葵と六城
結局、そのあと商店街を出ていった二人の姿を見つけることはできなかった。
咲良ちゃんと会ってから店を出るまでが大体三十分ほどだったから、まあ見つけるのが難しいことは分かっていた。
見つけるのを諦めて、今日は大人しく家に帰ることにしたのが、そのまた三十分後。
まだ夏が明けたばかりだといってももう季節は秋。周囲もそこそこ黒い影に塗られ始めて、肌寒くなってきていた。寒さから自然と足が早まり、通学路を急ぐ。
もうすぐ家の近くというあたりまで来ていた。周囲は住宅が並び、街灯と自動販売機の明かりが、道路をうっすらと照らしだす。路地の角に動くものがあると思うと、全身墨を被ったような黒猫がいたり、小さな子供用のゴムボールが道にひっついていたりする。
私はこの都会とも田舎とも言えない微妙な生活感が好きだった。生まれてからここで育ち、周囲の人間もこの区域に八割がた限定さおれる。まさしく私の帰るべき場所で、この退屈で閉じた空間に抱かれていることに喜びを感じていた。もちろん、幼馴染である咲良ちゃんもこの住宅街に住んでいる。他にも幾人かクラスメイトが居たはずだ。あとは、そうだ、あの人がいた。
「あれ、こんな時間に帰宅?」
噂をすれば、だ。この人はこういう勘の良さがあって偶に不気味だ。
振り返ると、ショートカットの若い女性が立っていた。小麦色の肌をホットパンツから惜しげもなく晒している。目鼻立ちはキリッと上を向いて、喋らずとも意志の強さを感じさせる。上に着ているのも袖の短いTシャツで、秋に移ろう世間に反して一人だけまだ夏を謳歌しているようだ。
葵。上宮葵というのが彼女の名前だ。私は初めて会った時から葵という名前に違和感がある。この人はどちらかというと夏美という感じだ。
「ちょっと昆虫ゼリーを買いに商店街の方へ行って来たんです」
葵さんは目をぱちくりと瞬かせると、朗らかに言った。
「ああ、そういえばキミはカブトムシには一家言あるんだったね」
「一家言というほどのものではないですよ。まあ、ただ、ちょっとその辺の凡夫よりはカブトムシ博士なだけですね」
「相変わらず見た目と内面にギャップがある子だなあ」
出た。この言葉は葵さんと私の間で幾度となく交わされた言葉だ。この挨拶が出た時に私が答える言葉も決まっている。
「葵さんはもう内面と外見が別人の域ですよね。その見た目で生け花やピアノが特技だなんて、もはや良質な詐欺ですよ。その上見た目通りスポーツジムで働くインストラクターなんですから。もしかしてふざけてます?」
「前から思っていたけど、私のこと嫌い? 一応私は年上なんだから、もうちょっと敬意で言葉を包んでもいいんだよ?」
「別に嫌いじゃないです。でも、優秀な人はその分得をしているんですから、すれ違い様に唾を吐きかけるくらいのことは許してください。まあ、気を悪くされたのでしたら謝らないでもないです」
「なーんか、だんだん彼に似てきたね、キミ。訳の分からない理屈を捏ねまわすところがそっくり」
葵さんの言う彼とは兄のことだろう。いや待て。私が、兄に似ている? それは結構不名誉なのではないか。そりゃあ兄妹なんだから似ているところくらい有るだろうけど、人に言われると思ったよりショックだった。
私が自分と兄の共通点を探して頭を捻っていると、葵さんが手をポンと叩いて口を開いた。
「そういえば、あのことは彼には言えた?」
「はい? 何の話ですか?」
咄嗟に質問の意図がつかめず、素直に問い返す。私が上目遣いに疑問符をぶつけると、葵さんは少し意外そうな表情をした。
「んん? あれ、前にどうしても言いたい事が有るとかって言ってなかった? えっと、なんだったかな、確かゴムの話だったような。あれ、ゴミの話だったかな……」
話を振った本人も何のことだったか思い出せないようだ。目の前で首を傾げている葵さんを見ていると、大して重要でない気がしてきた。
「えーっと、何の話をしてたんだっけ」
どうやらこれ以上考えても思い出せないと覚ったのか、話題の巻き戻しを図る。
「私のカブトムシがいかに美しく、逞しいかの話です」
「キミは真顔で嘘を吐くタイプだね。残念ながら私はそんな女子にあるまじき話はしてないし、するつもりもないよ」
人の趣味に対して随分あけすけに言ってくれる。私は葵さんのこういうところを尊敬し、同時に忌避している。
「あんなにカッコいいのに何故それが分からないんです。……ふう、葵さんはこんな時間に何を?」
この人に熱弁を振るうことの徒労を思い出し、私は話題を変えた。
「ん? まあほら私は自由人だから。今日は夕方の地元を散歩する日なのよ」
「自分から自由を語るとは、語るに落ちましたね」
「語るに落ちるの使い方がおかしくない?」
「自由を公言する人間に、真実の自由はあり得ませんよ」
「やっぱり落ちてなかったね。でもそのドヤ顔はむかつくなあ」
台詞とは裏腹に、さして腹が立っているようにも見えない。その平常心に、むしろ私の方が苛立ってきた。
葵さんと話すといつもこうだ。私は彼女のスタイルを崩そうと躍起になって、逆にペースを握られてしまう。普段の私なら絶対言わないようなことも、この人を前にすると口から零れ落ちる。それは人を安心させるからというより、相手の殻を剥がしてしまうからだろう。
「私だからいいけど、学校でもそうなら心配だな。大丈夫? クラスで浮いてない? 彼ももう少し君に構ってあげればいいのに」
それは兄の数少ない友人としての意見だろうか。それなら葵さんだって無駄なことくらい分かっているだろうに。
葵さんは兄の女友達という枠に限れば、私の知っている唯一の人でもある。
あ、いや、そういえばもう葵さんだけではなかった。商店街で見たことを告げようか私が迷っていると、
「じゃ、このあと私はジムで筋肉をいじめるという仕事があるから。あんまり寄り道して彼を心配させちゃいけないよ」
自分の言いたい事だけを言い切って、走り去っていった。
葵さんが本気で言っているのか分からないが、兄は私を心配したりなんか、絶対にしない。あの人は自分が良ければ大半のことに興味がない男だ。それだけならばすこし自分本位なだけだが、兄の場合、その範囲は友人や家族にも及ぶ。実際兄が何を考えているのか、最近は分からなくなっていた。
いや、それはたぶん葵さんも一緒だ。あの人も他人に対して自分のスタンスを一切崩さない。それは相手に自分を許していないからだ。どこまでも他人と交わるつもりがない。タイプも歳も違う二人が友人なんてやっていられるのは、それが理由だろう。しかも、お互いそんなであるから友人が少ない。私はそのせいで、二人が男女の仲なのではないかと勘繰ったことがある。
とんだマセガキだ。あの二人にそんな甘い現実は存在しない。もっと冷え切った、哀しい何かだ。いずれにせよ、私の物差しで測るには、彼女は不透明すぎた。
葵さんに会うと、ただでさえ没頭しがちな私の癖が助長されて、深みに嵌ってしまいそうになる。だから嫌いではないが、あの人は苦手だ。尤も、葵さんを得意な人なんて想像できないけど。
気が付くと家の扉の前に立ち尽くしていた。意識した瞬間、寒気に体が縮む。多少慌て気味に家の鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んだ。回してみて、抵抗がないことに気づいた。
母が帰っているのかな? そう思いながら扉を開けて、知らない靴が置いてあるのが目に入った。
あの臙脂色のブーツは兄の物だろう。散乱しているサンダルはいつもと一緒だ。ただ一つ見慣れないロングブーツが天井を向いて立っている。新品同然で、この汚い三和土にはあまりに不釣り合いで、ロングブーツを残してほかの全ての靴を外に放り投げたくなる。まさしく鎮座という趣だ。
私はロングブーツからなるべく遠い位置に自分のローファーを脱ぎ置き、廊下に上がった。帰りの挨拶すら言い忘れていることにそこで気づいたが、今更言う気にもなれない。
玄関からの突き当りを曲がり、一番手前、左手のドアが閉まっているのを確認する。
そこで私は立ち尽くした。どうしよう、挨拶位するべきだろうか。と、いうか来ているのはやっぱりさっきのあの女性なのか。私は学校から帰ってきたばかりで制服だし、髪ももしかしたら崩れているかもしれない。気おくれどころではない。
私が姿の見えないなにかの観念と格闘していると、徐に扉が開いた。
「あら、彼が帰ってきたと思ったら、なんだか見慣れない子が立っている。どうしましょう」
見慣れないのはあなたのほうだ、とはもちろん言えない。
間近で見ても、疑うところのない美人だった。すらりとした肢体。きめ細やかな肌。蛍光灯の明かりを受けてもなお鮮やかな黒髪。身長は優に百七十センチはあり、ヒールでも履かれれば、世の男たちは咽び泣くことになるだろう。その瞳は黒く潤んでいて、あまりの造形に目を見ることができない。
部屋の中は彼女によって塞がれ見えないが、確かに兄がいる雰囲気はない。
そこでようやく自分が何も反応を返していないことに気づいた。
「あ、え、と。は、初めまして。何もないところですが、どうぞごゆっくり」
なんだ、これは。私は吃音症か。あまりの羞恥にその場にいることが辛くなる。早く自分の部屋に逃げ込まなくては。
おざなりな挨拶を最後の台詞まで言い切る前に体を反転させ、逃げ出そうとする。しかしその行動は彼女が私の右腕を掴むことで封じられた。
「そんな無下にすることないじゃない。ちょうど彼がいなくて暇を持て余していたところなの。他人の部屋の秘密を探るのも飽きてきたし、ちょっと話し相手になって下さらない?」
下さらない。断じて下さりたくはない。しかし彼女は私の意向を無視して、ずるずると部屋へと引きずり込んでいった。
久しぶりに踏み込んだ兄の部屋は、呆れるくらい以前と同じだった。扉側の壁に本棚があるだけで他には何もなく、布団やベッド、机すらない。テレビも同様になく、強いて言えばエアコンがあるが、今は使われていない。ハッキリ言って生活感が皆無だ。妹の私でさえ、ここに人間が一人住んでいることを信じられない。
彼女はそんな無菌室のような白い部屋に立って、腰に手を当てながら言った。
「こんな座敷牢みたいな部屋にずっと居ろだなんて、軽い嫌がらせだと思わない? 彼ったら不純な本の一つも持っていないようだし」
「あ、それならきっと本棚の裏ですよ」
思わず言ってしまってから口を押えた。余計な事を言ってしまった。
上目遣いに彼女の表情を窺うと、既にその姿はなく、必死に本棚の裏を覗こうと足掻いている。あまり恥らいのあるタイプではないのだろうか。しかし、返って私はそのはしたない姿勢に好感を覚えた。何を考えているか分からないよりはよっぽど良いい。まあ、初めて来る異性の部屋でスカート姿のがに股は、いかに美人でも許されないな。
彼女はうーんうーんと唸りながら隙間を覗いていたが、やがて自分の行いに気づいたのかその場に座り込んだ。
「駄目ね。完全に固定されていて全く取れる感じも、覗ける感じもしないわ」
違った。純粋に諦めただけだった。さっきからこの人には圧倒されてばかりな気がする。ちなみに、あの本棚の裏に隠しファイルがあるのは本当だ。私も取り出し方までは知らないが。昔、兄が絶対に見つからない隠し場所だと言って、物を詰め込んでいたことを覚えている。
「で、あなたはいつまでそこに立っているの? あんまり見下ろされているのも気分が良くないのだけど」
「あ、そ、そうですよね。すみません」
なぜ私が謝らなくてはならないのだ。いや、別に謝れなんて言われてないけど。
ここは我が家であるはずなのに、私はとても所在なく部屋の隅っこに座り込んだ。体育座りだ。対して他人の家であるはずなのに、彼女はとてもリラックスしているように見える。気が付けば猫のクッションを抱いて足を崩している。もうなにがなんだか分からない。
「ねえ、彼って家だとどんな感じ?」
「え?」
一切の前置きなく急に問いかけられて、一瞬言葉に詰まる。
「あー。私、外での兄をあまり知らないので、どう言えばいいか」
「んん、そうね。じゃあ私から話そうかな」
そう言うと彼女はこほん、咳ばらいをして頬に手を当てた。
「私が彼に抱いている印象はね。どうしてそんなに他人を気にかけるのかしら、ってところかな。印象というか疑問だけど」
気にかける? 誰が? 急に訳の分からないことを言い出した女性を思わず凝視する。もしかしてここは我が家ではなくて、誰か他人の家に上がってしまって、そこに居た全く知らない人間相手に、私は自分の兄の話をしようとしたのでは、という疑問すら浮かんだ。
しかし彼女は、私の知らない誰かの話を始めた。
「あ、私、六城雅って言うんだけど。六城家って小金持ちなのよ。それでちょっとしたことでその、えーと価値観の相違? みたいな言い争いになったことがあって。あ、彼とじゃなくて他人とね? 私はあまり気にしてなかったよ、本当に大したことじゃなくて箸の使い方が悪いとか、ちょっとした距離でタクシーを使うとか。その程度のこと。でも相手の人にはそれが鼻についたのね。まあそれで喧嘩未満論争以上が起きました、と。そこに居合わせたのが彼だったわけ。まあ、鮮やかな手並みだったわね。相手にも私にも禍根を残さないように話を持っていって、それで最後には笑い話にまでしちゃうんだもの。あ、この人慣れてるな、ってすぐ思ったわ。そうしたら案の定色んな所でレスキュー隊員してるのよ。思わず笑っちゃったわ。でもそれで得心した。彼の周囲のおかしさの理由をね。居るのよ、周りにたくさん。彼の気遣いと会話センスにやられちゃった人たちがね。しかも男女問わず。でもほら彼って人付き合いはあまり多くないじゃない? だから男からは微妙に思われるし、女からは勝手にキープくん扱いよ。本人はあまり気にしてないというか、そもそも気づいているかすら怪しいけど。でもそんなの哀しいじゃない? 今度は私が助けてあげないと、って思ってね。今日はその第二段階。お家にお邪魔して彼の人となりをよく知るの。敵を倒す時には入念な調査が要るけど、助ける時だって同じことよね? ね、だから妹のあなたから彼のことを教えて頂戴?」
なんだ、この人。何を言っているんだ? 私は今、どんな顔をしている? 多分口を半開きにしているんだろう。唇がカサカサに乾いているから。エアコンも効いていないのに。
彼女の言っていることに疑問はたくさんあるはずなのに、頭から口にうまく伝達しない。自然目を合わせて間抜け面を見せつけることになった。目が合う。
いけない。この瞳は見てはならない。私という人間を根こそぎ引っこ抜かれてしまいそうだ。後に残るのは乾いた箱だけになってしまう。しかし脳の警鐘とは裏腹に眼球はちっとも言うことを聞かない。すでに眼の支配権を奪われてしまったかのようだ。
彼女がまたなにか言おうと口を開く、ゆっくりと開けているはずなのに、唾液が糸を引くことすらない。それとも実際はそんなに遅くはないのか。私にそう見えているだけなのか。ああ、今にも音を放ち、私を食い殺す、猛獣のような唇から目が離せない。駄目だ、と目を閉じようとする。
その時、玄関から扉の閉まる音がした。
兄が帰ってきた。
最初に頭に浮かんだのはカブトムシの広げた翅だ。次に知らない、薄汚いおじさん。
私は思考を置き去りにして肉体を逃げるためだけに行使した。カブトムシを見たい。それ以外を視界に入れたくない。もうだめだ。均衡が崩れる。私が私でなくなる。
開きっぱなしだった扉を壁にぶつけるように開ききって駆け出す。虫かごのある玄関へ足を向けそうになって、一瞬空白になった。
今、あそこには兄が居る。
即座に反転して「子供の部屋」へ進路を変える。もう私の頭には、自分だけの星空しか残っていなかった。
私の思考が上手くかみ合い、また正常に回り始めた頃、すでに視界は闇に包まれていた。徐々に五感が戻ってくる。それに従ってここが自分の部屋の、自分のベッドの中だと分かった。私を覆う闇はなんてことない、ただの布団だ。しかし今はその闇を手放したくはなかった。冷めた温もりの中で、自分の体を固く抱きしめる。
その時、遠くから「夕奈」と私を呼ぶ声が聞こえた。
視界はさらなる暗闇へ落ちていく。