開幕、邂逅、開口
「拓海、期末の成績もトップだったんですってね?」
とある一軒家のリビング。都内であるにも関わらず広い庭を持ち、傍目に見てもかなりの邸宅であろうその部屋で。
あと数日で高校2年生、という3月も終わりのある日、家で昼食を食べていると母さんがふいにそう言ってきた。
「…うん」
「さすが父さんの子ね!その調子で高校もがんばるのよ?」
あぁ、味がしない。
カルボナーラは好きなはずなのに、「父さん」という言葉が出た瞬間、その味がしなくなった。うまく麺を噛めなくなる。
「…そうだね、がんばるよ。」
なんとか残りのパスタを胃に流し込む。
父さんはある日本を代表する食品メーカーの幹部役員で、議員の道も見えているいわゆる「エリート」だ。
そのおかげで俺と母さんはこうして良い暮らしができているわけだけれど、父さんはそのエリート街道を息子の俺にも歩ませたいらしく、小さい頃から英才教育を仕込み、友達と遊ぶ暇も与えられずずっと勉強やトレーニングを続けさせられてきた。
その結果得られた頭脳や身体能力には、まぁ色々と代償も付いてきて。
例えば、今では父さんが苦手でギスギスした親子関係になって。
例えば、同級生とは話が合わない上勉強も運動もできる俺を一線を引かれて。
これからも父さんに引かれたレールの上を歩く以外許されない人生に、俺は嫌悪感と絶望感を感じるほかない。
だったら、反抗期の少年らしく反抗でもすれば良いと言われるかもしれない。
けれど、反抗しても圧倒的な金と権力を持つ父さんを敵に回し、かたや俺には頼れる友達もいないという状況下で、それが好転する兆しというものも、俺には見えなかった。
唯一、母さんは父さんのように俺に勉強やトレーニングを無理強いしなかったし、時折俺のことを気遣うように接してくれるけれど、父さんの前では完全なイエスマンだ。この家には、俺が頼れる人は、いない。
(…あぁ、視界が狭くなる。)
こうして生まれたハイスペック根暗人間ことこの俺、時任拓海。
抑圧され、思い詰めるとこうして視界が端から黒く塗りつぶされていくような錯覚を覚えるのだ。
そして、その蝕みを唯一救うのは。
物語を読むこと。
ファンタジー、恋愛、ミステリー、SF、歴史、なんでも良い。
その話に没頭することで、現実を少しでも忘れられる。
できるだけ明るいものが良い。読んだ後にその物語に浸れるようなものを読むことで、現実のしがらみを少しだけ忘れられる。
そういえば今日はあの作家の新作の発売日だ。今日はこの後本屋に行こう。
そう思うと、少し視界が開けた。
「そういえば、はるちゃん、目が覚めたんですって」
「…はるちゃん?」
席を立った瞬間、母が思い出したようにそう言った。
「はるちゃん」という聞きなれない名前に俺は頭を巡らせる。
すると、母は俺が思い出す前に答えを言った。
「覚えてない?あなたが小学校3年生の時に、横断歩道を渡るときにトラックが突っ込んできて事故に遭いかけたのよ。その時に、同級生のはるちゃんが拓海を庇ってトラックにぶつかって…」
それを聞いて、ハッと思い出した。トラックのブレーキ音、「危ない!」という女の子の声。トラックの目の前にいた俺を突き飛ばしたあの子は、小学校ではだいたい一緒に遊んでいた気がする。思えば俺が唯一「友達」と呼べる存在だったのかもしれない。
あの事故の後、あの子はすぐに病院に運ばれて、最初の頃こそは何度か母さんとお見舞いに行った気がする。けれど、あの子が目を覚ますことは無くて。
次第に、病院に行くこともなくなり父さんの教育によって、次第にその記憶は薄れていった。
「…思い出した。」
「そう!奇跡的に、目を覚ましたそうなのよ!今は一般病棟に移ったそうだから、一度お見舞いに行ってきたらどうかしら?」
そう言われて、数刻。
駅の前にある大型書店で件の作家の小説を買い、駅の改札をくぐる。
もう12年も前で記憶も朧げだというのに、今更どんな顔を合わせればいいのだ、という俺の言い分もそこそこに、母は財布から1万円札を何枚か抜き取り、俺に渡して言った。
「せっかくだから、これでお花や果物でも買って行きなさい。たしか病院はーーー」
母さんも、俺の話を聞かないところは父さんに似ていると思う。
そう思いながら、無理やり渡された札を無下にすることもできず、俺は言い渡された病院のある駅まで向かった。
日本大学病院。言わずと知れた大病院で、おそらく最寄駅にお見舞いにふさわしいものを売っているところもあるだろう。
病院までは電車で20分。そこまで遠い距離でもない。
俺はさっき買った小説を開く。
今回の新作はファンタジーのようだ。とある王国を舞台に、平民の俺が王国騎士団に入団しドラゴンの討伐を目指すらしい。王道のアクションものだ。
そして20分、わずかに読み進めた小説に栞を挟み、最寄駅たる御茶ノ水駅に到着。
電車を降り、改札に向かう。
案の定ショッピングビルが立ち並んでいて、花屋や青果店はもちろん、有名なお菓子を売る店も沢山ある。
どうせ、花や果物はお見舞いですでにもらっているだろう。ここは今人気のお菓子の方が喜ぶのではないか?
そう思考を巡らせ、スイーツ店が軒を連ねる道を歩く。
しかし、そこでまた気がついた。
(…何をあげたら喜ぶんだ?好みがわからない…)
ケーキにマドレーヌ、マフィンにゼリー、シュークリームエトセトラ。
種類が多すぎる。
5年以上眠っていた当時小学生だった女の子へのお見舞いだ。
正直、同級生とまともに話したこともない俺がどんなものを買えば喜ばれるのか見当もつかない。
(…こうして、お見舞いに花や果物が増えるんだろうな…)
結局、青果店でお見舞い用の果物の盛り合わせを買い、病院に向かった。
大きな病院の総合カウンター。
人が沢山いるこの空間に来てから、一気に緊張が増した。
どんな顔をして会えば。どんな言葉を掛ければ。どんな話をすれば。
どくん、どくん、と心臓が高鳴る。こんなに緊張するのは久しぶりだ。
まっすぐとカウンターに向かい、息を整えて言った。
「…あの、お見舞いに来たんですが」
すると、受付の看護師は事務的に言った。
「どなたのお見舞いでしょうか?」
俺は、すこし声をうわずらせながら言った。
「…常波、小春」
久しぶりに言った。すると、看護師は淡々と紙面を見ながら返す。
「でしたら、一般病棟5階の508号室ですね。面会OKですのでどうぞお通り下さい。」
「ありがとうございます。」
なんとか第一関門はクリアだ。問題は、ここから。
通路を通って一般病棟へ。薬品の匂いが強まる度、比例するように心臓の音も高鳴る。
エレベーターは一階に停まっていて、ボタンを押すとすぐに扉が開いた。
平日の昼間ということもあって病院は空いていて、エレベーターに乗り込んだのは俺一人だった。
静かなエレベーターにひとり、妙に緊張感を高められて。
ピンポン、という5階に着いた音と同時に開いた扉。靴が床に張り付いたようになかなか足が進まなくて、扉が閉まりかけて、慌ててエレベーターを降りる羽目になる。
(…なんか、俺すげーカッコ悪い…)
そう思いながら、エレベーター横に貼ってある地図を見て、508号室を見つけ出す。
どうやら個室のようだ。
部屋の前まで行くと、扉が閉まっていて。一度深呼吸をして、覚悟を決めた。
コン、コン。
2回ノックをする。
「…はい」
中から、凛とした女の子の声が聞こえた。
すこし震える手で、重たい引き戸に力を込める。
扉を開いた瞬間、ざぁ、と春の風が吹いて、思わず目を閉じた。眩しい。
窓が扉の正面にあるらしい。
徐々に目を開けて、まず目に留まったのは色素の薄い長い髪だった。
白い肌、細い腕。
「……はる。」
思わず、口を突いて出たのは”あの頃”の呼び名で。
すると、ベッドに佇む少女はすこし驚いたように目を開いてから、ゆっくりと、嬉しそうに目を細めた。
「…たっくん!」
そう呼ばれて、かつての記憶が一気に蘇った。同じ小学校の、同じ組の女の子。
背の順で並んでも五十音順で並んでもいつも隣同士で、自然と一緒に遊ぶことが多かった。その頃の呼び方、笑顔は、あの頃のままで。
十年以上眠っていたせいか、同い年の女の子にしては細い上幼く見える。
よく見ると腕には点滴も付いていた。
けれど、魅力は損なわれるどころかあの頃よりも増していて。見た目の儚げな印象とは裏腹に、元気そうな声色。
大丈夫か、あの時はごめん、俺のこと覚えてる?
考えていた第一声なんて、全部吹っ飛んで。
「…良かった。元気そうで。」
そう、笑って言えた。
* * *
たぶん、この時は家の煩わしさとか、そういうものを全部忘れていたと思う。
「たっくん、大きくなったねぇ…元気だった?」
楽しそうな声音、嬉しそうな顔。
俺が持ってきた果物を食べながら話すその表情はあの頃と全く一緒で。
話し方はすこし幼く感じるけれど、それは小学生のときに意識を手離したわけだから仕方がないことだ。
机には小学校から中学校までのテキストが置かれていて、追いつくための努力が見え隠れしている。
それを見て、俺は言った。
「まぁ、元気だよ…えっと、ごめんな。」
「ん?何が?」
こうして彼女が小4からの6年間をかけて学ぶものを必死で学ぶ羽目になったのは俺のせいだ。
「あの時、俺を助けなければはるは…」
言いにくいことも、はるには何故かするっと言えた。
すると、はるは笑って言った。
「なーに言ってんの!私がたっくんを助けたくて怪我しちゃったんだから私のせいだよ!」
「でも…!」
「もう、たっくんはそんなこと言うために会いに来たの?」
不満そうに頬を膨らませる。
「いや、でも5年以上も意識がなかったら責任感じるだろ?」
「感じなくていーの!」
「無茶言うな!」
掛け合いは続く。はるには思ったことをそのまま言える。
その感覚は新鮮ながら心が軽くなるような感覚で、久しぶりに、読書以外で「楽しい」と思えた。
くだらない会話は夕方まで続き、夕日が射し始める頃にはお互い5年以上会話をしていなかったとは思えないほど話が盛り上がる。はるには、家のことや俺の悩み、好きな本の話、なんでも話した。
「いやぁ、たっくんもいろいろあったんだねぇ…」
「まったく、これから俺どうしたらいいかわかんないよ」
すると、はるはふと俺のカバンの中から覗いていた小説に目を留めた。
「それ、たっくんが今読んでるやつ?」
「ん?あぁ…でも、正確にはさっき読み始めたとこ、かな。まだ冒頭くらいしか読んでないし。」
「そっか」
すると、急にはるが大人しくなった。
「ん?どうしたんだ?」
はるは、すこし考えるようなそぶりをしてから、言った。
「…ねぇたっくん。」
俺の目を、まっすぐと見つめる。
「本の世界に入れるとしたら、どうする?」
冷静に考えれば、そんなこと科学的にありえない。
けれど、なぜかその強いまなざしとか、自信に満ちたその表情だとかに、なぜだかその言葉はストンと胸に落ちてきて。
「まぁ、本当にそんなことが起きるなら、是非とも入りたいな。」
そう言うと、はるはにこ、と笑った。
「じゃ、連れてってあげる!一緒に行こう!」
言うや否や、俺の鞄から本を引っ張り出して。
それと同時に俺の手もつかんで。
「は、はる…!?」
表紙を開くと、はるの指先から光が広がり始めて。
その光が本全体を包むと、俺の視界は、真っ白になった。