ある夏の夜の闘い
季節柄、一作目はこれにしてみました。
読みながら痒くなるかもしれません……。
「ある夏の夜の闘い」
ぷい~ん……
びくり。
反射的に首が竦み、ぶんぶんと頭を振る。
蚊だ。蚊がいる。
がばりと飛び起きて、電気を点ける。
一瞬鈍い痛みが目の奥で炸裂するが、それどころではない。
蚊だ。蚊がいるのだ。
ベットとちゃぶ台と箪笥が一竿置かれたきりの6畳一間の我が城に、今敵が潜んでいるのだ。
薄いグリーンのベットカバーの回りと、白い壁紙に目を凝らす。奴は、必ずこの辺りに居る筈だ。 果たして、さっき俺の頭があった枕の窪みから1m程上の壁紙の上に、奴等はいた。
……オーマイガッ!
何てこった。3匹もいやがる。
俺は息を止めてそっと奴等に気付かれぬよう右手を差し出し、一番右端に止まっている奴に痛烈な平手をぶちかました。
ばしっ。
特に手応えは感じなかったが、手をそっと除けると、茶色い小さな物体がぽとりとシーツの上に落ちた。血は吸っていなかった。オスだったのかも知れない。しまった。ではその隣の奴だったか。
俺は次の敵をしとめるべく、猛然と立ち上がった。
さっきの衝撃で、奴等は別々の方向へ逃げ去っていた。
だが、窓も扉も閉めてある。必ずまだこの部屋のどこかに居る筈だ。
何処だ。――何処だ。
俺は部屋の中をぐるりと一周した。
ふと、空気の動きを感じて窓の方を見ると、わぁ、窓が閉め忘れ。
立て付けの悪いこの部屋の網戸は、ぴったりと閉めることが出来ず、サッシの上部に斜めに隙間が生じていた。奴等はここから侵入したのだ。
俺はかっとなって乱暴に窓を閉めて厳重にロックを掛け、改めて部屋の中に向き直った。侵入経路も、逃走経路も断った。
さあ、観念しやがれ。
もう一度、壁紙を上から下まで舐めるように探した。――いない。
いや、そんな筈はない。と、すればここか。
俺はベットの上に飛び乗り、今度は天井を見渡した。
――いた。
やっぱり頭の側の天井に、2匹揃って15cm程の距離を置いてとまっている。
俺はもう一度、息を止めてそいつを良く観察した。左側の奴が、若干大きいような気がする。心なしか、腹の辺りも膨らんでいるような。
俺は細心の注意を払って、そいつめがけて手を打ちつけた。
ぷい~ん。
畜生、逃げられた。よりによってこっちへ向かってくる。
あの身の毛もよだつ小さな羽音が、耳元をかすめる。
俺は鳥肌が立って、頭を狂ったようにめちゃくちゃに振り回した。
――聞こえなくなった。
沸々と怒りがこみ上げてくる。
忘れていた痒みが蘇ってきた。二の腕の内側の柔らかい所と、膝の裏側。これは昨日刺された分だ。寝ている間に無意識に掻きむしったせいで、回りの皮膚に赤い斑点が生じている。その内、数個から出血していた。
掻いてはいけない。
このままでは刺激に弱い俺の肌には、一夏中消えない跡が残ってしまうだろう。
俺はきいいー、と叫びながら、ぷっくりと膨らんだその中央に爪でばってんの印を付けた。
それにしても痒い。
俺は患部をもう少し良く見ようとTシャツの袖をまくり上げて腕の肉を掴み、愕然となった。
丁度見えなかった裏側の部分に、新たな刺し跡を発見したのだ。
しかもやっぱり掻きむしっていたらしく、無惨に膨れ上がっている。奇妙な形に表面が凸凹して、まるで寄生虫が皮膚の内側を掘り進んだように、3方へ細い筋が伸び広がっている。まるで小さなピンクのくらげが張り付いているようだ。
猛然と腹が立ってきた。
献血もしたことの無い注射嫌いのこの俺が、何が悲しくてちっぽけな虫の食い物にされなきゃならないんだ。
うがー。
目を血走らせながら、部屋中をぐるぐると探し回った。
――いた。
さっきと丁度反対側の天井に一匹。
うおー、と叫びつつ茶ぶ台に飛び乗って、拳を突き上げる。
ぷち。
はっとする程鮮やかな赤い染みが、真っ白な壁紙の上に生じた。俺の血だ。慌ててティッシュで白黒縞の死体ごと拭き取ろうとしたが、血の染みは消えない。
やっきになってごしごしと擦ると、染みは余計に周囲に広がって茶色っぽく変色した。
こ、こんなものがあちこちに点々と付いたら、部屋の立ち退きの際に、リフォーム代を大家にふっかけられるに違いない。このアパートは内装をリフォームしたてで(といっても壁紙以外はボロいままだが)、俺はこの春入居したばかりだった。
俺は呪詛の言葉を喚き散らしながら、血走った目を周囲に走らせた。
そして、1時間。
ベットの下から、カーテンの裏まで虱潰しに探し回ったのに、最後の一匹は発見できなかった。
俺は大きく肩で息をしながら、次の策を練った。
こうなったら、誘導作戦だ。俺はごろりとまた横になり、大判のタオルケットを首までしっかりと被って、奴が襲ってくるのを待った。
蚊は、汗や二酸化炭素を嗅ぎ付けて寄ってくると聞いたことがある。
それから、体温の高い方へ。
それにしても、何で血なんか吸うんだ。ボウフラを生む為の栄養にするなら、その辺の雑草や野良猫でも吸ってりゃいいんだ。人間の方が旨いからか?
でも何で俺なんだ。金欠で、栄養失調気味なんだぞ。旨いはず無いじゃないか。冗談じゃない。
そう言えば、卵を生む為に、女性ホルモンが必要だという説も聞いたことがあるが、おい、俺は男だぞ。
――つらつらと考えを巡らせつつ俺は目を見開いて、敵の襲来を待ち受けた。
気が付いたら、蛍光灯が煌々とつきっぱなしのまま、朝を迎えていた。
やばい。眠ってしまった。
ぼんやりとした頭を振りつつ、俺は自分が脚の指をごしごしと擦り会わせているのに気付いて、愕然となった。
ま、まさか。
足でも人差し指と呼ぶんだろうか。左足の一番長い指の頭が、霜焼けのようにぷっくりと膨れていた。人によっては足の指は親指が一番長いという人もいるが、俺の場合は二番目の指が一番長いのだ。
だが、そんなことはどうでもよろしい――や、やられた!
タオルケットが、ぎりぎりで全身を多い尽くせていなかったのだろう、頭以外で唯一覗いていた指先を襲われたのだ。何て卑怯な奴だ。頭を狙うと俺が飛び起きると学習しての犯行か。
くそっ、知能犯め。
俺はその日、来るべく今夜の新たなる襲撃に備えて、蚊取り線香と殺虫剤と、虫避けスプレーを買い込んだ。
勿論虫刺されの薬は数種類用意して、歯ぎしりしながら交互に刺された箇所に塗りたくった。
買い物の最中も、靴の中で指先が猛烈に痒くなりだして、まさに靴下掻痒、俺は発狂しそうになっていた。
ついでに100円ショップで蝿叩きと、勢い余って水鉄砲を買った。銀玉鉄砲と花火にも目が行ったが、さすがに、まさか子供じゃあるまいし、と思って断念する。
そして夜がやってきた。
窓は昨日から開けておらず、ドアの出入りにも注意していたので、敵は逃げても、ましてや援軍を呼んでもいない筈だった。
今日こそはぶち殺してやる。
俺はバンダナをきりりと額に巻き付け、ベットの上に胡座をかいた。武器は手の届く範囲に全て陳列してある。
部屋に戻ってから数時間経っているが、俺が動きまわっている間は、奴は襲ってこない様子だった。つくづく知恵の回る奴である。試しに、箪笥の裏やベットの下に殺虫剤を吹き込んで、追い出し作戦を試みてもみたが、結局見つからなかった。
俺は腹を決めた。
時計の針が頂点の12に重なり、日付が変わった。
大体いつも俺が就寝する時間だ。
奴は、まだ様子を窺っている。
眠ってしまっては相手の思うつぼだ。俺は徹夜を覚悟でブラックコーヒーを2杯がぶ飲みし、TVをつけて気を紛らわせながらも、相手の出方を窺った。
ぷいぃぃぃぃん……
その忌まわしい羽音が耳元を掠めたのは、明け方の4時頃だった。
やはり奴は様子を窺っていただけなのだ。俺は即座に立ち上がり、左手に殺虫剤、右手に蝿叩きを構えて、敵の姿を探した。
そして、見つけた――が、思わず立ちすくんでしまった。
2匹いるのだ。目の錯覚ではない。
確かに2匹、仲良く並んで昨日俺の血と仲間の死体が作った染みの側に止まっているのだ。そして。
……ぷいぃぃ~ん
耳元を別の羽音が。
さ、3匹目!?
俺は訳の分からない奇声を上げながら、蝿叩きを目の前の2匹に叩きつけ、同時に殺虫剤のノズルを力一杯押し込んで、薬をまき散らした。
殺してやる、ぶっ殺してやる……
奴等は、手恐かった。
日が完全に昇るまでに俺は殺虫剤を使い果たし、まさか使うまいと思っていた水鉄砲まで持ち出して果敢に立ち向かった。
赤い染みが一つ増える度に、俺の中で何かがぷつりと音を立てる。
ふと気付くと白い壁紙には小さな染みがあちこちに散っていた。虚ろな目でベット脇の目覚まし時計を見ると、既に8時を過ぎていた。
完全に遅刻だった。
だが、俺は勝ったのだ。
勝ち誇ってすがすがしい気分でその染みの数を数えてみると、何と百八個もあった。
俺は今更ながらぞっとなって、部屋中の出入口になりそうな所をくまなく点検したが、侵入口らしいものはとうとう発見出来なかった。
――世の中には、常識では計り知れない事実が起こりうる、という事を身を持って体験した、ある夏の夜の恐怖の出来事だ。
俺は、声を大にして言いたい。
蚊の退治方法は色々あるが、やはり増やさないことが先決だろう。
近所の側溝やマンホールには、全て薬品を放り込んで置くがいい。環境に影響を与えない、蚊専用の薬剤もあるそうだ。
最近の街中では茶色いチカイエカという、年中血を吸う凶暴な奴が蔓延しているらしいから、冬場だとて怠るべきではない。
川などの流水ならば、ボウフラは湧けないから、いいだろう。
庭に池等ある人は、金魚や小魚を飼わなければならない。立法化するべきだと思う。
奴等の隠れ家になる雑草の茂みなどは、早めに刈ってしまうのは、これはもう人間としての義務だ。近所の人の迷惑も考えるがいい。5人組制度でも設けて、互いに目を光らせることを提案したい。
そして俺は、日課になった水撒きをする。
ホースで、じゃない。
盥やバケツに少し濁った水を数日放置しておき、それを炎天下の日に一気にぶちまけるのだ。
焼けたアスファルトの上で、ぴちぴちとボウフラが焼け死んでいくのは、見ているだけで胸のすく光景だ。
その様を見ていると、俺の顔には、自然と笑みがこみ上げてくる。
国中にこの習慣が広まれば、何時の日にか、日本に蚊は居なくなる筈だ。
日本脳炎や、デング熱の心配をする必要もなくなるだろう。マラリアをはじめ、各種の伝染病を媒介して、世界で人間の命を一番奪っている生き物は蚊なんだぞ?――2番目は人間なんだがね。
――その希望を胸に、俺は今日も日夜、蚊・撲滅運動の布教に走っている。
夜毎、小さな羽音にお悩みの諸兄に告ぐ。
――さあ、俺に続くのだ!! ――
- 完 -