(7)
「ほぉ……ご苦労なことじゃった。ゆうるりと休まれよ。最後にもう一つだけわしから課題がある。それはお主がよく休まれてからじゃ」と、パフュームに用意させた食事をアファルトルにふるまった。
一晩ぐっすりと眠り、アファルトルは目覚めると、早速老ブラウニーに会いに行った。
「気が気でないようじゃな。ま、よろしい。最後の課題をお主に与えよう。お主が持って帰られた木片を、お主の求める形に変え、そして、お主の本当に望む言葉をルーン文字によって書き添えよ。しかし、木片はひとつのみ。作り直しは許されん。よっく選び抜くことじゃな」
アファルトルは絶句し、「……それを私一人に決めよと申されるのか」
「そうじゃ」
老ブラウニーは目を細め、アファルトルを見つめた。
「この課題はうがって申せば、至極簡単じゃ。お主の運命の歯車のひとつに選ばれたというだけのことなのじゃよ。ひとつの大きな流れにお主は飲み込まれたのじゃ。お主の統括するラ・ルマリアンが……お主の心がどうであろうと、国はお主に従って行くのみ。重荷と申すか? しかし、お主は単身でここに赴いておる。
お主の心はすでに答えを見出しておるはず……その瞳に曇りなくば、自ずと知り得る。わしの言うたことを忘れておらなんだら、きっと悟るはずじゃ」
アファルトルは困り果てた体で木片を携え、老ブラウニーの前から去った。
アファルトルはいつの間にか一昨日に訪れた泉のほとりに佇んでいた。ごろりとやわらかな草の上に横たわり、梢に遮られた空を見つめた。二日前に老ブラウニーが自分にいった言葉を反芻する。
(慈悲や寛大を必要とされておるのじゃ)
果たして自分が敵を前にして寛大でいられようか。慈悲を垂れることができるであろうか。アファルトルは疑問に思う。今の自分にあの大神官を許す気持ちなどさらさらなかった。
アファルトルは死ぬ覚悟でいる。直系の皇族は自分が最後である。敗北したとしてもおめおめ生き長らえるつもりはなかった。木片を握った手をなげやりに放り出す。パシャンと泉の淵に木片の端がついた。アファルトルはそんなことも気にせずに、あれこれと考えていた。目をつぶり考えこんでいるうちに、彼女は静かな寝息を立てていた。
眠りの縁の中で誰かが優しく彼女の髪を手梳いている感触がする。心地よく、アファルトルは深く深く夢のなかにまどろみ始めた。しかし、安眠のなかで彼女は不審を覚え、うつらうつらと目を開けた。泉から身を乗り出すようにして、一人の女性がアファルトルを見つめている。とても美しい、泉の色をした女性。豊かなエメラルド色の髪が同じ色をした彼女の肩や腰にふさふさと掛かり、おおきなくるくるとしたエメラルド色の瞳が優しげにアファルトルを見つめていた。そのエメラルドの唇が開く。
「アパ……大きくなりましたね……本当にお父様にそっくり」
アファルトルはガバリと起き上がり、身構えた。
「アパ……疑うのも無理はありません。あなたはまたほんの子供ですもの……」女は悲しげに微笑む。
「は……母上?」アファルトルは驚愕の面持ちで囁いた。
母と呼ばれた女は小首を傾げて、優しく、「その残像。この世に残された我が子を慕う心の残滓。心配で我が子の行末を危ぶんだ天に行きそこねた母の心の名残。アパ、よく……無事にここまで大きくなられました。母も父も、もうお前とは語り合えぬところに行ってしまいました。本当に本当につらい思いをさせますね……」
「母上……」アファルトルは左右に首を振る。「そのようなことは……つらいなど……」
「涙を我慢せずともよろしいのですよ」リュリスはそっとその手をアファルトルの頬に寄せる。「お前はたった十五なのですから。無理をなさらなくともよいのですよ。泣きたいときに泣けばよいのです。お前の心が少しずつ少しずつひび割れていくのを見るのは一番つらいのですから……」
その母を伝い、アファルルの涙がほとばしる。
「母はいつまでもお前の傍におります。死ぬなど……母を悲しませないで。生きていなさい。生きていれば必ずなせることもありましょう。あらゆることはいつか潰えるもの……この母が死んだのもお父上が亡くなられたのも運命なのです」
「それならば! わたしは運命を恨みます! 母上を父上を奪った死という運命を許しませぬ。母上……! わたしはあの頃に戻りたい! もう一度母上と父上とご一緒にあの離宮で暮らしたい!」アファルトルは母の腕にしがみついた。
水色の女は悲しげに首を振り、慈悲にうるむ瞳でアファルトルを見つめた。
「運命とはこういうもの……死や生の運命には抗えないもの……私達、人間ごときではどうにもならぬもの。それならば、あなたは今生きている運命に抗いなさい。生きるために抗いなさい。新しい人生のために打ち破りなさい。それを消滅させることができなくとも、元の正しき形に戻すことはできるはずです。
アパ……母はいつも見守っています。母はお前とともにあります……」
パシャンと水は弾けて、辺りに散らばった。リュリスの姿は元の水に還っていた。泉の底には木片が沈んでいた。アファルトルは呆然と水底を覗く。泣きはらした顔が水面に映る。一瞬、夢だったのだろうかと思う。しかし、いつまでも母の言霊は耳に残っている。アファルトルは木片を拾い上げ、その木肌を擦る。水に浸かっていたとはいえ、硬く滑らかである。彼女はポーチからナイフを取り出し、さっくりと刃を当てた。
彼女は時間がたつのも忘れて彫り続ける。アファルトルは忘れられぬ母の微笑みを刻み込む。母の立身像の胸もとに、アファルトルは母の言葉をルーン文字で刻んだ。
(正しき道にもどれ)もしくは(元の姿に)
そして、杖を手に、彼女は老ブラウニーの元に戻った。
老ブラウニーは満足そうに肩をゆらすと、
「よくやり通された。すでに最初で最後の難関をお主は越えられた。
さて、お主はここで長い時間を過ごされた。すでに察しておられるじゃろうが、ここと外界とは時間の流れがだいぶちごうとる。その間にもすでにお主の第二の試練は生じておる。やりこなせますかな?」
「やるしかないのでしょう? わたしはどんなことがあろうとも、やってのけまする」アファルトルは静かに微笑む。
老ブラウニーは目を細め、
「次なる試練は友を得ることじゃ。これはもちろんお主への試練でもあるが、今ひと方の試練でもある。今度お主と立ち向かうは人の子じゃ。そやつはラスグーからやってくる男じゃ。気難しさはお主の何倍もあるじゃろう。もうすでにここから東の森に入ってきておる。そやつは契約者ではなく、わしらとは血の友じゃ。今からお主はそやつを仲間にひきいれねばならん。お主の関わった運命はそういうルールを決めおった。その駒がなければ、ゴールまでたどり着けんぞ。すでにお主は妖精魔法のなかでも最強の破邪の杖を手に入れておる。
「さぁ、行きなされ。第二の試練は始まってるぞ!」
老ブラウニーはその手を東へと差し伸ばす。アファルトルは確信を得た笑みを浮かべると、その男に会うために、ブラウニー一族に別れを告げた。




