淹れた、『ぬくもり』。

 その香りを手に、ここ最近ずっと深夜まで取り組んでいる新作執筆の画面に向かう。

 綴る、新しい物語。

 この物語は、僕がずっと僕自身についてきた嘘から、ちゃんと脱却できるかどうかを見極めるための試金石だ。

 そして、この物語を書こうと奮い立たせてくれたのは、愛加里さん以外の誰でもない。

『ごめんね……。ワタルくんの気持ち、とっても、とっても嬉しい……。でも……、あたしには、あなたのそばに居られる資格が無い』

 そう言って、彼女は謝罪の言葉を口にした。

 別に、彼女は僕に嘘をついていたわけじゃない。

 翻ってみれば、彼女がそのことを僕に対して吐露する機会を作ってあげられなかった、僕のほうに大いに非がある。

 彼女への想いに気がついてから、僕の胸にはずっと何かがつかえていた。

 たぶん僕は無意識に、強くなる彼女への想いを自覚するたびに、ふとした仕草の中に見え隠れする彼女の中の『誰か』に、ずっと気がつかない振りをしてきたんだと思う。

『去年の冬、父に再婚するよう迫られたときに、父の古い友人である奏さんが、あたしを物書きとして自立させるから再婚を無理強いするなって、庇ってくれて』

 今日、僕はその彼女が、あの『ぬくもりは珈琲色』のヒロインのように、いずれ僕の手の届かないところへ行ってしまう運命を纏っていると知った。

 しかし、彼女はそれに抗おうとしている。

『でも、それは父には響かなくて、結局、一年間の猶予を言い渡されたの。一年以内に、なにかのコンテストで大賞を獲れたら、好きにさせてやる……って』

 彼女が言った、『今年度中に賞を――』という言葉。

 それは、彼女が自分で人生を決めて歩めるようにするための戦い。

 僕が執筆に助力したあの作品は、彼女にとって、今年度に発表がある最後の大きなコンテスト、『竹邉ノベルズ文学賞』へと挑む、一縷の希望だ。

 すでに賽は投げられた。

 しかし、僕はなにもできないのか?

 いまの僕に、彼女のためにできることは何も無いのか?




「ごめんなさい。お待たせしたかしら」

「いいえ。すみません、野元社長。お忙しいのに時間を作っていただいて」

「『奏』でいいわ。愛加里さんのことだと聞いたので飛んで来ました」

 窓の向こうに、超高層ビルが見え隠れする、ターミナル駅の喫茶店。

 見下ろすと、蝶が羽を広げたような独特の立体交差が、人々の足元に可愛らしいループを描いている。

 『アルフヘイム』以外の喫茶店を訪れたのは、いったい何年ぶりだろう。

 見ると、傾きかけた夕日が、高層階のテーブルを淡いコントラストで彩っていた。

 そこには、美しく長い黒髪。

 その髪を軽く後ろへ払って、彼女はグレーのロングコートを脱ぎながら、上品に僕の対面へと腰を下ろした。

 愛加里さんが勤める、『オフィス光風』の社長、野元奏さん。

 たった一度、電車の中で会っただけだというのに、突然の『取材したい』という僕の不躾な願いに、彼女は快くここへやって来てくれた。

「聞いたのね? 彼女が未亡人だってこと。やっぱり……、ショックかしら」

「まったく驚かなかったと言えば嘘になりますが、彼女が過去のことについてそれとなく言葉を濁すことが何度かあったので、まぁ、薄々は……」

「流石ね。それで? 愛加里さんのことも含めて『取材したい』ってことだったけど、私でお役に立てるかしら」

「はい。是非お願いします」

 ちょうど、奏さんが注文したミルクティーが、豊かな香りと共にテーブルに届いた。

 僕は小さめのノートを広げて、その上にペンを置く。

「奏さん、愛加里さんが『竹邉』応募用に書いた作品、ご覧になりましたか?」

「ええ、おととい、ほぼ最終稿だと言って……。ありがとう。私の高校時代のエピソードをあんなに素敵な物語にしてくれて」

「あれって、どこまで事実なんですか?」

「そうね、それはご想像にお任せするわ。そういえば、愛加里さん、今週中には原稿を竹邉への郵便に乗せるって言ってたわね」

「はい。もうあとはユレの最終確認くらいだったので……。それで、取材と併せて、少しお願い……というか、諒解してもらいたいことがあるんですが」

「え?」

 少しだけ首を傾げた奏さん。

 僕はゆっくりと手元へ瞳を落として、それから心を決めて再度それを彼女へと向けた。

「僕、あの愛加里さんの作品の世界を踏襲して、遠い続編を書こうと思っているんです。その中に奏さんと奏さんの思い出の人のことが登場するので、そのお許しをもらおうと思いまして。そして……」

 じわりと、奏さんの瞳が大きくなった。

「あなた、もしかして」

「はい。その作品を……、僕も『竹邉』に応募しようと思います」

「でも、あと半月もないわよ? 間に合うのかしら」

「間に合わせます。構想はもうでき上がっていて、本編も書き始めています。ヒロインのモデルは愛加里さんです」

「愛加里さんがモデル……。どんな物語なのか、聞いても構わない?」

「はい。あるハンディーキャップを持った女性と、その女性を心から好きになる男性のラブストーリーです。男性は彼女のハンディーキャップのせいで数々の困難に見舞われますが、それをすべて超越して真の愛を貫くという……、まぁ、そんな感じの物語です」

 愛加里さんは、僕の隣に居られる『資格が無い』と言った。

 その『資格』の意味は、いったいなんだろう。

 彼女は『嘘』の無い人だ。

 対して僕は、数々の『嘘』を作って来た。

 本来の『嘘』は、他者をもうし、そしてその判断を誤らせる、人のごうだ。

 しかし、物語の『嘘』は違う。

 物語は、現実にはまったく存在しない虚構か、あるいは、なんらかのモデルを基に作り出した、いろどりある『優しい嘘』だ。

 そして、その物語の『優しい嘘』は、人の心の中にある記憶や感情を巧みに操り、喜ばせ、怒らせ、涙させ、『本物の心の動き』を作りだすんだ。

 その、『嘘が本物の心を作りだす』ということに魅了されて、僕は物語を書くようになった。

 愛加里さんの物語、そして僕がかつて書いた『ぬくもりは珈琲色』は、『相手を心から想うからこそ、共に歩まないことを選ぶ、真の愛』がテーマだ。

 愛加里さんは、いまも亡くなった彼のことを想っている。

 そして、彼女が僕の想いの言葉に対して言った『資格が無い』という返答からすれば、きっと彼女が感じているのは、『僕のことを想うからこそ、彼を想ったままでは僕の隣には居られない』ということなのだろうと思う。

 これは、彼女が自ら自身に負わせたハンディーキャップだ。

 僕は、それを障害とは感じない。

 むしろ、彼を想う彼女を、その想いを含めて『彼女そのもの』として大切に想っている。

 それならば、答えは簡単だ。

 僕が、『相手を想うからこそ、共に歩まないことを選ぶ愛』ではなく、『相手を想うからこそ、苦難も障害もその相手の一部として愛し、そして共に力強く歩むことを選ぶ愛』を物語にして、これこそ僕の想いだと、彼女に伝えればいい。

 そして、その長編恋文の題材に選ぶのは、彼女が書いた奏さんの物語の……、遠い続編だ。

 これを、『竹邉』へと挑ませる。

 どこまで行けるか分からないが、叶うなら僕自身が……、いや、僕と彼女が共に栄誉を受け、そして作家としての僕らの言葉が、彼女を縛り付けている傲慢な権力に届くようにするんだ。

 これが、僕の戦いだ。

「そう……、素敵ね。どんな物語になるのか楽しみだわ。それで? 私に取材したいというのは、その物語に必要なエピソードということね? 何を話せばいいのかしら」

「はい。高校を卒業してからの奏さんのことと……、愛加里さんの亡くなった旦那さんとの幸せな日々のことを」

「あなたは……、それを聞いて平気?」

「はい。彼女がいまも大切にしている彼への想いは、これから僕が大切にしてあげたい愛加里さんそのものですから」

 その僕の言葉を聞いて、奏さんがなにかを言おうとしたその口をきゅっと結んだ。

 じっと、その美しい瞳が僕を見つめる。

「ワタルさん……、あなた、本気なのね?」

「はい。彼女を、一生、大切にします」

「よかった。あなたが居てくれて。取材、喜んでお受けするわ」

 奏さんの、満面の笑み。

 僕はふと我に返り、思わずハッとして下を向いた。

 くすくすと彼女が口を押える。

 僕は小さく咳払いをすると、それから気を取り直したような仕草をして、ノートに置いたペンをサッと取った。

 彼女へ向けたのは、静かな野心を秘めた真っ直ぐな瞳。

「奏さん、実は……、今度の『竹邉』の審査委員長って、高溝和馬先生なんです」

「あら、そうだったかしら。あの、『ミステリーの大御所』ね」

「たしか、奏さんは高溝先生と一緒に仕事をなさったことがありますよね?」

「そうね。イギリスミステリーの特集で、一緒に渡英したことがあるわ」

「それと……、竹邉社長とも」

「まぁ、よくご存知ね。愛加里さんに聞いたの? そう、竹邉英雄社長は、私が竹邉に勤めていたときの先輩よ?」

「竹邉社長とは、プライベートでも交流があったんですよね?」

「愛加里さんが小さいときね。奥さまが亡くなってだいぶ経ってから、まだ幼かった愛加里さんがすごく寂しそうにしていると知って、彼女の遊び相手になるためによく彼の家へお邪魔したわ」

 以前、愛加里さんが奏さんのことを少しだけ話してくれた。

 奏さんは、僕の大学の先輩らしい。

 中学生のときまでイギリスで暮らしていた帰国子女で、大学卒業後はその堪能な英語を生かして、翻訳家として竹邉書房へ入社したそうだ。

 竹邉書房での活躍は目覚ましく、海外情報誌の日本版の編集や、日本未発売の長編小説の翻訳発刊など、数え切れないほどの業績を残したとのこと。

 そして、竹邉書房の現在の社長である竹邉英雄氏、つまり、愛加里さんのお父さんとは海外事業部拡大のときに苦楽を共にしたパートナーで、プライベートでも交流があったらしい。

「まぁ、竹邉先輩が社長を継ぐときに、いろいろあって『竹邉』を退社して、いまの『オフィス光風』を立ち上げたの。いまも竹邉書房と一緒にする仕事はずいぶん多いわ」

 少し遠い目をした奏さん。

 たぶん、奏さんも竹邉社長といろんなことがあったんだろう。

 僕はゆっくりと笑みを作って、少しだけ覗き見上げるように奏さんへ瞳を向けた。

「奏さん、そこで取材とは別に、ちょっとお願いがあるんですが……」

「お願い? なにかしら」

「よろしければ……、高溝先生からの高評価と、竹邉社長からの好印象を得られるような、作品哲学、価値観、文体や構成など、僕に知恵を貸してもらえませんか?」

「え? まぁ、構わないけど、私……、自信ないわ?」

「大丈夫です。それと、もうひとつ。ちょっとしたスパイ活動も」

「スパイ活動?」

「はい。鬼泪山という、僕の親友にも同じことを頼むつもりです」




【愛加里さん、原稿はちゃんと出した? どっかでばら撒いたりしてない?】

【してないよ? 昨日、ちゃんと出した。いろいろありがとね。おかげで満足いく作品にすることができました。これで後悔はないよ。急に寒くなったね。ちゃんと暖かくしてる?】

【うん。大丈夫。愛加里さんこそ、ちゃんとあったかいもの食べてる? そのうち、またあの居酒屋の玉子雑炊食べに行こう。ところで、一次、二次の選考発表っていつだったっけ】

【うん。行けたらいいね。選考は、一次が一月中旬、二次が二月中旬だね。最終選考の発表は二月末みたい】

【そっか。タイトルって何にした?】

【たぶん、ワタルくんが見たらすぐ分かるやつ。ペンネームも】

 ちょうどその返信を受け取ったとき、僕の駅のホームを前にして電車の扉が開いた。

 ハッとして立ち上がり、小走りで列車を降りる。

 あれから、僕は一度も愛加里さんと会えていない。

 メッセージも数日置きだ。

 誘いたいのはやまやまだが、愛加里さんは何か年明けに大きな案件を扱う予定が入っているらしく、いまはその準備に追われてとても多忙な日々を送っている様子。

 僕も、あと一週間ほどで作品を完成させなければならないので、愛加里さんとゆっくり居酒屋へ行く時間は取れそうにない。

【愛加里さん、クリスマスは予定ある?】

【いまのところ無いけど、塾生さんたちが追い込みでワタルくんのほうが時間取れないんじゃない? だから遠慮する】

【それじゃ、お正月は? 愛加里さんは実家には帰らないよね?】

【え? ワタルくんも実家に帰らないつもりなの? お母さん、寂しがるよ? ちゃんと帰ってあげて? だから遠慮する】

【じゃあ、愛加里さんの誕生日は? 一月十二日だよね。一緒に誕生パーティーやろう】

【うーん】

 分かっている。

 どうあっても、彼女は僕と顔を合わせないつもりなんだろう。

 『愛加里さんは僕と同じ気持ち』だと、田原さんは教えてくれた。

 まさか、僕がこんなふうに彼女に想いを寄せるなんて、彼女はまったく考えていなかったのかもしれない。

 僕のこの気持ちは本物だ。

 しかし彼女は、心の中の『彼』へのその素敵な想いが、僕の隣で共に人生を歩むことの障害になると自己完結してしまった。

 それがおそらく、彼女が言った『資格が無い』の意味だ。

 たぶん彼女は、僕の想いが薄れゆくように、僕が春になって故郷へ帰って彼女のことを忘れてしまうように、こんなにも不器用に僕との距離を取ろうとしている。

 それとも……、『竹邉』の結果がどう出るかを待っているのだろうか。

 一次審査の発表は、一月中旬。

 あと二か月弱だ。

 もし、愛加里さんの作品が一次落選となり、さらに彼女が本気でお父さんとの約束を守らなければならないと考えているのなら、その時点で彼女はもう僕の手の届かない人になってしまう。

 二次審査の結果は二月下旬、最終選考結果は二月末……。

 その答えを、彼女は待つつもりなんだろうか。

【うーん、でももう、ワタルくん、そのころって地元に帰る準備を始めないといけないんじゃない?】

【まぁ、確かにいろんな支払いや契約解除なんかを考えると、二月いっぱいでマンションを引き払ったほうがお得にはなるかな。年次休暇の消化もあるから、三月はもう地元へ帰っていても不都合はないし】

【そうよね。だから遠慮する】

【いや、愛加里さんのお祝いするくらいの時間はあるよ?】

【うーん】

 遅々とした返信。

 ちょうど自室の扉の前に辿り着いたとき、僕はもう一度スマートフォンの画面を覗き込んだ。

 その向こうに見え隠れする、どうやって僕の想いをはぐらかそうかと思案している愛加里さんの顔。

 もちろん、彼女の小説が賞を得て、そしてお父さんが彼女を後継者にすることを諦めてくれれば、それが一番いい。

 しかし、そのお父さんは天下の大手出版社、竹邉書房の社長だ。

 創業者の孫であり、竹邉家の存続と竹邉書房の繁栄を先代から託された、業界屈指の権力者だ。

 懸念するのは、彼女の作品がその権力者の邪心の影響を受けずに、本当に正当な評価をしてもらえるかどうか。

 奏さんは、愛加里さんの人生が、『竹邉家の重圧から逃れたいとあがき続けてきた人生』だと教えてくれた。

 その彼女に、僕はどうにかして僕の隣にずっと居続けて欲しいと願っている。

 その方法は必ずあるはずだ。

 僕が、彼女のお陰で、迷い込んでいた惨めな廻廊から抜け出せたように。

「僕には、愛加里さんが思い出させてくれた『優しい嘘』がある」

 思わず出た、独り言。

 そして僕は、それを静かに飲み込みながら玄関扉に手を掛けて、そしてもう今日は返信が来ないであろうその画面にメッセージを書き込んだ。

【愛加里さん、春になってもずっと一緒に居られるように、僕が絶対なんとかするから】

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