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 中学校にも文化祭に力を入れている学校と、そうでない学校がある。私の通う学校は比較的マシな方だろう。飲食系は許可が下りないがそれ以外なら大抵はできる。今日はその出し物決めの日らしかった。


 お昼ご飯を食べ終え、お昼休憩を挟んだのち、五時間目の学活の時間を使って話し合いが持たれていた。しかし、話し合いの常か、始まってそろそろ十分になるが、どうにも進展の気配がない。


 あからさまに寝ている男子や、隣の子とのお喋りに夢中になっている女子。それならまだ良いほうだが、教室の後ろでワイワイとトランプゲームを始める者までいる。頼れる担任は今日出張に出てしまっていて、すべてを学級委員に任せてしまっていた。どこまでも混迷を極める教室。もはやだれ一人として文化祭になど興味はなかった。


 しかしその混沌にも終わりが来た。学級委員の女子が泣き始めてしまったのだ。担任に任されたという重圧や、クラスをまとめ切れない自らのふがいなさに感極まってしまったのだろう。教室に痛々しい沈黙が降りる。みんながみんな誰かが仕切りだすのを待っている。


 男子は女子に恨めしい視線を向け、女子は男子を見ないが、露骨にため息をついて無関係さをアピールしている。このままでは本当に出し物を決めるどころではなくなりそうだ。


 私は、この状況に自分がとてつもなくイライラしていることに気づいた。なぜなのか、自分でも判然としないが、それがこの状況を作っているクラスメイト全員に向けられているのは確かだ。どいつもこいつも自分が責任を被らないために身を伏せている。パラパラと私の体が音を立てて崩れ始めている。私にできることは、机に突っ伏して感情の荒波を抑え込むことだけだった。


 最終的に、担任に代わりを頼まれた教師が遅ればせながら現れ、おざなりにではあるが出し物は決まった。完全に教師の趣味丸出しのジャズ休憩所。流す曲も全て私物だ。こういう事案を見ると、教師になるのも悪くないかな、と思うが多分間違っている。


 放課時刻となり校内全体に弛緩した空気が広がる中、私は悩んでいた。議題は今日の部活への出席だ。いや活動日なのだから出席した方がいいに決まっているのだが、どうにも筆を執るような気分にならない。

 私が唸りながら教室を眺めていると、帰り支度をしている咲良ちゃんが目に入った。


「あ、今日って演劇部休みだっけ」


 自明の質問にも咲良ちゃんは笑って答えた。


「うん、昨日休んじゃったから変な感じだけどね」


 そう言う咲良ちゃんの顔は楽しげだ。


「美術部は活動日じゃなかった? もしかして夕奈ちゃんまたサボり?」

「うーん今まさに悩んでいたところだったけど、今決まった! 咲良帰るんなら私も帰ろうっと」


 咲良ちゃんは呆れた表情をしたが、すぐに意地の悪そうな顔をした。


「そして彼女は後に気づくのです。気が付いたら部に居場所がなくなっていることに……!」

「ちょっと不安になること言わないでよ!」


 いやー、と私が耳を塞ぐと咲良ちゃんは声を上げて笑った。

 そういうわけで本日は急遽休みになった。


 部活に励む運動部員たちの掛け声を背に校門を出ると、ちょうど太陽が雲に隠れたのかあたりは少し薄暗かった。しばらく咲良ちゃんと他愛無い雑談をしながら道をすすむ。帰り道ももう半分というところで咲良ちゃんがため息交じりに切り出した。


「ほんと、今日の学活グダグダだったよねー。アレなら何もやらない方がマシだよ」

「んー、まあそうだねえ。でも先生が来ない時点でこうなる予感はしたけどね」


 私は正直出し物自体に興味はなかった。先生が決めなくては決まらないようなら何をやったって同じだ。なら先生だけでもやりたいものをやった方がいいと思う。けど、学級委員が泣き出した時の、あの責任を擦り付けようとする空気は耐えがたかった。


「それにしても普通泣く? そんな大したことじゃないのにさ」


 咲良ちゃんはどちらかと言えば、学級委員の女子に対して否定的なようだ。口を尖らせて鞄を振り回している。愚痴が始まると止まらなくなるのが咲良ちゃんの悪い癖だ。私は空を見上げたまま内心で苦い顔をした。


「ちょっと夕奈ちゃん、聞いてる?」


 あからさまに遠い顔している私を訝しんで咲良ちゃんが肩を叩く。


「んー? 聞いてるよー」

「もう、さっきからんーんー言い過ぎ。もうちょっとみんな人のためを思えないもんかな。その方が自分も相手も気持ちいいのに。あ、私いまいいこと言った?」


 咲良ちゃんのくだらない冗談は私の耳を素通りした。それは話を聞いていなかったのではなく、むしろ聞いていたからこそだ。


 人のためを想って誰かを助けるのではなく、自分自身のために誰かを助ける。どこまでも自分のためであり、自己犠牲とはかけ離れた行為。

 私の脳裏に昨日の六城さんの言葉が蘇った。


『私が彼に抱いている印象はね。どうしてそんなに他人を気にかけるのかしら、ってところかな』


「ごめん、咲良。私ちょっと用事思い出した。先帰るね」

「え?」


 言うが早いが咲良ちゃんの言葉を待たずに駆け出す。向かう場所は決まっている。

 葵さんのところだ。





 昨日となんら変わるところのない住宅街は、そのまま私の人生を映し出しているようだった。来るものは拒まず、かといって去る者を追わない。温もりとぬるま湯をはき違えたような感覚。でも、私はやっぱりこの街を嫌いになれない。


 上宮家に来るのは久しぶりだった。恐らく小学校低学年の時に遊びに来たのが最後だ。しかし今日は遊びに来たのではない。走って帰ってきて、家の前まで来てから気づいたが、この時間に葵さんが居る保証はなかった。しかしここまで来て、すごすごと帰る選択肢はなかった。


 やはりと言うべか、葵さんは留守だった。応対してくれたおば様に頭を下げて門を出る。その場でしばらくどうするか思案した。このまま帰ってしまうか。それとも葵さんのアルバイト先まで押しかけるか。そこまでする理由が私にあるのか。


 見上げると、雲はいつしか黒く濁り始めさらに厚く空を覆っていた。この分だと日が沈むころには雨が降り出すだろう。このまま暗雲に包まれてしまうと、私の思いまで隠されやがて流されてしまう気がした。それはだめだ。やっと思い出したのだ。やっと掴みかけたのだ。


 考え始めると、立っているのがもどかしくてたまらなくなった。たまらずまた駆け出す。場所は決めていないが、足は自然と駅の方へ向けられていた。


 日差しのない曇った空の下、アスファルトを蹴って風を切る。制服姿のままで走っていると、なんだか自分が映画の登場人物にでもなったような気がした。ひとりで愉快気に頬を歪める。柄にもなく必死になって全力疾走している自分を笑うもう一人の自分がいて、お前恥ずかしくないの? と冷静に刺してくる。でもそんなことは知ったことではない。私以外に私を否定なんてさせない。ふとすると、自分でも何がしたいのか分からなくなるが、理由は後から考えようと首を振った。


 ようやく馴染みのアーケードが見えてくると、同時に周囲の視線が刺さり始めた。やっぱり制服のスカートを振り乱して走るのは不味かったろうか。でも、葵さんの通うスポーツジムはもうすぐだ。それに今更気にして歩くのもそれはそれで恥ずかしい。


 買い物袋を提げて歩く主婦の間を縫うように進み、息を上げながらもアーケードを抜ける。バスの停留所とタクシー乗り場が見える。その先には駅の改札口だ。スポーツジムは駅を挟んだ向こう側にある。私が駅の改札を横切るのと、スポーツジムに群がる集団を見つけたのはほぼ同時だった。

 

 今日はやけに繁盛してるな。そう思ったが何やら様子がおかしい。順番待ちをしているというより、思わず足を止めたという風情だ。立っている人もサラリーマンや主婦層でスポーツジムとは無縁そうな人が多い。なにか起こっているのは間違いないが、私の目的地も同じなのだから止まれない。そのまま全力で人だかりに突っ込んでいく。すると、背伸びをして中を覗いていた男性がこちらに気づいた。見開いた瞳と目が合う。丁度いいと思って退くようにジェスチャーを送ると、男性は戸惑ったように頷いた。

 

「通りまぁす! 退いてくださぁい!」


 同時に大声を出す。こういう時に恥ずかしがって遠慮するといいことはない。群衆はざわめきながらも一本の道を開く。私は走ってきた勢いのまま店先の自動ドアに突き進む。

 ガラス張りの自動ドア越しに二人の女性が向かい合って立っているのが見えた。


 あれは、葵さんと、六城さん?


 二人の女性は、二重になった自動ドアの、外と店内の間の空間に立っていた。入り口が二重になっているのだ。


 葵さんは冷静に言葉を交わしているようだが、六城さんは顔を真っ赤にして叫んでいる。なまじ美人なせいで迫力が尋常じゃない。しかしそれは葵さんも一緒だ。整った顔を無表情に覆っていると、より冷たい印象が強調される。正面から向かい合っている二人はまるで竜虎の並びだ。

 

 そこまで冷静に観察して、自分がもう止まれないことを知った。

 自動ドアをくぐると、二人が一斉にこっちを向いた。思わず竦んでしまいそうになるが、私がここに来た目的を思い出してむしろ胸を張る。


「あなた……」

「夕奈ちゃん?」


 二人が私を注目してそれぞれ声を漏らす。さらに声を発そうとする六城さんを遮って、私は声高に言った。



「葵さん、兄の、光のことを教えてください」



 言った、言ってしまった。もう後には退けない。


 二人は驚愕に口を開けている。じわじわと自分のしたことに足が震えてくる。この二人に割って入るなんて早まったかもしれない。でももうどうしようもない。毅然と顔を上げて見栄を張る。


 先に復活したのは六城さんだった。戦慄きながらもこちらに向かって唾を飛ばす。

 

「あ、あなた後からやってきて何を勝手なことを言ってるの? 大体、妹のあなたに分からないのに、この女に分かるわけが、」

「いいよ、夕奈ちゃん。なにを聞きたい? 今日は特別になんでも答えてあげよう」

 六城さんを相手にせずに、葵さんはまっすぐこちらを見つめてくる。私は唾を飲み込んでさらに息を吸う。毅然と相手を見上げ、そして質問を繰り出した。

「兄は、善意の人ですか」

「いいや」

「じゃあ思いやりのある人ですか」

「いいや」

「誰かを嫌っていますか」

「いいや」

「カブトムシは好きですか」

「いい、いやそれは知らない」

「消しゴムはどうでしょう」

「普通じゃないかな」

「あなたは兄と仲が良いですか」

「どうだろうね。私はそうだといいと思っているけれど」

「六城さんとはどういう関係ですか」

「唾棄すべき偏愛女のことは知らない」

「なぜ、人助けをするんですか」

「それは、答えづらい質問だね」


 言葉を探すように頬を掻く葵さん。私の質問を受けて、六城さんが浮き足立つ。恐らく彼女の知りたいこともこの質問に含まれている。


「夕奈ちゃん。光が子供のころガキ大将だったの、覚えてる?」


 葵さんはすこし遠くを見つめるように聞いてきた。私もつられて過去を見上げる。

 そうだ、昔の兄は今のように無気力ではなく、もっと精力的に生きていた。言うなれば、人生を全力で過ごしていたはずだ。ずっと近くにいたはずなのに、その腕白な幼い兄と、今のあの人が私の中で繋がらない。


「といっても、私が彼と深く交流するようになったのは高校に上がったころだから、それまでのことは人聞きなんだけどね。そう、でも以前の光はもっと他人を気にかけ、他人と共生していた。しかし今の彼は違う。おい、メンヘラヒステリー女」


 話の最中で突然口調の変わった葵さんを、私は思わず見つめる。ついで六城さんを見ると、体を小刻み震わせていた。


 何を隠そう私が一番驚いていた。葵さんがいつもの口調を乱している。いったい六城さんは葵さんに何をしたのだろう。不名誉な呼ばれ方をされた六城さんが口を開く。

 

「あなた、それもしかして私のことを言っているの?」

「そうに決まってるだろ。ここにお前以外当てはまる奴が居るか? おい、そんなことより私の質問に答えろ。彼はお前のところだといつもどんな感じだ?」


 しばらく怒りに身を沈めていた六城さんだったが、やがて取り合う空しさを想ったのか、肩から力を抜いた。


「はあ、彼の様子? 昨日その子にも言ったけど、彼はお助けマンよ。不穏な空気になると颯爽と現れて、頼みもしないのに解決するの。いったいどれだけの人間をああやって落として来たのかしらね。私の知的好奇心と痴的好奇心もガッツリつかまれちゃったわ。中には彼のことを人に媚びへつらう卑しい奴だ、なんて言う者もいるけれど、そういうやつは何も分かっちゃいないわね。彼はこっちのことなんて気にも留めてないわ。もしかしたら、私が居なくなっても気づかないんじゃないかしら? あら、それはとっても悲しいことだけど、とても面白そうだわ。次はそれでいこうかしら。でも私が消えるのは嫌ね。ねえ、えっと夕奈さんだったかしら。ちょっと彼の前から消えて下さらない?」


 圧が、圧がすごい。相変わらず、喋りだしたら止まらない人だ。


 昨日今日と、まだ二度しか会っていないが、この人がどんな人なのか大体分かってきた。尋常じゃないほど自分に正直な人なのだ。自分の欲求を満たすためならば、如何なる条件でもあっさりクリアしてしまう。常人にあるブレーキが全くない。

 私がまたもや圧倒されていると、葵さんがため息交じりに言った。

 

「キミは本当に気が違っているんじゃないか? この通り、ここに来てからもずっとこの調子なんだ。夕奈ちゃん、こいつはいつもこの調子?」

「私もまだ二回しか会ってませんけど、まあ、おおむね」

「じゃあやっぱり頭がおかしいんだな。しかし、光については私と見解が一致している。真に遺憾なことではあるが」


 葵さんはそこで一度言葉を切り、一息吸ってこちらを見直した。


「そう。そいつの言う通り、彼は他人を気に留めていない。いや、この言い方は上手くないな。彼は、私たちに、関心がないんだ」


 葵さんの言葉はそれなりに衝撃的だったけれど、その程度のことは私も知っていたことだ。私の知りたいことはその先。


「でも、じゃあなんで兄は人助けなんかするんですか」

「そこが光の度し難いところであり、面白いところだ」


 わかるかい? その顔はそう言っているように見えた。葵さんに分かっていて、自分が全く分からないことに焦り、苛立つ。

 私が苦虫を噛み潰したような表情をしていると、六城さんが言った

「ねえ、さっきから無駄に勿体つけているけれど、やめてもらえる? 私、答え合わせの前にCMに入るクイズ番組は嫌いなの」

「お前にそれを言われるのは癪だが、そうだな。そんな特別なことでもないよ」


 自分の中でも言うべき言葉を纏めているのか、葵さんは一度黙った。


「彼は天下泰平を愛しているのさ。自分の身の回りに起きている争い事を看過できない。少しでも自分と関りを持った人間が困っているのを見過ごせない」

「それは善意からくる人助けとは違うんですか?」

「違うね、全く違う」


 まあそうだろうな。正直兄がそんな良い人だとは私も思っていない。


「原因は慢性的なストレスだ。彼は周囲が荒れていると自分のことのように苛立つらしい。まあ、その程度のことは誰にも経験があるんじゃないかな。けど、それが光には日常に支障をきたすほど重いものなんだ。異常なほどの自己献身と引くほどのお人よしはそういう理由だ。そしてそれは、キミの前だけは起きていない。夕奈ちゃん、この意味が分かるかい?」


 葵さんが思いがけない事を言った。私と、ほかの人間で兄の対応が違う?


 確かに、六城さんが語る兄や、今葵さんが説明してくれた兄と、私の考える兄の姿はあまりに違う。もはや別人のレベルだ。いや、でもそれは、


「それは、私が妹だから、兄妹だからじゃないんですか」

「ふふ、それも違うよ、夕奈ちゃん。彼のストレスは、例えば両親に対しても起こるからね」


 なぜだろう、葵さんの言っていることを素直に受け止められない。どうしてもそのことを噛み砕けない。

 軽い困惑に陥っている私を放って、葵さんと六城さんが話し始める。


「ねえ、そのストレスとやらはあなたが相手でも起こるの?」

「キミは人に話しかける時、ねえ、としか言えないのか? どうやら育ちがよさそうなのは見た目だけのようだな」

「こっの……! あなたさっきから私に対して失礼じゃありません?」

「いきなりやってきて喚き散らすお前のような人間に対して、なぜ敬意を払わねばならない? 構って欲しかったのなら、その飾り物のような肉体で釣った男でも囲ってろ」

「ぐぐぐ、……はぁ。葵さん、あなたが相手でも彼のストレスは起こるのかしら?」

「そうだな、私も例外ではない。その点は私も残念だと思っている」


 ようやく自分を無理にでも納得させると、六城さんが怒っていた。なるほど、私が来る前もこういう状況だったんだな。

 二人はまだ話していたが、私にもまだ聞かなくてはならない事が有る。意を決し、もう一度二人の会話に躍り出る。


「葵さん、聞いてもいいですか」


 六城さんに向かってスルスルと暴言を吐いていたのを止め、こちらに視線を向ける。


「なんだい? 今のが君の一番の疑問だったと思っていたけど」

「いえ、もう一つ聞かなくてはいけないことを思い出しました。昨日会った時、葵さんは『あのことは彼には言えた?』と、そう言いましたよね。あれはなんだったんですか」

 葵さんは少し眉を顰めたが、すぐに思い出したように手を打った。


「ああ、そうだ。あのことね。それならあのあと思い出したよ。消しゴムのことだったはずだ」

「消し、ゴム」

「私もそればっかりは何のことなのか分からなくて。なにか思い出せた?」

「いえ、はい。大丈夫です。ありがとうございます」

「そう? ならよかった。質問はそれで最後かな。そろそろ店長に小言を頂きそうだよ」

「あ、いえ、最後にひとついいですか。これで、終わりにします」


 意識せずとも顔が強張った。葵さんも私の表情の変化に何かを覚ったのか、体をこちらに向けた。


 深く息を吸って、余分なものを吐き出す。胸に手を当てると、びっくりするほど動悸が激しくなっていた。頭が熱に浮かされたようにぼーっとする。それでも、これを聞かずには帰れない。

 もう一度深く息を吸って、想いを吸い込んだ。できるだけ自然に、と自分に言い聞かせながら、私は口を開いた。


「兄に、好きな人はいますか」


 そこで葵さんは黙った。屋内にいるはずなのにとても寒く、手足にじっとりと汗をかく。喉が干上がり、眉が引きつる。視界が赤や青に明滅しているようで、酔ってしまっているんじゃないかと思う。立っているのもしんどくて、でも座り込むほどの気力もない。


 葵さんは押し黙って、こちらを見下ろしている。気が付けば、葵さんの顔を見据えていたはずの目線は床を見ていて、傍から見たら泣き出しそうに見えるのだろう。重い沈黙があたりを包み、今までうるさかった六城さんも何も言わない。


「彼は」


 葵さんが口にした一言に、私の肩は否応なく飛び跳ねる。心臓が早鐘を打ち、今にも口から飛び出しそうだ。もう何も言わないで。叫びだしそうで、けど口からは何も出てこない。


 せめてその言葉を聞き逃さないようにと、顔を上げる。葵さんはいつもと同じ顔で、しかし一切の感情を圧し殺した無の表情だった。この状況になんら思うところはないと言わんばかりだ。口が怖い。その閉ざされた唇が切られるとき、私の全ては破壊される。しかし、その一瞬は必ずやってくる。


「光に好きな人はいないよ」


 葵さんはあまりにもあっさりと言い切った。私はその時点で言葉を受け取るための機械と化した。


「彼は全てを等しく平等に見ている。道に落ちた石ころも、長年連れ添った親友も、彼にとっては同じものだ。口から好意的な言葉が出ても、それは心の外側を覆っている反射的な回路が打ち出しているに過ぎない。私も、そこに居るその女も彼には等号だ。性別や性格などの個性を認識してもそれを理解はしていない。恐らく例外は彼を彼たらしめている何らかの事象のみだろう。全てを平等に愛し、全てを平等に排他する。そしてそれは、夕奈ちゃん。君も同じ」


 私は、私の寄る辺は。世界が縮んでいく。六城さんがなにかを喚いているが、耳から脳へと伝わらない。葵さんは私をすでに見てはいなかった。

 自分が今立っているのか座っているのか把握できない。もしかしたら寝ているのかもしれない。動かない体に困惑しているうちに、意識が手のひらからすり抜けていくのを感じた。



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