表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7


 カブトムシを見ている。彼は飛ぼうとしているのかそれともカゴの中が窮屈なのか、もどかし気に体を揺すっている。ゼリーを食べたいと考えている。けれど、自分が本当にゼリーを好きだったのか、確信が持てない。どんどんと世界が揺らぐ、いつから自分はここにいる。あの暗い林の中を飛んでいたのは嘘だったのか。昔はもっと違うものを口にしていなかったか。たまにゼリーを置きに来るあの巨体はいったいなんだ。


 カブトムシを見ているのか、カブトムシになっているのか分からない。そもそもここはどこだ。夢か、現実か。見回せば散らかったサンダルと臙脂色のブーツ。私は擦り切れたローファーを履いて、心細く立ち尽くしていた。


 私は夕奈だ。でもなら夕奈ってどんなやつだ? 学校で男子と元気に話しているのは誰だ? 咲良を相手にくだらない探偵ごっこをしているのは誰だ? 葵さんの仮面を剥がそうと躍起になっているのは誰? 六城さんの勢いに圧倒されて言葉も出せないのは誰?


 誰? 誰? 誰?


 混乱が頭を支配する。私は嘘つきだ。学校での私は嘘だ。私はあんなに人懐っこくないし、男子の肩を叩いたりもできない。

 咲良の親友なんて嘘だ。咲良が彼氏を作ったと聞いた時には嫉妬したし、私に秘密を作っていたことには怒りを感じさえした。私は家でカブトムシを飼っていることも言っていないのに。

 葵さんが苦手なんて嘘だ。私はあの人に対して深く考えたこともないし、もっと言うなら大して興味もない。固定の人に固定の反応を返しているだけだ。

 六城さんに好感があるなんて嘘だ。人前で平気で自分をさらけ出す六城さんを、内心では軽蔑しているし、見下して笑っている。


 私はとんでもない嘘つきだ。こんな嘘ばかりついている自分が嫌になる。でもそれも嘘だ。私は誰かにこんな嘘つきを受け入れてもらいたくて、認めてほしくて、泣きそうになりながらも大事に抱えている。嘘に嘘を塗りたくって、もう自分でも何が本当か分からなくなっている。それでも本当の自分を見せることだけはできない。本当に言いたいことも言えやしない。どんな時も自分のことばかり考えて、相手の目を通して自分の顔を必死で窺っている。


 その場に崩れ落ちそうになって、少しだけ踏ん張る。


 ローファーを脱いで家に上がる。足をフローリングに擦り付けるように引きずり、廊下を進む。最初に見える左手の扉。あそこにはなにもない。空っぽの部屋。誰かは座敷牢とか言ってったっけ。本当にその通りだ。ちょっとだけ笑いそうになる。その先。また左手に「子供の部屋」が見えてきた。相変わらずの汚い字。鼻から息が抜ける。ドアノブに手をかけ、力を籠める。


 はた、と。この扉はどう開けるんだったか、考えた。そもそもここは開けていい部屋なんだっけ? 私はここに入って良い人間だったっけ? むしろなぜここに入らなくてはならない? 


 頭を疑問符で一杯にしながらも、手は緩慢な動きでドアノブを押した。

 

 部屋に入ると、ソファに男が座っている。こちらに背を向けて本を読んでいる。突然開いた扉の方へ眼を向ける気配もない。

 

 私はそれがたまらなく悲しくて、なのにそれが何故か分からない。こっちから声をかけることだってできるはずなのに、どうしてもそれだけはしたくない。

 

 男はまだ本を読んでいる。

 

 『円周率1000000桁表』。

 

 意味の分からない本だ。私は笑い出しそうになる。でも、それについて男に問いかけることはできない。

 

 そうだ、私には言わなければならないことがあった。でも、男はこっちを見ない。こんなくだらないことをなんでこんなに言いたいんだろう。もっと言うべきことがあるじゃないか。でもその他に私の頭は言葉を作らない。

 

 もうだめだ。口から言葉が、想いが漏れ出す。

 

 

 「お兄ちゃん、私、消しゴムだったよ」

 

 

 涙を堪えた幼児のような声。なのにその声はえらく嬉しそうだった。

 お兄ちゃんが振り向く、その瞬間、私はどんな顔をしているかな。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ