(5)
二階のテラスから北国の柔らかな太陽の光が差し込む。ゆらゆらと揺らぎながら、部屋の中に一条の光が冷たい氷の槍のように貫き通る。白い切っ先が白いつま先に当たる。
白を基調にした部屋に、薄い織りの絹でしたてたシャツを身につけた男が一人。
「イヴリーン……」
凛とした鈴の声。
白い豹の毛皮を敷いたカウチの上にイヴリーンは座り、前に立つ人を見つめている。手を組み、じっとその人を見上げる。白い服を着たその人は、薄いベールを頭から外す。小さなパールのついた手袋をはめた手を、イヴリーンの頬に当てる。イヴリーンはその手を取り、引いた。ストンと、倒れるようにその人はイヴリーンの横に座りこむ。その細い顎を、イヴリーンは指でなぞる。
「ミルファ……」
ミルファという金髪の女は薄くほほ笑み、じっとイヴリーンの瞳を見つめる。イヴリーンは笑わない。むっつりとしたまま、指先でミルファの顔をなぞる。
「もういい……やめろ……」
見る間に金髪が濃い茶色の髪へと変化していく。
「でも……あんたはこのぼくを覚えてないから、あんたの覚えてるミルファになるしかないじゃないか……」
「……おまえがなぜミルファを知っているかもすべて聞いた。叔父のせいで彼女が死んだことも……だが、おまえでは代わりになれぬ。わたしはおまえでなく彼女を選ぶべきだった。わたしがドラゴンと合一することで死んでしまうと知られたくなかったのかもしれぬ……
「ショウ……おまえがミルファに化けるのは、わたしのためか? それとも自分のためなのか? 体が恋しいだけなら抱いてやろう。だが、わたしを慰めるためならやめてくれ……もうおらぬものを偲んでも仕方あるまい……わたしがおまえを傷つけそのために拘束されているならば、死ぬまでここにいて、おまえに償おう……もしも、わたしが自由ならば、わたしはここを出ていきたい」
震える声で栗色の髪の男は答える。確かに泣いている。
「ぼくにはどうすることもできない。あんたが行きたいなら行かせてあげるしかない。でも行かせたくない。
「ぼくにはあんたしかいない。あんたがぼくが生きてきた理由だもの。ぼくが七百年間生きてこれた理由だから……でもあんたがいやなら、ぼくはあんたの言う通りにしたい。
「頭がおかしくなりそうだよ……あんたといるときだけが本当にぼくは安心できた。どこかが切れそうになって……だけどあんたに会えた。ぼくはあんたの魂になりたい。あんたがぼくを置いて言ってから、ずっとあんたはぼくの魂だった。限りなくあんたはぼくと一体だった。一体だと思った……体を置いていったあんたを、ここで七百年間待ったんだよ。あのとき、あんたはぼくを置いていかないって言った。あんたがいなくなってしまったら、ぼくは崩れてしまう。本当に狂気の神になっちまう」
ショウはイヴリーンの腕に上半身ごとすがりつく。
「離れることができない。あんたが行ってしまうなら、早く済ませてしまわないといけないことがあるんだ。それがすんでからじゃだめなの? それがすんでからなら、あんたはどこに行ってもいい。ぼくを必要としてくれなくてもいい。ぼくを嫌いになってもいい。そしたらぼくには死か狂気しかないから……それしかないから……」
追い詰められた声でショウはうなった。こうべを垂れ、イヴリーンの胸をかきむしる。どうすることもできず、イヴリーンは無表情にそれを見下ろすだけだった。おそらく自分より年上の、自分より一層幼い顔つきをしたその男を。幼い顔が涙に濡れ、無防備にイヴリーンを見上げる。
「まるで仔犬のようだな……」
「あのときもそう言った……あんたは」
イヴリーンの胸に顔を押し付ける。
「ぼくは変わった……この姿は借り物になったんだ。もう仔犬と呼ばれるぼくじゃない……あんただけに従順な子どもじゃなくなった。戻れなくなった。あんたがぼくを置いていったときに、ぼくは変わってしまった。どうしたらいいのか、わからないよ。すべてをあんたに預けた時から、あんただけがぼくの神だ」
白き子は割れた水晶球を持って、吹き抜けの箱庭の大理石でできた椅子に座り、それを眺めていた。どうやっても二つをくっつけることはできない。球状でないと、白き子にはその中に映る虚像を読み取ることができない。
それだけではない。
この水晶球はショウリーンから下されたもの。
白き子が大神官の間にはじめてやって来た時から、二階の締め切られた白い部屋に眠る男。その男が二年前に眠りから目覚めた時に、ショウリーンは白き子に時見の水晶球を与えたのだ。
幼い時、白き子をショウリーンは二階に連れて行き、死んだように眠る男の褥に立たせた。
「よくごらんよ、この人はね、もう七百年も眠り続けてるんだよ。永い永い眠りなのだ。魂が抜けているから、この人は半分死んでいるようなものなんだよ。この人はね、わたしの命さ……おまえもよく覚えておくんだ。わたしなどより、この人の方が大切なことを」
男のそばにいるとき、ショウリーンは白き子にやさしかった。
割れた水晶面はいくつもの小さな崩れた幻影を浮かべ、陽の光にちらちらと輝く。
「わたしにならできるが……?」
不意に二階のテラスから声がかけられる。ハッとして、白き子は見上げる。イヴリーンは手すりに手をかけ、見下ろしている。すぐに頭を引っ込め、しばらくして内苑に通ずる扉が開き、イヴリーンは白き子のそばに立った。
「貸してごらん」
白き子は割れた水晶球を彼に手渡す。水晶球を受け取り、イヴリーンは二つを合わせ、割れ目に沿って指を滑らす。ルーンでもってその傷を縫い合わす。魔力は割れ目の奥までしみこんでいき、次の瞬間にはもとの美しい水晶球に戻っていた。
「ドラゴンの固いうろこが割れてしまったときに使う、癒しのルーンだ」
優しく、イヴリーンは白き子にほほ笑んだ。白き子は水晶球を受け取り言った。
「なぜ、その笑みをあの方に向けてくださらないのですか……?」
一瞬、イヴリーンは白き子の真剣な瞳を見つめる。すぐに目を反らす。
「ほほ笑んで見せてどうなるというのだ。それだけでは効かぬだろうが……そなたが一番よく知っておるのではないのか?」
白き子は二年前に思いをはせる。
目の前の男が目覚めるのを待ち続けたショウリーンは、その時を迎えて、言葉にならぬほどに絶望した。例え、そのことを言葉にしていなかったとしても、片時も離れずにそばにいた白き子にはさっせた。
イヴリーンは忘れていた。ショウリーンのことだけを。ショウリーンとの出会い、触れ合い、絆。すべて。
彼はミルファを覚えていた。目覚めて最初に見たショウリーンを死んだ婚約者と間違えた。そばで見ていた白き子は、男がショウリーンに殺されると思った。しかし、ショウリーンは一瞬だけ眉をゆがめ、元の穏やかな顔に戻り、男に告げた。
「いいえ……あなたは野望を達せられ、再び人に戻ったのです」
「金竜は……死んだのか……」
イヴリーンはそれだけ言うと目を閉じた。ショウリーンは音もなく立ち上がると、部屋を出て行った。
白き子はあの時のようにイヴリーンの白い端正な面を見つめる。初めて見た鋭い黄緑色の瞳。まるでドラゴンのような冷酷な色を帯びている。その目が、じっと白き子を覗きこみ、ショウリーンがそれだけで満足するかどうか問うてくる。
白き子は目をつむりうつむく。何か答えを探るように眉をしかめて。