カブトムシ
ああ、これは夢だな。なら特に考える必要もない。夢ならばその展開に身を任せよう。
季節や天気は判然としない。しかし目に映るすべてが薄ぼんやりと白く霞んでいる。遠くをカブトムシが飛んでいく。その姿は普段の鈍重さからは想像もつかぬほど力強く、かつ不安定だ。
地面に括りつけられたような、幼い私が居る。私は虫カゴを右手にぶら下げている。たぶん、あのカブトムシを逃がしたのだろう。その表情は見えないが、あれが私なら、決して泣いたりはしていないはずだ。
場面が切り替わる。玄関前で、母が私を??りつけている。その右手にはやはり虫カゴで、しかしカゴの中には一匹のカブトムシ。怒鳴る母の声は聞こえないが、その内容はわかる。
あれは、カブトムシを逃がすよう言っている。母は別に虫嫌いなわけではない。人並みの女性として虫を嫌がるときはあるが、娘が飼うことをむやみに否定する人ではない。問題はその出所だ。
幼い私は叱られているはずなのに、ちっとも涙を見せない。ギュッと両手の物を握りしめるだけだ。どうしてお母さんは許してくれないんだろう。そんなおめでたいことも考えてはいない。ただ黙っていることで相手が諦めるのを待っている。相変わらずの、賢しい私だ。
私が初めて持って帰ったカブトムシは、人からもらったものだった。どうしてもカブトムシを手に入れたくて、しかしどれだけやっても自力では手に入らなかった。近所にある林という林を歩き回り、森という森に分け入った。たしかに昆虫はいた。それはもう目に余るほどだ。しかしそのいずれも私の手元に来ることはなかった。手持ちのハチミツだけが減り、反比例するようにカブトムシへの想いだけが募った。
そんな時、小学校である噂を聞いた。最近、河川敷の橋の下で子供を相手に商売をやっているおじさんがいるらしい、と。聞くだに怪しく、実際怪しかった。しかしその商品のなかにカブトムシがいると聞いた時には、すでに私の思いは決まっていた。
かくして、お年玉の入った缶詰の代わりに、私は立派なカブトムシを手に入れた。
当面はそれで問題なかった。私は自分で捕ってきたのだと親に言って聞かせ、友達にも見せびらかし、間違いなく幸福だった。小学校時代の数少ない思い出だ。しかし、後ろ暗いことをすると必ず不利益が伴うものだ。
小学校の方で河川敷に不審な男が居る、という注意が呼びかけられた。あまりに小学生の間で繁盛しすぎた結果、どこかの子供が親に話してしまったのだろう。瞬く間におじさんは家庭を席巻し、回覧板の一面を飾った。親が騒ぎ出すと教師も黙ってはいられない。帰りの会の時間を使い、おじさんから物を買った子はいるか、審問が行われた。
当然私は自分がカブトムシを買ったことを黙っていた。私は一人で買いに行ったし、誰にも人から買った事実を話してはいなかった。バレるはずがないと思った。
順番にクラスメイト達が教師に質問される。ある子は不自然に誤魔化し、ある子は強く問われて泣き出した。教室の中が段々と澱んだ空気に包まれていく。みんなが次々に白状し暴かれているのを見ると、さすがの私も不安になってきた。本当にバレはしないか。私は嘘を徹底していたか。
ついに私の番が来た。先生がゆっくりと腰を下ろし、席に着いている私に目線を合わせる。低く私の名前を呼び、そこでまた押し黙る。沈黙に耐えられず白状したい、楽になりたいと強く思うが、必死に口を噤む。また先生が口を開き、「知っていたか」と聞いた。私は一拍あけて首をふり、「知らないです」と小さく答えた。こういう時にすぐに返事をするのは返って怪しいと考えたのだ。図書館で江戸川乱歩を読んでいた経験が生きた。先生はまた私の目を見て押し黙った。私は真っ向から先生の目を見返した。絶対に目をそらしてなんかやるもんか。先生はそこで一つため息をつき、私の頭に手を置いた。そのまま立ち上がり、後ろの席へと移っていく。
勝った。私は勝ったのだ。内心の笑顔を隠すのが大変だった。大人を騙しおおせた。幸福と充実感の中で、家で私を待つカブトムシのことを想った。
「私見た! 夕奈ちゃんはカブトムシ買ってたよ!」
顔も頭も真っ白になった。現実を認識する術を失い、口をパクパクと閉口した。
遅れて声の元を見ると、泣き腫らした顔で鼻水をすする女の子が立っていた。あの子はさっき先生の問いに耐えられなくて泣き出してしまった子だ。恐らくどこかで彼女に買うところを見られていたのだろう。そして自分がバレたのに私が隠し通したのを見て、たまらず声を上げたのだ。そこまで考えて、そしてこのあと家で自分を待っている出来事を予期して、私は項垂れた。
母はその出所を許してはくれなかった。当然だろう。どこの誰とも知れない男から娘が虫を買ってきたのだ。普通の親ならば決して認めない。それでも私は最初、精一杯抵抗した。これまでちゃんと世話をできていたこと。嘘をついたのは悪いと思っているが、どうしても欲しかったこと。これからも世話を投げ出したりしないこと。色んな言い訳を言ったが。所詮は子供の言い訳だった。
そうして玄関で三十分の膠着状態に陥った。
正直私はもううんざりしていた。いい加減私の我がままを認めて、家に上げてほしい。それに、私のお金で、私が買ってきたのだ。世話だってちゃんとやれていたし、母に文句をつけられる謂れはないと本気で思った。だが母も折れる気配がない。これはそろそろ潮時かもしれない。そんな風に私が諦めを考えた時。
兄が出てきた。
兄は眠そうな顔で、しかしはっきりと言った。
「俺がなんとかするよ」
そう言うと私の手を取り、家の扉を開けた。一目散にマンションを駆け下り、エントランスを出て、道路に立つ。そこでようやく私の手を放した。私は兄を見上げ、文句を言おうと思ったが、それより先に兄が虫カゴをぶんどった。
驚き目を見張る私の前で、虫カゴを開け放ち、カブトムシを外に放ってしまった。翅を広げ飛んでいくカブトムシ。狭い檻の中で凝り固まった自らの体を解き放つように、空へと舞い上がっていく。
私は虫カゴをぶら下げて空を見上げるばかりだ。
「ごめん」
竦んで動かない私を見つめ、兄が頭を下げる。しかし、あまりのことに私は反応を返せない。するとまた兄が手を取り駆け出した。流れるままに後ろについていく。自分の足で動いているという感じは全くしなかった。兄は住宅街を抜け、すぐ近くの林に入っていった。
気が付くと周囲は真っ暗で、兄は泥まみれだった。手や足には擦り傷やかすり傷がたくさんついている。それでも必死で木と木の間を行ったり来たりする。
もういい。もういいよ、お兄ちゃん。何度もそう言おうと思ったけど、どうしても言葉にできなかった。常には見せない表情でカブトムシを探す兄を想うと、私にできることは何もなかった。
結局、兄はカブトムシを捕まえることはおろか、見つけることすらできなかった。
けど、私は別にそれでよかった。兄はいつまでも逃がしたことを謝ってくれたけど、本当にそんなことはどうでもよかった。ただ、私の好きなものがひとつ、増えたから。
○
目を覚ますと、汗で体が沈みそうだった。こんなに寝汗を?いたのはいつぶりだろう。しかも制服のままで寝てしまっている。汗で濡れ、寝返りでしわくちゃになった制服は酷いありさまだ。
今日は夢の出来事をよく覚えていた。そうだ、私にはあんな思い出があった。ところどころ現実とは齟齬があるが、たしかにあの日を覚えている。今まで忘れていたことに少しショックを受けたが、それよりも幸福感が勝った。私はあの頃、兄を本気で尊敬していた。
そこで眠る直前のことを思い出した。あわてて飛び起きる。ベッドに腰かけて、部屋の外の気配を窺う。キッチンの方から、包丁さばきの音が聞こえる。それ以外の音はない。
それでもどうにも安心しきれなくて、部屋を出た。廊下を右に曲がり、突き当りの右側の部屋に耳を寄せる。なんの音もしない。どうやら本当に誰もいないようだ。安堵のため息をつき、私はその場に座り込んだ。
いったい、あの人はなんだったのだろう。いや、あの人も変だったが、あそこまで取り乱した私自身も不思議だった。なぜ私はあの程度のことに慌てふためき、恐怖まで感じたのだろう。まるで自分自身を丸裸にされるような感覚だった。
床に座り込んで呆けていると、じわじわと空腹が上ってきた。放課後買い食いしたはずなのに、もうお腹が空いている。ちょうど母が夕ご飯を作っているようだし、つまめるものを探そうかな。
立ち上がってキッチンへ向かおうとして、立ち止まった。すぐそばの玄関へと足を向ける。真っ暗の玄関で手探りに電灯のスイッチを探す。明かりをつけると、今まで寝ていたせいもあって目が痛んだ。少しずつ目が慣れてくる。けど、この感覚は嫌いじゃない。
彼はいつもと同じ姿勢だった。相変わらず黒塗りの体をのたのたと動かしている。ゼリーはもう完食してしまったのか、空だった。
このカブトムシは私が中学に入ってからお店で買ってきたものだ。最初の一件が尾を引いたのか、母は渋面だったが、今度ばかりは文句を言わせなかった。念願かなって私は彼を手にしたのだ。と言っても、母に隠れてそれ以前から飼ったりはしていたけれど。このことを知っているのは恐らく葵さんだけだ。
葵さんのことを思い出すと、また兄の顔が頭に浮かんだ。
葵さんと六城さんと、兄。どの人も私の想像の埒外にいる。ただ、兄だけは私の延長線上の存在だった。無性に兄の見ている物を知りたくなった。そのための距離はあとどのくらいあるのだろう。
見つめる先のカブトムシは今日も寡黙だった。