(4)
目を覚ますとアファルトルは刺のない茨の室ななかに横たわっていた。
(うさぎのこのようなものなのかな)と敷き詰めた金色のわらの匂いを嗅ぎながら、ぼんやりと思う。こんなにも無防備に眠り、目を覚ましたのは久しぶりだった。母が死んで以来だろうか。
マーリンのもとで暮らす日々、次の死体は自分ではないかとおののいていた。マーリンはたしかに忠実だが、大神官の近親者でもあった。しかし、唯一の側近。まわりにはなにを考えているかわからぬ大人ばかり。
大神官と口を利いたことはなかったが、白き子とはよく話した。宗教のこと、学問のこと。彼は不思議なほど静謐な男だった。よく言ってやったものだ。
「己をしっているのならば、早うここより出て行くのだ」と。
マーリンはといえば、まるで自分の影にような男だった。表裏一体というのか……アファルトルにとって、信じられる人間はいなかった。マーリンとて例外ではなかった。そばに居て命の保証をしてくれるものもいない。噛み付くような憎しみが彼女の生きる糧だった。
それなのに、今は、誰も与えてくれなかったはずの信頼感が心を満たしている。魂の奥から、安堵の溜息が漏れる。心地よく、母に膝枕してもらったような安らぎがあった。その目から思いもよらぬ涙が流れ落ちる。
「母上……」
アファルトルはつぶやく。そして、ごしごしと袖口で涙を拭い、四つん這いになってその室から這い出る。
頭上を見たことのない鳥が飛び去る。乙女の歌声のような透き通った鳴き声が、あたりに響く。
アファルトルは、まるでたった今生まれでた赤子のような気持ちで、ふらふらと辺りを歩き始めた。
気づけば、周囲には人間に対する恐れを知らぬ動物たちが、それぞれの生活を営んでいる。下萌えの柔らかい草をはんでいるうさぎは、アファルトルにちらりと一瞥をくれただけで逃げようともしない。腰ほどの茂みから、やや小型の鹿が顔を出し、アファルトルを好奇心いっぱいの瞳で見つめる。
安息が、アファルトルを取り巻いていた。彼女は幼い十五の少女の顔を取り戻していた。
軽やかに歩を進め、森の奥へ奥へと入っていく。柔らかい肢体をもつ木々がしなやかにアファルトルを避け、優しく枝葉でもって、彼女の頬を撫でる。まるで優雅な淑女や紳士の群れの中を歓待されつつ彷徨しているようであった。
いくら歩いて森は広く、その林は尽きることがない。アファルトルの頬は紅潮とし、疲れも知らず森の探索を続ける。
そして、彼女は泉のある場所に出た。泉はキラキラとエメラルドか深いコバルトブルーに輝き、その水鏡は何ものも映し出さぬほどに透明だった。アファルトルは水面に顔を寄せ、唇を付けた。水は喉を潤し、なんとも言えぬ味わいが口の中に広がった。まるでしぼりたてのぶどうで醸しだした、ワインのように馨しい。
泉はそんなに大きくない。アファルトルは着詰めだった服を脱ぎ、泉に身を沈めた。泉はアファルトルを拒まず、ゆるやかにたゆたうのみ。そして静かにアファルトルは泉から上がる。
泉の水がその豊かな金髪から、彼女の引き締まった細い顎から、みめよく膨らんだ乳房から、滑らかにくびれた腰を伝い、長くしなやかな四肢から伝い降りる。彼女は誠に美しかった。彼女の美は追随を許さぬほどに光り輝いている。女であるからということさえもしのぎ、その内なる魂で持って、全身が燦然としている。無垢であり、王者である魂が彼女を何よりも美しく、際立たせていた。母のより優られた血と父の洗練された血とが彼女の容姿を作り上げ、その思いもよらぬ超然とした美に、いたずらにそれを生み出した運命は感嘆の声を漏らす。馨しい泉までもが水面をさざなみ立たせ、彼女の肢体が自分の抱擁から抜け出てしまったことを後悔しているよう。彼女の牝鹿のように引き締まった身体を隠すように、その姿が思いもよらぬ目にさらされることを恐れるように、取り囲む木々は枝を深く垂れる。
そんな周囲の畏敬になんら気づかず、アファルトルは脱ぎ捨てた衣服を取り、身に付けると、思い出したようにきた道を引き返した。
茨の室の近くに戻ってきてみると、すでにパフュームが来ていて待っていてくれた。アファルトルは彼女に連れられて、爺さまと呼ばれる昨日の老ブラウニーの前に出た。小さな老ブラウニーの前にアファルトルはあぐらをかき、どっかと座り込む。老ブラウニーはそれをにこやかに見守る。
「それでは早速お主に課題を与えよう。ごく簡単なものじゃ。お主の求める木片をお主が見つけて持ってくるだけじゃ。さきほど森のなかを歩かれて、どんなものかとくとご覧になったじゃろう。わしらを含め、森の連中はお主を歓迎しておる。決して悪意あるものはおらん。昨日わしの言ったことを覚えておいでかの? 戯言ごときで四角四面になることはない。飄と楽しみながら、課題を消化していきなされ。そら、試練は始まったばかりじゃ」
アファルトルは頷くと、すっくと立ち上がり、再び林の中へ姿を消した。パフュームはその後姿を見送り、心配そうに老ブラウニーを振り返った。
「なぁに……あの方は本当に乗り越えていかねばならん苦難くらい、すでに承知しておるよ。たった五年の孤独でもあの方の魂はなすべきことを忘れてはおらなんだよ」
老ブラウニーは目を細めてささやくように、パフュームに言い聞かせた。




