私
カブトムシを見ている。彼は飛ぼうとしているのかそれともカゴの中が窮屈なのか、もどかし気に体を揺すっている。ゼリーを食べたいと考えている。けれど、自分が本当にゼリーを好きだったのか、確信が持てない。どんどんと世界が揺らぐ、いつから自分はここにいる。あの暗い林の中を飛んでいたのは嘘だったのか。昔はもっと違うものを口にしていなかったか。たまにゼリーを置きに来るあの巨体はいったいなんだ。
カブトムシを見ているのか、カブトムシになっているのか分からない。そもそもここはどこだ。夢か、現実か。見回せば散らかったサンダルと臙脂色のブーツ。私は擦り切れたローファーを履いて、心細く立ち尽くしていた。
私は夕奈だ。でもなら夕奈ってどんなやつだ? 学校で男子と元気に話しているのは誰だ? 咲良を相手にくだらない探偵ごっこをしているのは誰だ? 葵さんの仮面を剥がそうと躍起になっているのは誰? 六城さんの勢いに圧倒されて言葉も出せないのは誰?
誰? 誰? 誰?
混乱が頭を支配する。私は嘘つきだ。学校での私は嘘だ。私はあんなに人懐っこくないし、男子の肩を叩いたりもできない。
咲良の親友なんて嘘だ。咲良が彼氏を作ったと聞いた時には嫉妬したし、私に秘密を作っていたことには怒りを感じさえした。私は家でカブトムシを飼っていることも言っていないのに。
葵さんが苦手なんて嘘だ。私はあの人に対して深く考えたこともないし、もっと言うなら大して興味もない。固定の人に固定の反応を返しているだけだ。
六城さんに好感があるなんて嘘だ。人前で平気で自分をさらけ出す六城さんを、内心では軽蔑しているし、見下して笑っている。
私はとんでもない嘘つきだ。こんな嘘ばかりついている自分が嫌になる。でもそれも嘘だ。私は誰かにこんな嘘つきを受け入れてもらいたくて、認めてほしくて、泣きそうになりながらも大事に抱えている。嘘に嘘を塗りたくって、もう自分でも何が本当か分からなくなっている。それでも本当の自分を見せることだけはできない。本当に言いたいことも言えやしない。どんな時も自分のことばかり考えて、相手の目を通して自分の顔を必死で窺っている。
その場に崩れ落ちそうになって、少しだけ踏ん張る。
ローファーを脱いで家に上がる。足をフローリングに擦り付けるように引きずり、廊下を進む。最初に見える左手の扉。あそこにはなにもない。空っぽの部屋。誰かは座敷牢とか言ってったっけ。本当にその通りだ。ちょっとだけ笑いそうになる。その先。また左手に「子供の部屋」が見えてきた。相変わらずの汚い字。鼻から息が抜ける。ドアノブに手をかけ、力を籠める。
はた、と。この扉はどう開けるんだったか、考えた。そもそもここは開けていい部屋なんだっけ? 私はここに入って良い人間だったっけ? むしろなぜここに入らなくてはならない?
頭を疑問符で一杯にしながらも、手は緩慢な動きでドアノブを押した。
部屋に入ると、ソファに男が座っている。こちらに背を向けて本を読んでいる。突然開いた扉の方へ眼を向ける気配もない。
私はそれがたまらなく悲しくて、なのにそれが何故か分からない。こっちから声をかけることだってできるはずなのに、どうしてもそれだけはしたくない。
男はまだ本を読んでいる。
『円周率1000000桁表』。
意味の分からない本だ。私は笑い出しそうになる。でも、それについて男に問いかけることはできない。
そうだ、私には言わなければならないことがあった。でも、男はこっちを見ない。こんなくだらないことをなんでこんなに言いたいんだろう。もっと言うべきことがあるじゃないか。でもその他に私の頭は言葉を作らない。
もうだめだ。口から言葉が、想いが漏れ出す。
「お兄ちゃん、私、消しゴムだったよ」
涙を堪えた幼児のような声。なのにその声はえらく嬉しそうだった。
お兄ちゃんが振り向く、その瞬間、私はどんな顔をしているかな。