迷い扉
おめぇさんも夢に見た事がねぇかい。あの迷い扉の事だ。
あの森の中であの扉は、今でもどこかを彷徨ってんだべなぁ。開ける奴さ望んで、あっちへこっちへふらふらと。
ただ、扉だけが森の中さぽつんと佇んでんだ。何に通じてるでもねぇよ? 扉だけ、だ。
誰が作ったのかも、何の為に置いたかもわかんねぇ。まぁそれは知る必要がねぇからね。
でもあの扉は、おおよそ人の考えつくことの及ぶようなものではねぇ。水に浮かぶ月を掴もうとだなんておこがましい事だべなぁ、それと同じ事だ。
人には触れちゃいけねぇもんがある。あれはそういうものなんだ。
あの扉を見つけたんなら、開けてはなんねぇ。開ければ音の無ぇ森に迷い込む。
開けたならくぐってはなんねぇ。くぐったならこの世のどこでも無い場所に迷い込む。
くぐったなら、若い古い樹の、周りをまわっちゃなんねぇ。
そうなれば、もう、戻ってはこれねぇぞ。
追いかけられて逃げ込んだのは故郷の森。
借金が重なり続け、ヤクザ連中におっかけ回されて、俺はここに逃げ込んできた。故郷にまで奴らが来るとも思えないが、夜逃げして行き場もなく、そしてどうにか奴らに見つからない場所をと思って、ここにやってきていた。
死ぬつもりだった。故郷の森で逝けるなら本望だ、これから先生きていたとしても、希望はない。
あてもなく彷徨って、2日が過ぎた。虫に刺されたり、引っ搔き傷を負ったりして、もう俺はとっくにボロボロだった。が、どうせこれから死ぬ身だ。気にしてすらいなかった。
だが、首を吊るにはロープが無いし、刃物の類も持ってきていない。やはりこのまま彷徨って、野たれ死ぬのがベストだろうか。
そんな風に思っていた時だった。木陰に隠れながらも、俺は見た。あのヤクザ連中だ。
森にまで、追ってきたのだ。なんて奴らだ。
たまらず俺は逃げ出した。奴らにバレたかもしれないがそれどころではなかった。嫌だ、こんなところで捕まるのは、嫌だ。
森の中、道とも言えない道をひた走る。ボロボロになって、泥まみれになって、みじめな姿で走り抜ける。何度も転んで、ケガしながら。
不意に、開けた場所に出た。まずい、これでは隠れる場所もない……。
その時、その開けた場所の真ん中に、何かがある事に気がついた。静かに佇むそれは、古ぼけた木の扉だった。
これはいったいなんだろうか。例えるなら例の秘密道具だ。どこにでも行けるあのドア。あんな感じで、何に繋がっているでもなくただ扉だけがそこにあるのだ。
ドアノブはついているが、とにかく古い。この扉がいったいどれほど前からあるものなのか、想像もつかなかった。
しかし、そんな悠長に考えている時間はない。真後ろからドスの効いた声と、草をかき分ける音が聞こえてきた。奴らだ!
慌てた俺は、その扉を開き、大急ぎで閉じてそこに背をつけた。
隠れる場所があればどこでもよかったのだ。だがその扉を閉めた瞬間、奴らの声も草をかき分ける音も、風の音さえも消えて、俺は、小さい頃祖母に聞いた話を、思い出していた。
迷い扉。確かそんな話を聞いたはず。あの頃は、大人が森を怖がらせるために子供に言い聞かせる怪談程度に思っていた。
だが、扉の端から顔を出しても、奴らが追ってくる姿は見えない。場所はさっきと変わらないはずなのに、何かが違う。
この世のどこでも無い場所。ここが、そうなのか。
おそるおそる、辺りを見渡す。もし祖母の話が本当なら、この辺りに「若い古い樹」があるはずだが……。
若い古い樹だなんて、名だけ聞くと何を言ってるんだかわからない。だが、それを見つけて、俺はようやくその意味を理解し、そして祖母の話が真実だったのだと確信した。
その樹は、遠巻きに見るとまるで若木のように小さい。俺の背丈ほどもない小さな樹だ。
だがその樹は、まるで樹齢何百年という大樹をミニチュアにしたような姿をしていたのだ。苔むした幹や枝ぶり、その小さな小さな葉の持つ重みは、間違いなく大樹のものだ。
そして、祖母の話をさらに思い出そうとする。肝心な所が思い出せない、たしかこの樹に何かをすると、何かが起こるんだったはず……。
自分だけがこの場所に入ってくる事ができたんだろうか。あのヤクザ連中が入ってくる雰囲気は無い。俺はここでひとまず、祖母の話をゆっくり思い返す事にした。
樹の、実を食べるんだったか? 折っちゃまずいんだっけか。というかこの場所は安全なんだろうか? この世のどこでもないだなんて、そりゃ半分あの世みたいなもんじゃないか。
それにしても不思議な樹だ。立派な幹や枝振りを持っていて、苔にまみれたその姿はまるで最高に良質の盆栽のような、しかしそれでは絶対に出せないパワフルさを持っているように思えた。
俺はその樹の周りをまわりながら、まじまじとそれを観察した。花や実はついていないように思える。いったいどうなっているんだろう、やっぱり妖怪か何かの類なんだろうか。
再び樹の正面に立つ。祖母の話はどうしても思い出せない。やっぱり何かの間違い何じゃないだろうか、この樹も偶然このような姿をしているだけで、森の音も、扉の向こう側では風の流れか何かで聞こえづらいだけ、とか。
そう思うと、また奴らが追ってきているんじゃないかと不安になって、俺は扉をゆっくり開けてみた。すると途端に、風や鳥の音が扉がらなだれ込んでくる。
思い切って外に出た。扉をくぐる前と何も変わらない森だ。
なんだったのか。振り返ってもう一度その扉を確認しようとしたのだが、その扉は既にそこには無かった。
何か、たぐいまれな体験をしたのではないだろうか。
祖母の話をそのまま映し出したようなその体験を思い出しながら、俺は山を下っていた。
祖母は既に他界している。だが家族なら、その話を覚えてる人がいるかもしれない。
一応ここは俺の故郷であり、実家も近い。家族に話を聞くため、俺は実家へ向かった。
だがその途中、なんだか、違和感を感じていた。俺の住んでた街ってこんな風景だったっけ? こんな道だったっけ……?
もやもやする感じのまま、角を曲がる。この先が実家だ。
だがそこで、俺は奇妙な光景を見た。実家の花壇に水をやってるのは、全く知らない女性だったのだ。
はて、両親はまだヘルパーを雇うほど年を取っちゃいなかったと思うが? 俺は不思議に思いながら歩み寄って、問いかけた。
「すいません、僕はこの家の者なんですが、どちら様でしょうか?」
「は? この家の者?」
女性は怪訝そうな顔でこちらを睨んできた。言葉が足りなかっただろうか。
「あ、あー、この家の者の息子です。東京に出てた」
「息子? ……あのー、間違いじゃありませんか?」
「え、なんでですか?」
「この家には私と夫しか住んでおりませんが……」
えっ、と無意識的に声が出た。そんな馬鹿な、実家の場所を間違えるほど俺も馬鹿ではない。
「えっと、住所を言います……」
実家の住所を言って見れば、女性は「そこで間違いない」と答えた。これはいったいどういうことだ。
「そんな、南条トモ子と南条信吾が住んでいるはずです! 引っ越した、とは思えないし」
「それも無いと思いますよ、この家は夫の祖父が住んでいた家で、50年以上前から他の人が住んでた事は無いはずです」
「そ、んな馬鹿な」
思わず、俺は駆け出した。後ろから声が聞こえたがそれどころではない。
携帯を開き、電話帳に登録されている番号に片っ端から電話をかけた。だが、どれも反応は無い。
1つだけ間違いないところがあるが……かけたく無いが、この際はしかたない。
「……はい、鈴原金融グループでぇす」
「もしもし!? 僕、南条佐輔です。そちらでお金を借りていた!」
「はいぃ? ナンジョウサスケさん? ちょっとまってねー」
しばらくの間、無言が続く。やがて笑いまじりに、男の声が聞こえてきた。
「お宅さん、なんかの間違いじゃないの? うちでは金借りてる人は全員管理してるし、返済遅れたら死ぬまで追いかけるけどね。そんな名前の人はいないよ」
「……………」
もの言わぬまま、電話を切った。そのまま、勤めていたバイト先や借りていたアパートの大家。知っている限りの番号にかけたが、やはり誰も俺の事を覚えている人はいない。
俺を知っている人はもはや、この世にはいない。
なんでこんな事になったのか。借金だけならともかく俺の生きていた痕跡全てが消えてしまうだなんて。
借金が無くなったのは事実だ。だったら俺は、生きる道を、選ぶべきなんだろうか。
祖母の話は思い出せなかった。俺は電車に揺られ、東京に戻ってきていた。
そして、再び森。
生活の苦しさが増した以上、俺のやる事なんて変わらなかった。借金をして、追いかけられ、同じ事の繰り返しでこの森へ。
身分証明が無かったのが幸いして俺が何者なのかをヤクザも掴めていないらしく、今回は森にまで追ってきてはいないようだったが、俺がこの森に訪れているのには全く別の理由があった。
あの迷い扉。あそこにもう一度たどり着く為だ。
俺は考えた。借金をして追い立てられる度にこの森にやってきて、あの扉を見つけて、同じように何かをすれば、また俺を忘れた世界にたどり着ける。それを何度も何度も延々と繰り返せば、ずっと楽をして生きれるのではないか?
あの扉は確かに不思議だが、俺を人生のリセットまで連れて行ってくれるすばらしいものだったんじゃないかと、今はそう思えてきた。俺は前と同じ道を通って、あの扉のある広場を探した。
だが、広場にたどり着いた時、既にそこに扉はなかった。
祖母の話を思い出す。迷い扉はこの森の中を、ずっと彷徨っているはず。ならば1つ所にとどまらないのは当たり前か……。
俺は少し焦りを覚えた。早く全てリセットしてほしい。あの扉は、どこにあるんだ。
それともう1つ。もう少しであの祖母の話を思い出せそうな気がするのだ。あの若い古い樹のそばで何をすればリセットできるのか。
もうだいぶ暗くなってきた山道を走る。扉はどこだ、扉はどこだ!
息を切らして立ち止まった時、俺は確かに見た。あの扉だ。
「ま、まて!」
だが、扉は移動していた。俺はすぐさま追いかける。本当に迷い扉か、絶対に逃がしてたまるか。
扉が動く速度はそう速く無い。俺は走った。後少し、後少しで追いつく。
その瞬間、不思議な浮遊感が俺を包んだ。と思うと、全身に凄まじい衝撃を感じる。
斜面を落ちてしまったようだ。追いかけるあまり全く気づかなかった。全身の骨がきしみを上げる。呼吸もなんだか上手く行かない。痛い。
ふらふらと立ち上がると、目の前に扉があった。落ち葉がひらひらと舞い散る。俺は激痛に顔を歪ませながら、ドアノブを握った。
扉を開いた瞬間、音が消える。俺の呼吸の音さえ消えた。息をのんだから。
扉の向こう、あの樹の目の前に、人が倒れていた。
衝撃のあまり痛みも忘れ、足を引きずりながらゆっくり近づく。ほぼ確信を感じながら、その遺体の顔を覗き込んだ。
「……………俺?」
半ばミイラ化したその遺体は間違いなく自分だった。樹に手を伸ばすようにして、その遺体は力つきていた。
その瞬間、俺は思い出した。祖母の話の、一番最後を。
あの扉を見つけたんなら、開けてはなんねぇ。開ければ音の無ぇ森に迷い込む。
開けたならくぐってはなんねぇ。くぐったならこの世のどこでも無い場所に迷い込む。
くぐったなら、若い古い樹の、周りをまわっちゃなんねぇ。
そうなれば、もう、戻ってはこれねぇぞ。
もとの体はそこに取り残されて、そこで死ぬのを待つしかねぇ。
ただ魂だけが、偽もんの世界でふらふらさまよって終わりだ。
だからな、偽もんの世界さついたら、戻ってきちゃなんねぇ。
そしたら魂は、行き場がねぇから……。
「いやはや!」
樹が最後の言葉を放つと、俺も、俺の遺体も、魂も、吹き消えてしまった。