1.プロローグ
俺の名前は桐生魁斗。
父方の祖父は古武術道場を開いていて、そこで厳しく鍛えられた。中学を卒業する頃、十五の齢で師範代の免状も受けている。
母方は陰陽師の家系だった。運良くその資質も受け継いでいた。母方の祖父からは幾つもの法術を学んでいる。
そして高校への入学時に家を出て独り暮らしを始めた。おかげで料理の腕も相当のものだ。スパイスを調合してカレーを作る事だって出来る。大抵の家事は一人でも問題なくこなせると自負している。
そんな十七歳のどこにでもいる普通の高校生だ。
だから今の状況には付いていけない。
周囲は薄紅色の霧に包まれている。他には何一つ見えない。
目の前には女の子が立っている。まるで古代ギリシャやローマのような装いをした同い年くらいの少女が。
そして彼女は何も言わずに微笑んでいた。
直前まで何をしていたかを思い返す。
そうだ。駅のトイレに居た筈だ。
トイレには他に三人ほど居たと思う。個室のドアは全て開いていたから中に篭っている者は居なかったのだろう。
一人は手を洗っていたし、他の二人は用足しを終えたところだった。洗面台に向かおうとしていたと思う。
そして俺がトイレに入って便器の前に立った瞬間、床が発光して魔方陣のような模様が浮かんだ。そして今の状態に至ったのだ。
俺は特にオタクと呼ばれる者ほど詳しい訳ではない。
それでもラノベなんかは読む事もあるし、深夜アニメだって観た事もある。異世界転移や転生の事だって知っている。
でもそれが自分の身に降り掛かるなんて想像すらしていなかった。
きっとあの魔方陣は召喚の陣なのだ。
かつて母方の祖父に習って俺がよく使う式神の召喚陣とは全く異なっていた。だけどおおよその見当は付く。あれは俺を召喚するための陣だったのだろう。
目の前の彼女は微笑を崩さないままで話しかけてきた。
話を聞くとやはり俺は召喚されたらしい。召喚理由は不明だそうだ。
その世界の者はどこにでもいる普通の高校生に何を求めているのだろう。
目の前の彼女は自らを女神と名乗っていた。
どうやら召喚に割り込んで様々なスキル、技能を与える存在らしい。
だけどどうやら俺には与えられるスキルが無いようだ。なぜか与えようとしても弾かれるのだ。
武術系のスキルも魔術系のスキルも駄目らしい。たぶん父方経由の古武術と母方由来の陰陽術が原因だと思われる。
それらは召喚先の世界でも普通に使えるそうだ。俺の身体に宿した物であるから当然だろう。
仕方が無いので基本的なものだけを受け取った。
身体能力アップのスキルだ。力が強くなり、素早さも増して、器用さも上がり、怪我もしにくくなる。コンピュータゲームなんかで言うところのSTR=筋力とAGI=素早さ、DEX=器用さやVIT=耐久力が上がっているのだろう。
さすがにINT=知力なんかは上げられないようだ。急に天才なんかになるのが無理なのも仕方ない。
それと成長促進のスキルも与えてくれた。普通なら十年掛かって覚えるような事も一年程度、つまり十分の一の期間で覚えられるらしい。俺は肉体的には成長途上の高校生だ。相当役に立つだろう。
それと全言語理解と鑑定、アイテムボックスなどのスキルが与えられた。
ふと前に読んだ事のある異世界物のラノベで出てきたスキルを思い出す。確認したところ他人のスキルを奪えるようなスキルはないそうだ。
まあ言われてみればその通りだ。俺の古武術の技だって身体が覚えているのだ。それを奪える訳がない。
どうやらあまり時間の猶予はないらしい。
女神様の力でも十分な時間を取れないようだ。行く先の世界に関しての話は全く聞けずに終わりそうだ。
与えられるスキルの情報の方が重要であろう事は理解出来る。
最後に女神様から頑張るようにとの言葉があった。
女神様の言葉から察するに、たぶん元の世界に戻る事は出来ないのだろう。
両親には本当に申し訳が無いと思う。だけど弟も妹もいる。いつかは孫の顔も見れる筈だ。
弟や妹は古武術や陰陽術にも無縁の者達だ。こんな事態に巻き込まれる事もないだろう。
そう、正直に言うと両方の祖父達から学んだ古武術や陰陽術は現代世界では使い道が無い技術なのだ。
身を守ると言うよりも相手を殺したり壊す事を目的とした武術など現代日本で使える筈がない。
人前で披露しても手品としか思われない、理解出来る者が見れば拉致監禁の上に拘束洗脳されてもおかしくない法術なんてなおさらだ。
それらを熱心に学んでいたのはこの時のためだったのだろう。
少しずつ薄紅色の霧が濃くなっていく。もう女神様の姿も判別出来ない。
次に周りの状況が把握出来る時は召喚者のいる場所になるのだろう。
ふと気が付くとそこは大広間のようだった。
見廻すとヨーロッパの宮殿にある広間のようだ。それこそ俺が通う高校の体育館や講堂のような広さがある。
その壁に沿って鎧を着た兵士達が並んでいる。片側に十人ずつ、両側や背面の扉の傍にいる者を含めると三十人近くは居るのだろう。
そして気が付く。俺の傍に三人の人間がいる。
スーツ姿の者が二人と普段着っぽい者が一人。たぶんあの時トイレにいた者達だろう。俺の召喚に巻き込まれたに違いない。
あの女神様と話をしている時にこの三人はいなかった。と言う事は、この三人には女神様のスキルが付与されていないのかもしれない。
奥の方から王冠を被った者が近付いて来た。隣には娘であろう中学生くらいに思える少女もいる。
共に燃えるような金髪と透き通るような蒼い瞳をしている。いかにも王族と言った雰囲気だ。
だけど何か昏い印象を受ける気がする。何かを隠していそうな感じだ。
どうやら巻き込まれた三人は知り合いのようだ。三人共に三十歳を越えていそうだ。その中の一人が俺に一声掛けてくる。代表として話をして良いかと。
構わないと答える。いくら俺だけが女神様に会ってスキルなんて異能を貰っていたとしても、まだ高校生のガキである事には違いないのだ。
逆に俺が前面に立ったりしたら巻き込まれた三人に反感を買うだろう。
三人を軽く鑑定してみる。だけど名前すら分からなかった。
まあ女神様に会っていないならこの三人はスキルなどは貰っていないだろうし、そもそも鑑定自体がこの世界の者にしか通用しないのだろう。
王様やその隣に立つお姫様の名やスキルなどの情報が分かるのだから。
だけどこの世界の者と会話が可能な以上は三人にも最低限のスキルは与えられているのだろうか。
いや、もしかしたらこの世界の方に翻訳魔法なんかがあるのかもしれない。
話によると召喚を行ったのは王の隣に佇むお姫様のようだ。鑑定でも召喚のスキル持ちなのは分かっていたが。
その理由もやはり魔王を倒して欲しいらしい。
だけど元の世界に返す方法は分からないらしい。
それも本当だろう。呼び出すための「召喚」のスキルはあるが、戻すための「送還」のスキルはないのだから。
ただ魔王を倒したら還る方法が分かるかもしれない、とお姫様は言った。
それを聞いて、やはりこの王家は信用出来ないな、との感想を抱いた。
魔王が送還方法を知っていて聞き出すのならまだしも、倒してしまったら分かる訳など無いではないか。
三十六計逃げるに如かず。さっさとこの国を去るべきだろう。隷属の首輪なんかを嵌められでもしたら堪った物ではない。
巻き込まれた三人は黙って聞いている。
三十歳を越えていそうな彼等はラノベや深夜アニメなんて知らないのだろう。お姫様の言葉を素直に信じているように見えた。
それでもさすがに大人のようだ。お姫様の話に即答はせずに一晩考えさせて欲しいと告げていた。
そして各々が割り当てられた部屋に案内された。だが扉の外には複数の衛兵が控えている気配が感じられる。俺達を守るのが目的でなく逃がさないようにしているのは明白だ。
あんな怪しい王家の奴らの言いなりになどなる気は無い。この部屋が四階にあろうと俺の法術なら怪我一つなく窓から抜け出せる。
俺に巻き込まれた三人には申し訳ないと思う。だけど俺は逃げる事にしよう。