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 黒塗りの体がのたのたと鈍重な動きをしている。私にはそれが、彼なりの精一杯の生の証明に見えた。ゼリーの置かれた木片までの道のりは、彼にはどれほどの距離に見えているのだろう。


 相手の見えているものを想像するのは、私たちに許されたささやかな譲歩だ。実際には他人の気持ちが分かるだなんて誰も思っちゃいないし、分かられても困ることのほうが多い。けど、それでも私たちは具合のいい、据わりのいい着地点を探して相手の眉間を見る。

 

 思考から切り離されていた目の焦点が合わさった時、彼はすでにご馳走にありついていた。私が変なことを考えている間にも周囲は立派に動いている。なんだかちょっとほっとしたような、奇妙なため息がでた。


 カブトムシを見ているのは心が落ち着く。彼らはせかせかと動いたりしないし、余計なことも言わない。なのに、女子の私がカブトムシを飼うことを世間は変だと言う。そんなくだらないレッテル貼りはごめんだ。私はスイーツもスカートもカブトムシも平等に愛している。なにより姿が愛くるしいではないか。


 ポケットのスマートフォンで時間を確認すると、帰宅してから三十分ほど経っていた。玄関で靴を脱いで三和土を出る。薄暗い廊下を抜けて自室より先にキッチンに入ると、真っ先に冷蔵庫を開けた。ハムやベーコンが多くてろくに飲み物が入っていない。唯一残っていた麦茶を取り出してコップに注ぐと、一息に飲み込んだ。パックのお茶は手軽だけど、お茶というよりお茶っぽい水みたいだ。それでも、慣れ親しんだ味は私の気持ちを解してくれた。


 「子供の部屋」とへたくそな字で書かれた扉を開ける。学生鞄を適当に放り投げ、制服も脱がずにベッドに横たわる。天井の模様を眺めていると、その一つ一つが人の顔に見えてくる。ただの点でしかないのに。昔の人はこんな風に星座を決めたのだろうか。なら、この天井は私だけの星空だ。ちょっと不気味だけど。


 私は賢しい。先生や友達は賢いとか、頭が良いとか言うけれど、私には居心地が悪い。勉強はできる方だし、躓いたこともない。けど、それは決して頭が良いからじゃない。たぶん、高校に入ったら自然と苦手な教科も出てくる。少しほかの子より集中力があって、要領が良いだけだ。でも一方で、冷静に自己分析ができている自分はまだマシだとも思っている。ただの阿呆だ。


 とりとめもないことを考えていると、するっと睡魔がやってきた。抗わずにその心地よさに身を任せると、意識はあっさりと沈んでいった。





 私は消しゴムだった。

 お風呂でそのことを知った時、目の前がぐいーんと伸びた気がした。のぼせただけかもしれないけど。

 

 いつもはお母さんと一緒で、でもその日は特別に一人でお風呂に入った。お母さんは湯船に浸かる前に絶対体を洗いなさいって言う。私も、汚い体でお風呂に入るのはダメだって分かっていた。けど、その日はお母さんが居なくて、ちょっと寒い日だったから、約束を破った。

 

 髪も濡らさずに足の先から湯船に浸かる。裸足で歩いて冷えた指先が突然お湯に触れて、じんわりと広がった。体がびっくりしないようにゆっくりと慎重に沈んでいく。肩までお湯に浸かった時、何とも言えない気持ちのよさがやってきて、思わず、ふぅ〜、とお父さんみたいな声が出た。


 なんだか楽しかった。いつもダメって言われることをやるのはなんで楽しいんだろう。でも同時に、なんだこんなもんか、って得意げな私も居て、一人でニヤニヤする。

 でもやっぱり体を洗わないで入ったせいか、体が痒い。意味もなく我慢していたけど、ついに耐え切れなくなって、肩口に爪を立ててしまった。


 消しカスが出てきた。爪で引っ?いた部分から細長く丸まったカスみたいなものが。それは消しゴムで文字を消した時に出てくるゴミに似ていて、思わずじっと見つめる。


「え」


 声が聞こえた事にびっくりして、それが自分の声だったことにまたびっくりした。


「え、え、なんで」


 なんで自分の体から消しカスが出てくるんだろう。困惑と驚愕と、少しの喜びの混ざった気持ちが胸に広がる。後にそれが消しカスなんかじゃなく、ただの皮膚から剥がれ落ちた垢だと知ったけれど、その時の私にとってそれは紛れもなく消しカスだった。

 私は消しゴムだったんだ。




 慌てて体を洗って、洗面所に出る。火照った体にはちょっと寒かった。髪を乾かすのももどかしくて、適当に拭いてバスタオルを羽織って良しとする。洗面所のちょうど正面に部屋があって、それが私たちの部屋だった。


「お兄ちゃん」


 扉を開けても全開にできない。すぐそばの二段ベッドに引っかかるからだ。扉の正面の位置にテレビがあって、その正面、部屋の中央に兄は居た。リクライニングソファに腰かけて本を読んでいる。座り方がかなりだらしない。


 慌てて部屋に入ってきた私に対して、兄は読んでいる本から顔を上げもしない。ソファに体を預けて自分の世界を作っている。ありていに言って邪魔すんなって意思を感じる。それでも私はそれをわざと無視してもう一度、こんどはさっきより強めに呼びかける。


「お兄ちゃん」


 兄はいかにもうっとおしそうな様子で顔を上げた。


「あー、電波が悪い。会話は難しそうだ。諦めてテレビでも見てろ」

「電波が悪いのにテレビは見られるの?」

「いいか、人と人の間には特異な周波数が飛んでいて、それが相手の表情や声を認識させているんだ。この周波数が悪い時は何を言ってもでたらめに翻訳されてしまう。例えばお前がありがとう、と言うとそれが俺にはマンソンって聞こえてしまうんだ。だから電波が悪い時は極力喋らない方がいい。わかるな?」

「いや、わかんないよ」

「え? 会砂利水魚?」

「喧嘩したいってことね」

「お前ちょっと短気すぎね?」


 そう言うとまた本に目を落とす。


「なんの本読んでるの」


 私は一度相手の土俵に立つことで話をしやすくする戦法をとる。


「『円周率1000000桁表』」


 明らかに説明不足なのは分かっているくせに気づいていないふりをする。このまま会話を打ち切ろうったってそうはいかない。


「円周率?」

「3.14から始まり、永遠に続く数字だ。日本では主に中学生男子の間で人気が高いことで有名だな」


 そう言って本を傾けて、私に頁を見せてくれる。中にはひたすらに延々と数字が並んでいた。


「それの1000000桁表? 面白いの、それ」

「別に面白くはないな」

「ふーん、だろうね」


 また黙り込む。この男、本当に会話をするつもりが無いようだ。こうなってしまっては兄の気が変わらない限り無理だろう。私はせっかくの大発見を言えなくて、なんともいえないさみしさに包まれた。


 兄は今年で高校一年生になる。私とは結構年の離れた兄妹だ。背は高くも低くもなく、特別ガリガリでもマッチョでもない。強いて言うなら色白なことくらいだ。まあ、これは単に家に居ることが多いからだけど。眼鏡を掛けていて、なんとなく知的に見えないこともないけれど、私はそれが見掛け倒しなことを知っている。本人はあまり気に入っていなくて、外に出る時にはコンタクトレンズを使っている。でも私はメガネの兄の方が好きだ。


 見た目が悪いわけではないのに、女っ気が全くない。モテないというよりも興味がないんだろうな、と私は思ってる。

 性格はこの通りで、私と話すときは大抵適当にペラペラと話して相手にしてくれない。友達と話すときもこうなのかな、だったらちょっと心配だ。


 私たちは周りに仲のいい兄妹だとよく言われる。この部屋も兄妹二人で使っていて、家族内では「こどものへや」なんて呼んでる。でも、どうだろう、私は兄のことがそんなに好きなんだろうか。なんとも言えない。好きな時もあるし、嫌いな時もある。今は嫌いな時の兄だ。


「はあ」


 部屋を出る時にこれ見よがしにため息を吐く。ちょっぴりの抵抗のつもりだったけど、自分で思っていたよりも深刻そうなのが出た。


「円周率は人生に似ている」

「え?」


 部屋を出ようとしていた体を振り向ける。相変わらず、本に目を落とした兄がいるだけだ。その口がまた開いた。


「円周率はな、人生に似ているんだよ」


 そこで一度息を吸い込んで、また一息に話し出す。


「本当はどこまでも続くのに、終わるときは余韻も何も全くない。しかも勝手に他人に断ち切られることもある。ほら、人生と一緒だ。特に、空しいところが」


 突然の話に言葉が口から出てこない。なんて言えばいいんだろう。でも、ソファの上の兄が無表情なのが気に食わなくて、それだけで否定の台詞を口にした。


「でも人はそれぞれ違う生き方をしてるよ。円周率みたいに、同じ数字が並んだりしない」


 そこで兄はふっと笑って、


「そっか、そうかもな」


 と顔を伏せ、本を閉じた。


 私と兄の日常はこんな風に回っている。中身があるんだかないんだか分からない会話を繰り返して、お互いの距離を測っている。でも多分、兄は私に外でのことは言わないし、それは私も同じだ。こんな兄妹でもやっぱり仲がいいのかな、と思ってしまう。

 このあと私たちは疎遠になる。でもそれは多分、普通のことだ。特別なことは、何もない。



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