43.お休み前のお話をするよ
「お待たせしました、こちらが資料になります」
そうこうしているうちにエンマさんがその翻訳すべき文書を手に戻ってきた。……その割にはやたらと分厚いけど、どういうことだろう。
「こちらですが、翻訳する文書は一番上の1枚のみとなります。後の冊子は全てこれまで翻訳しようとしてきた人たちがまとめた参考資料となっております。一応規則としてお渡しすることになっているのですが……」
「なるほど……では全部有難く預からせていただきます。何らか翻訳の参考になるかもしれませんし」
「助かります」
……翻訳そのものの参考にあるとは言ってないけど、まあ嘘は言ってない。この国の人が全く未知の言語を翻訳する際にどういう思考と試行をしているのかを紐解くのに、この資料は大いに役立ってくれるはずだ。
無論文書そのものはそんなものがなくとも翻訳出来るんだけど……それじゃ何で翻訳のロジックなんかを確認するのかというと、要するに他の特別転生者がこの世界で生きていくための道筋を作れるかもと期待しているからだ。道筋を作る対象が杉山村だけにとどまらず、なおかつ一般人の手によってそれが進められればこれほど効率がよく大義名分が立つ話もないからな。
……あ、そうだ。
「そう言えばこの依頼の達成期限やペナルティですが、その辺りはどうなってますか?」
「達成期限については特に定められてはいないんですが、ペナルティについては依頼放棄にはかからず、依頼継続時には最初の1週間はペナルティなし、以降1週間ごとに1000フィラーの支払いになります。
なので文章ひとつあたりおよそ2か月程度が事実上の達成期限といえましょうか……ちなみに達成や放棄の連絡は直接この窓口にお願いします」
「了解です、それともうひとつ、今回の依頼達成の基準を教えてください。せっかく翻訳しても誰も読めないのでは意味ないんじゃないですか?」
「一理あります。なので依頼達成の条件は、当ギルドのハイランダー用受付の担当職員が内容を理解出来ることです。その為あまり難しい文章には……まあもともと複雑な注意書きにはしてありませんが、難しくはしないようにお願いします」
つまり最大でも3割いかない程度の理解度しかない人に通じるような文章を書けということか。読むのは出来ても書くのは出来ないって人は一定以上いるし、ましてや理解度がそのままアウトプットの翻訳能力に反映されるわけではない、いやむしろ程度が落ちるのが当たり前だからな。
「分かりました、では1週間以内に翻訳を済ませてこちらに提出します」
「助かります、よろしくお願いします」
さて、これで取り敢えずの用事は終わったかな……エリナさんもジェルマ語能力測定の資料を受け取って申し込みも済ませてあるし、これから1週間はお互いデスクワークだ。
「そう言えばレニさんはまだ用事終わらないのかね、エリナさん?」
「言われてみれば遅いですね、もう30分ほど経とうとしてるのに」
いくら会話がおぼつかないとはいえちょっとばかりかかり過ぎだ、何かトラブルでもあったんじゃないか……そんな風に思ったけど、しばらくすると噂のレニさんがハイランダー用受付に挨拶をしてこちらに戻って来た。
「遅くなってすいません、そちらは用事の方終わりましたか?」
「ええ、有意義でしたよ。俺は依頼をひとつ、エリナさんはジェルマ語の検定試験を受けることになりました。そちらはいかがでしたか?」
「こちらも滞りなく、受付の人が宿に話を通して1泊予約を取ってくれました。親切に紹介状とメモも添えてくれましたから、問題なく宿泊出来ると思います。
明日になったら宿を引き払って帰りますので、ここでおふたりとはお別れですね」
「そうですか……どうかお元気で、レニさん」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。あなた方がいなければ私はブドパスに入ることも出来ず、茶檀を持て余したまま帰っていたことになったでしょうから……帰ってから村の人には色々相談することにします。
それでは、私はこのまま宿に参りますので」
言って、レニさんはギルドホールを出る。……何というか、最後まで丁寧だったけど最後までアニメ声には慣れなかったなあ……
「さて、私たちも戻りましょう? トーゴさんの依頼も私の勉強も取り敢えず明日からってことで」
「何かその発言、ループする延期の始まりみたいでいやだな」
「明日になっても取り敢えず明日から、ってアレですか? 確かに響き的にはそうですけども! ですけども!」
ムキになって否定するあたり前世で思い当たる節はあるんだな……まあ世界中どこでも共通ってことで。
「戻るのはいいんだけど、ちょっと1か所寄りたいところがあるんだけどいい?」
「寄りたいところ、ですか? 別に構いませんけど、どこに?」
「公衆浴場」
「……はい?」
「いや、あのね? 聞いて? 久しぶりにゆっくり湯船に浸かっちゃったら何か出た途端に物足りなくなっちゃって、夕飯食べたらまた入りたく……ちょ、エリナさん、その呆れた顔やめてマジで!」
「いや、だって、どれだけお風呂好きなんですかトーゴさん! ……はあ、分かりましたよ。私も確かにあれだけ立派なサウナに入ったのは久々ですし……エステルの宿に備え付けられていたのはやや狭かったですから。お付き合いします」
「ありがとう!」
いや、だってしょうがないと思うんだよ。少なくとも俺転生する前は日本人だったわけだし。
「全く、本当にしょうがないんだから……」
結局その後1時間半ほど公衆浴場で過ごしてから、私たちは駐車場に停めてあったキャンピングカーに戻ってきた。最初と同じくらい長く入っていたせいか、なかなか湯冷めすることもなく無事温かいままで帰ってこられたのは幸運だった。
そんなこんなで初めてこの車内で就寝することになったわけなんだけど、今までエステルで常宿にしていた宿よりもやっぱりどうしても狭くなってしまう。正直、よくここまで家としての機能を詰め込んだものだと自分たちに感心してしまうほどだ。
で、そんな狭い家……もう家って言っていいよね、うん。である以上、今までよりも寝るスペースも狭くて、ツインからダブル……いや、セミダブルにベッドというか布団も変わったわけで、その、私としてはとんでもなく緊張してしまうわけですよ。ぶっちゃけ私じゃなくても同じシチュだと緊張しちゃうと思うんですよ!
それなのに、トーゴさんときたらそんな私の気持ちなんかどこ吹く風で、布団を敷くなりごめんとひと言謝りはしたもののがっつり就寝ですよ! いくら初めての都市に移動して極度に疲れてるとは言え、緊張してた私がバカみたいじゃないですか!!
ああもう、こうなったら寝てるトーゴさんに襲い掛かって違う違う違う違う違う! 私そんなに節操なくないもん! そういうのはもっとちゃんとしたシチュじゃないとってそういう問題でもないでしょ!!
……ともあれ、そんなわけで仕方なしに寝床に入った私だけど、当初の想定とは全く別の意味で目が覚めてしまっているというわけだ。全く、本当にこのトーゴ=ミズモトさんという人はしょうがない人だ。
しょうがない人だけど――だけど、やっぱり私はこの人のことが好きだ。むしろしょうがないと思える安心感が好きだ。
こんな事を言ったら色々な人に鼻で笑われるかもしれないけど、正直、私はこの人に何度も……それこそ数え切れないほど救われているように思う。そして救われる度に私は、今度は私がこの人の助けになりたいと思うのだ。
トーゴさんは私の事を凄く助けになってくれる人だと言ってくれるし、それはそれで嬉しいけど……でも私は、トーゴさんに十分お返しを出来ていない気がしてならない。
そんなこんなで私も色々なスキルや魔法を身に付け、ジェルマ語も覚えてそれを生かして本を読んで。本を読むだけじゃなく自分でも訓練してスキルをレベルアップさせて……なんて繰り返してたらいつの間にか戦闘技術ではトーゴさんより上になってしまった。
まあ戦闘したことないから実感は湧かないんだけど……それで総合職ギルドのエンマさんに冒険者ギルドへの登録を薦められた時、ふと思ってしまった。
トーゴさんは私がひとりで生きていけるようになる事を望んでいたけど、実はもうそれなりにこの世界で生活出来るようになっているのではないか……と。家事に関してもそこまでこの世界では難しいこともないし、食い扶持も稼ぐ気になれば稼げる気がする。
となると、今のこの状態は実は私がずっと待ち望んでいたフラットな精神状態そのものなんじゃないか、とも思えるようになった。この状態での私の気持ちが、今までよりもずっと強いトーゴさんへの愛情に振れているのだとしたら――
「……うん、決めた。トーゴさん、私決めたよ」
私が小さく独り言ちても、疲れ切ったトーゴさんは目を覚まさない。その寝顔も、今の私にはとてつもなく愛おしい。
だから私は、今決めた。
私がこの世界でたったひとりで生きていけることを証明……具体的にはジェルマ語能力測定で高水準を出して、紛れもない自分の意志をトーゴさんにぶつけよう。もう、どっちつかずの曖昧な態度は許されないんだ。
ピロートークを期待して下さってた人には申し訳ございませんが、お話ってよりは独白ですね。それも結構シリアス風の。
次回更新は01/13の予定です!