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Darjeeling First Flush

作者: 桜月まき

 …よし、完璧だ。


 秋雨子(しゅうこ)は整った部屋をぐるりと見渡して、ひとり頷く。コーチのショルダーバッグを手にして、玄関へと向かう。


 玄関の大きな姿見で、自分の姿を入念にチェックする。…久しぶりに髪を結い上げて、フルメイクして、ピアスもつけて、スカートはいて…ちょっと気合入れすぎかなぁ? 大丈夫? メイク、濃くない?


 納得のいくまで鏡を覗き込んでから、靴箱の扉を開けて、ちょっとヒールの高めのサンダルを取り出す。このサンダルも、久々だ。


 こんなにちゃんとお洒落して出掛けるのは、本当に、いつ以来だろう? 昨年結婚して仕事を辞めて以来…というのは大袈裟だけど、思い出せないくらい久しぶりなのは事実だ。そして、近所のスーパーとかじゃなく、ひとりで電車に乗って出掛けるのも、同じくらい久しぶりなんじゃないかと思う。


 秋雨子はそう思うとなんだか少し寂しいものを感じたが、すぐに気を取り直して、それより今日こうしてお洒落して出掛けようとしている理由の方を思い出し、ワクワクしだす。


 今日は、秋雨子の大好きなイタリアのアーティストの個展が、とあるギャラリーで開催されているのを見に行くのだ。同じアーティストの個展は、以前十年くらい前に見に行ったきりだったので、すごく楽しみにしていた。なんだか、昔の恋人に会いに行くみたいなドキドキと、ちょっと似ている。


 秋雨子はサンダルを履いて玄関を出る。鍵を閉めて、マンションを後にする。軽やかな足取りで、最寄の駅へと向かった。




 …わたしって…ツメ、甘い…。


 ギャラリーに着いた秋雨子は、入口の営業時間のプレートを見てがっくりと肩を落とす。そこにはOPEN 11:00 〜 18:00 と書いてある。…ただいま時刻は九時五十六分。てっきり十時からだと思い込んで、はりきって家を出てきてしまった。


 はぁう、とため息をついて秋雨子は踵を返す。ここで一時間もつっ立っているわけにもいかないし…駅の近くに喫茶店のひとつもあるだろう。そう思って、元来た道を引き返す。


 梅雨の晴れ間が眩しく、まだ午前中だというのに既に汗ばむ陽気だ。


 来る途中には気づかなかったが、ギャラリーから程なく近くに、小さいけれどシンプルな、秋雨子好みのお洒落っぽいカフェらしきお店を発見した。マンションの一階部分のテナント、写真屋さんと音楽教室、その並びの一店舗。表はログハウスっぽい木の外装になっている。入り口のドアには流木を使ったドアノブと、さりげないプレートが掛かっている。


 秋雨子はほっとして、お店の看板を見てみる。




 Tea Room * LUPINUS。




 へぇ、こんなところに紅茶のお店があったんだ。あまりこの界隈には用がないので、ほとんど降りたことのない駅だったけど…。先程のショックが少し和らいで、秋雨子は微笑む。


 …っと待って。営業時間は? 秋雨子はさっきの二の舞にならぬよう、用心深く営業時間を確認する。流木のプレートの下に、10:00 〜 21:00 と書いてある。あ、よかった。オープンしたばかりだ。

 

 うんうん、と頷いて秋雨子はここでギャラリーが開くまで時間を潰すことに決めた。…時間潰しで Tea Room なんて、これまた久しぶりで、なんだか嬉しい。


 木製のドアを押して、秋雨子は店内に入る。


「いらっしゃいませ〜。」


 シャラシャラシャラン…と耳に心地のよいウィンドベルの音と同時に、明るい女性店員の声。自分と同年代だろうか、カウンターから長い髪をひとつに束ねた女性が、こちらを振り向いて笑顔で挨拶する。


 …あれ? この顔、どこかで…。秋雨子は彼女の顔に見覚えがあるような気がした。


 するとカウンターの女性の笑顔が驚きの表情に変わる。


「…秋雨子、先輩? …経堂、秋雨子先輩ですよね?!」


 旧姓を呼ばれた。やっぱり、わたしこの人のこと知ってる…。誰だったっけ、先輩、って言ってるから後輩ってことよね…? 秋雨子は記憶の糸を必死に手繰り寄せる。


「わたし、館岡です! 館岡多嘉子! ほら、大学の旅行サークルの一年後輩の…」


 言われてやっと思い出した。


「!! 多嘉子ちゃん?! うわぁビックリ!!!」


「わたしもビックリですよ〜!」


 カウンター越しにニコニコする彼女の顔…あぁ、思い出した。大学のサークルの後輩…館岡多嘉子ちゃん。1年後輩のグループの中でも常にリーダーシップをとっていて、それでいて落ち着いた感じのイメージ、後輩ながらしっかりした子だなぁといつも思っていた。


 どうぞどうぞと多嘉子にカウンター席を勧められ、秋雨子はそこに座る。開店したばかりだからか、客はまだ秋雨子ひとりだ。


 …店内を座ったままくるりと眺めてみる。内装も外装同様、落ち着いた明るいウッド調に、センスのいい一輪挿しやファブリック…間違いなく店全体が多嘉子の趣味で作られている。学生時代から多嘉子の趣味はセンスがよく、秋雨子好みだった。さりげないアクセサリーとか、ナチュラルだけどどこか女性らしさが漂うラインとか…。秋雨子は納得する。なるほど、このお店、わたしが一目で気に入るはずだ。


「すごいわねぇ、多嘉子ちゃんのお店なんでしょ? カフェ経営者かぁ…素敵ねぇ。ひとりでやってるの?」


 お水を出してくれた多嘉子に秋雨子は問う。多嘉子は笑う。


「経営者だなんて、そんな立派なもんじゃないですよぉ。大学生のバイト君が一人いるんですけど、今日は午後から。…先輩は? お仕事の合間の時間調整か何かですか?」


 多嘉子に聞かれ、秋雨子は首を振って苦笑する。


「ううん、今日はこの近くのギャラリーの個展見に来たんだけど…ちょっと早く着き過ぎちゃって。」


「あぁ、イタリアのアーティストの個展ですね? さすが先輩、相変わらずイタリア好きなんですねぇ。そういえばだいぶ前ですけど、駅のホームで理恵先輩に会って…秋雨子先輩、イタリア語の通訳のお仕事してるって聞きましたよ。すごいですね。」


 …多嘉子のキラキラした目を真っ直ぐに見れなくなってしまう。だいぶ前って…それ、いつの話よ? 秋雨子は自虐的に微笑む。


「通訳なんて、そんなたいそうなもんじゃないのよ。ほら、わたしイタリア語専攻してたじゃない? それでイタリア雑貨輸入している会社に就職して…本当は事務職なんだけど、人の少ない小さい会社だったから、向こうと取引するのにイタリア語でやりとりする手伝いをしてただけで…通訳の仕事、ってわけじゃないのよ。てかそれも去年結婚退職して、今は専業主婦。」


 秋雨子はふふ、と笑ってみせる。…あの頃…学生の頃はイタリア語の通訳か翻訳家になりたくて…でもなれなくてなんとか親のコネで少しだけイタリアに関係する会社に就職して…そこでイタリア語をほんの少し使って仕事をしていたから、同級生の理恵には強がりで“通訳をしている”なんて豪語してしまっていたのだ。思い出して、内心赤面。


「え、先輩専業主婦なんですか? なんか意外…。」


「でしょ? よく言われる。よく結婚してくれる人がいたねぇ、なんて。」


「いや、そっちじゃなくて…秋雨子先輩結婚しても子供産んでもバリバリ好きな仕事ずっと続けていくようなイメージの人だったので…。」


「あー…それもよく言われる。」


 苦笑。実際、理想はそうだった。通訳か翻訳の仕事を、ずっとずっとやっていきたいと思っていた。


「でも理想と現実は違うのよね…。」


 ふう、とため息交じりに本音の言葉をつい口にしてしまった。多嘉子はティーポットを手に取り、秋雨子に尋ねる。


「何にしましょう?」


 秋雨子は慌ててメニューをめくる。オーダーまだしてなかった。メニューを見てみるが、当たり前だけど紅茶の名前がいろいろ並んでいて、珈琲派の秋雨子はどれを選んでいいか、すぐには決められない。


 決めかねていると、多嘉子が言った。


「…よかったらおまかせにしていただけませんか? 秋雨子先輩っぽい紅茶、お淹れしますよ。」


「うん、じゃあ、それでお願いします。」


 多嘉子の言葉に甘えて秋雨子は頷く。多嘉子のことだから、センスのいい紅茶を選んでくれるに違いない。


 多嘉子はティーポットに茶葉を入れながら、さりげなく秋雨子の台詞を繰り返す。


「理想と現実…ですか?」


 聞き返されて、秋雨子はつい、長い間心の中に閉まっておいたことを多嘉子に打ち明け始める。


「…本当はイタリア語の仕事をしたかったな。仕事じゃなくても、何でもいい、イタリア語に関係すること…イタリア語に、触れていたかった。輸入の仕事もイタリア関係で楽しかったし、続けたかったけど…会社がかなり封建的でね、女性は長く会社勤めするもんじゃないっていう社風で…お局っぽくなってくるとお見合い攻撃よ。社長の奥さんがなんていうの? お見合い好きっていうか、お世話好きでねー…毎日のように写真持ってくるの。」


「え、じゃあひょっとして秋雨子先輩、お見合い結婚?」


 お湯を沸かしながら多嘉子が問う。これもよく友達に意外がられるのだ。


「いいかげんうんざりしちゃって、辞表書いて持っていこうとしたその日に見せられたお見合い写真がね…、実は、初恋の相手だったの。」


「ええぇっっ! それってすごい偶然!」


「でしょ? 驚いちゃって…。初恋の人だもん、会うだけでも会ってみたいじゃない。思わずその話受けちゃって…そのままトントン拍子に、ゴールイン。」


「へぇぇ…そうだったんですかぁ…。すごいめぐり逢いですね…素敵〜。」


 沸騰したお湯の火を止めて、多嘉子はうらやましそうに言った。


「でも、そういう封建的な会社だから、結婚決まったと同時に退職も自動的に決定。その頃にはイタリア語のできる男の子入ってたから、通訳っぽい仕事もなかったしね。で、結婚退職して、今に至るというわけ。」


 自分の母親も周りの友達も専業主婦ばかりだったので、そんなもんかなぁ…と現実を受け入れてきたけど…。結婚してもうすぐ一年。ちょっと、飽きてきた。今日みたいに久しぶりに外にお洒落して出掛けると、普段の自分がとてもつまらない人生を送っているようにさえ思えてしまう。一つ下の多嘉子はこんな立派なティールームを経営しているのに…わたしは?


 今の生活にも旦那にも、不平不満なんか全然ないけど…なんだか、物足りない。


「旦那様って、どんな方なんですか? 初恋ってことは…小学生とか、中学生の頃から知っている人ってことですよね?」


 秋雨子のネガティブ思考を遮るかのようなタイミングで、多嘉子が尋ねる。秋雨子は笑って答える。


「中学のクラスメイトでね。あの頃は顔合わせると喧嘩ばっかりしてて…告白なんてとんでもなかったなぁ。高校ばらばらでそのままぱったり会わなくなって…それっきり。お見合いの席で再会して、お互い見た目は当然大人になってるんだけど、中身がまったく変わってないっていうか…。中学の時できなかった告白、お見合いの席でしちゃった。そしたら奴ね、もっと早く言ってくれればよかったのに、なんて言ったのよー。」


「なぁんだ、それじゃお見合い結婚というより恋愛結婚に近いんじゃないですか?」


 多嘉子がくすくす笑いながらティーポットにお湯を注ぎ始める。コポコポと、心地良い音が秋雨子の耳をくすぐる。


「でも、秋雨子先輩専業主婦だっていうし、お見合いだし…ひょっとして旦那様、資産家の息子さんとか? セレブ婚???」


「まっさかぁ。しがない私立高校の化学教師よー。実家も普通のおうちだし。」


「そっか…よかった。旦那様も封建的なのかと思っちゃいました。女は家庭に入るもんだ、とか言うような。」


「あ、そういうのは全くないわね。同級生だったし、ほんと、中学の時と変わってないのよ。対等っていうか…どっちかって言うとわたしの方が強かったりして?」


 ほんとに、泰斗(たいと)…旦那には、何ひとつ不満はない。休みの日は一緒に買い物にも行くし、たまにはつまらないことで喧嘩もするけど…一緒にいて、すごく楽しいし、ほっとする存在。気のおけない友達みたい。泰斗と再会できて、結婚できて、本当に幸せだと思う。


 …だけど。


 何かが、足りない。それに、気づきかけている。


「お待たせしました。」


 多嘉子がそう言ってカウンターにティーカップを置く。リチャードジノリの、ベッキオホワイト。以前会社でも少し扱っていて、気に入っていたカップなのですぐにわかった。多嘉子は恐らく、いや、間違いなく秋雨子の趣味を理解してこのカップを選んでくれている。


 そしてその真っ白なカップに注がれた淡い淡い金色の紅茶…紅茶というには淡すぎるその水色…それでいてちゃんと自己主張している花のような甘い香り…。


「これ…紅茶?」


 秋雨子が問うと、多嘉子は嬉しそうに頷く。


「秋雨子先輩にピッタリの紅茶ですよ。ダージリンファーストフラッシュ。サングマってい

う茶園の、今年の初摘み…つまり新茶ですね。しかも新茶も新茶、DJ1っていって、今年その茶園で一番最初に収穫された茶葉から作った紅茶です。」


 今年の、一番最初のダージリン紅茶…。それが、わたしピッタリの紅茶?


「そんな新鮮さもピュアさもわたし、ないけどなぁ…。」


 苦笑して秋雨子がそう言うと、多嘉子は意味ありげに笑う。


「今日、というかこの瞬間から、秋雨子先輩の新しい人生が始まるような、そんな気がしたから。」


「新しい、人生?」


 問い返すと多嘉子はティーポットにティーコジーを被せながら頷く。


「さっき、理想と現実は違うって、秋雨子先輩言ったじゃないですか。本当はイタリア語のお仕事したかった、って。…それ、まだ過去形にするの、早いですよ。その理想を現実にすること、まだ不可能と決まったわけじゃないじゃないですか。」


「…え?」


 多嘉子の顔を見つめる。と、多嘉子は真剣な目をしていた。すぐにそのまなざしは微笑みに変わり、秋雨子に紅茶を飲むように勧める。秋雨子はカップを持ち上げ、ひとくちすする。


 …口の中に、爽やかな甘い香りと、ほどよい渋みが広がって、溶ける。


「今からでも全然遅くないと思います。イタリア語に携わること。旦那様、秋雨子先輩が自分らしいことをするのに、反対するような人じゃなさそうだし。むしろ応援してくれそうな感じ? …違いますか?」


 にっこり。多嘉子が微笑む。


 確かに…旦那、泰斗はきっと、わたしがイタリア語に関わることがしたいと言ったら、反対なんかしない。多嘉子の言うとおり、応援してくれると思う。


 秋雨子はしばらく黙り込む。…家事が嫌いなわけじゃない。どっちかっていうとわりと好きだ。今の生活に、不平不満があるわけでもない。


 でもなにか、物足りないと思ってしまった。今朝家を出てくる時に感じたドキドキワクワクするような、心が躍りだすような感覚…昔は毎日感じていた気がする。


 …足りないのは、それなのかも…。ドキドキ、ワクワクする心。イタリア語に触れていた時には、常に感じていた、感覚。


 …でも。


 秋雨子の心に、“今更”という言葉が浮かぶ。そう、“今更”…イタリア語から遠ざかっているわたしに、今更何ができるだろう。


 秋雨子の心の中を読んだかのように、多嘉子が話す。


「わたし、秋雨子先輩にはイタリア語、ずっとやっていて欲しいなぁ…なんて。勝手な意見ですけど…。先輩のイタリア語に対する情熱…大学の頃、すごいなぁって思ったことがあったんです。いつだったか、サークルの飲み会でイタリアンな居酒屋に行ったことがあって…そこのメニューに出鱈目なイタリア語が書かれてて、先輩、それに本気で激怒してましたよね?」


「そ、そんなことあったっけ?」


 覚えてないフリをしたが、実は覚えている。メニューの上に書いてあった文章が、文法もなってないどころか綴りすら間違っていて…。わたしだったらこう書く! とお店のアンケートにまで記入してしまったこと…。多少酔っぱらっていたとはいえ、今思い出しても恥ずかしい出来事。そんなこと、多嘉子はよく覚えているなぁ…。めちゃくちゃ恥ずかしい。


 多嘉子が続ける。


「そんな先輩、カッコいいと思いました。わたしもそれだけ情熱を注げる何かを見つけたくて…それで紅茶にたどり着いたんです。」


 多嘉子にそう言われて、秋雨子はさっきの恥ずかしさに加えて、更に赤面する。嬉しいけれど、今の自分を見ると、恥ずかしい。多嘉子の言うとおり、当時は寝ても醒めてもイタリア語のことばかり考えていたし、イタリア語に情熱を思いきり注いでいた。それは紛れもない事実。


 でも…いつからそれは、過去のことになってしまっていたのだろう? “今更”なんて単語が出てくるようになってしまっていたのだろう?


 顔に血が昇るのを誤魔化すように秋雨子は紅茶を飲む。新鮮で若々しい、これからぐんぐん伸びていこうとする、生命力に溢れた、力強い味。


 …今、この瞬間から始まる…わたしの新しい、人生?


 物足りなくなんかない、ドキドキ、ワクワクに満ち溢れた、人生?


「…今からでも、間に合うかな…?」


 呟くように秋雨子が言うと、多嘉子は笑って頷いた。


「“今”より早い時なんて、このあと絶対にやってきません。“今”の現実があって、“未来”に理想がある…。人生って、その理想の未来まで歩いていくだけなんですよ、きっと。」


「“今”より早い時なんて、ない…。」


 秋雨子は多嘉子の台詞を繰り返す。声にすると、なんだか、目の前の扉が開いて光が差し込んできたような気がした。…新しい人生の…スタート? 次のステージの…幕開け…?


 そう思ったら、ドキドキ、ワクワクしてきた。今朝、家を出た時と同じ。先日、大好きなアーティストの個展開催のことを知った時と同じ。昔、イタリア語に没頭していた時と同じ…。


 秋雨子はまた紅茶をひとくち口にする。新しい、始まり。ドキドキ、ワクワクが止まらない。


「…ありがとう、多嘉子ちゃん。今日、間違って早く着いて…ここに来れて、よかった。新しい第一歩、歩き出せそうな気がする。」


 きっと、個展も違う視点で見れると思う。そして、帰ったら泰斗に全部話そう。また、もっと早く言ってくれればよかったのに、なんて言うかな、あいつ。


「よーし、じゃあわたしも負けてられませんねぇ。理想に向けて、もう一歩前進したいなぁ。」


 多嘉子が伸びをしながら言う。秋雨子は笑って問う。


「多嘉子ちゃんの理想って?」


 すると多嘉子は笑顔で即答する。


「そりゃもちろん、素敵な旦那様と一緒にこのお店をやっていくことですよ〜。…でも今のところ出逢いがなくって…。」


「大学生のバイト君は? 若い男の子と二人きり…いいじゃなーい。」


「…先輩冗談キツイ…やめてくださいよぉ。」


 くすくす笑う秋雨子に、多嘉子ははぅぅ…とため息をつく。


 とその時、入り口のドアがおもむろに開いて、ウィンドベルの音と共に噂のバイト君…木下が入ってきた。


「ちーす。ちょっと早いけど、入りまーす。」


「きっ…木下?! 午前中は落とせない授業なんじゃ…っ?」


「あぁ、いきなり休講になっちゃってさー…早く多嘉子さんに会いたかったから、来ちゃった♪」


「………木下悪い…、今そのジョーク、笑えない…。」


「へ? なんで? いつものギャグじゃん?」


 カウンターでがっくりと肩を落とす多嘉子と、わけがわからず首をかしげる木下。そんな二人を見て、この二人、なかなかまんざらでもなかったりして…とニヤニヤしてしまう秋雨子。


 時計はもうすぐ、十一時を指そうとしていた。





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