(1)
ゆっくりと視線が泳ぐ。ゆっくりと。
子どもは静かに息を殺して、自分の番を待っていた。子どもの隣にもまた、別の子どもが並んでいる。その子どもを含めて全部で五人。皆、白い髪と赤い目をしている。肌着も付けず、裸体で冷たい大理石の床の上に立っていた。
緊張に顔がゆがみ、膝ががくがくと震えている。しかし、まっすぐ前を見つめている。どんなに恐ろしくとも、うつむいたりはしない。これは選ばれるための最低条件であった。
子どもらの前を一人の大人がゆっくりと値踏みするように何度も行ったり来たりしている。時々、子どもの顎をつかんでまじまじと覗きこみ、子どもらの体に手袋をはめた手を当て、その形を確かめる。子どもの抜けるように白い肌が、寒さと怯えに青白く染められ、その皮下の血管が青く浮き出ているのが見える。おとなは人差し指をその血管に当て、なぞる。
「これに決めた」
低い声がそのフードの中から洩れた。
選ばれたその子どもの顔に不安があふれる。これからどうなるのかわからぬ自分の身の上を危ぶんで。他の子どもは安どに胸をなでおろした。選ばれなかった子どもは親元に帰され、二度と神殿という名の牢獄に上がることはない。
選択者は不安に身をこわばらせている子どもの手を取った。子どもは茫然とその人を見上げる。これから先、ずっと見つめ続けることになるであろうその男を。
子どもの体はやせ細り、子ども特有のふっくらとした頬はそげ落ち、腕は枯れ木のよう。五人の子どもらの中で一番みすぼらしい子どもであった。
「大神官様、お決まりに」
年とった僧侶が柱の陰から、ひざまずいたまま現れる。
大神官と呼ばれた男は、子どもの手を引いて、柱の影に控えていた僧侶に渡した。子どもはこの時初めてうつむいた。
磨き抜かれた大理石の床は、まるで深海の中に敷かれた一枚のガラス板のようだった。石柱が、一枚の限界線を突き抜け、小さな子どもの目には、その柱が天界から冥界に降ろされた通路のように思えた。痩せこけたもう一人の自分を見つめて、その目の前の大神官の影に視線を移す。フードの中の顔は同じくうつむいていて、燃え立つ金色の瞳が子どもを見ていた。
「一カ月たったら、わたしのところに連れてくるように」
大神官はさっと白いローブを翻し、ドームから去っていった。
円形状の、暗いドームに扉は一つきり。その扉から子どもらはこの世に出ていくのだ。一度出たものはここに二度と戻ってこない。ここは僧侶に、神の子になるための場所。
白い神の子どもは、唯一ある扉から出ていった。
一カ月たち、子どもは見違えるように変わった。痩せこけた五歳の子どもが、生まれながらの気品を備え、選ばれたにふさわしく、美しく変貌していた。子どもの世話を任され、そのように世話した僧侶は、一ヶ月間厳しくしつけた自分がそれを見出したと勘違いしているようだった。大神官から褒美が下されることを期待しつつ、子どもの背中を押しながら、大神官の自室に参上した。
「ふむ」
子どもを目の前にした大神官は、満足のため息を漏らす。すべての物事が思っていた通りに運んだとでも言うように。
子どもは部屋に取り残され、ポツンと大神官の前にたたずむ。
大神官は、眼だけが見える形のフードをふかぶかとかぶっている。彼は人前ではこのフードを外したことが一度もなかった。大神官の位に一番近い、『水』『土』『火』『木』の僧正でさえ、彼の素顔を見たことすらない。
初めて二人きりとなり、大神官はそのフードを脱いだ。
子どもの無感動な赤い瞳が、大神官の異様に輝く金色の瞳をじっと見つめる。
「おいで」
大神官は手を伸ばして、子どもにひざに座るようにしめす。子どもその通りにすると、大神官は白い手袋をはずし、子どもの白く光る髪を優しくなでつける。
「どんなことを知った」
子どもは大神官の顔を見つめた。
金髪の青年。猫のような金色の瞳。大神官は金色の髪を背中の中ほどまで伸ばしている。子どもが今まで見てきた神殿の僧侶はみんな剃髪だった。
「髪をそることです」
「それは忘れなさい。わたしとおまえには関係がない」
なぜ関係がないのか、子どもにはわからない。しかし、この一カ月のうちに無条件で服従する習慣が子どもには植え付けられていた。子どもは大神官の言葉にうなづいた。
「おまえは今日からわたしと寝起きし、わたしを学んでいく。それがどういうことかわかるか?」
「わかりません……」
「おまえは次期神官になるのだ。
「それまではわたしの言う通りにしなさい。わたしがおまえの心になるのだ」
「はい、大神官様」
子どもは言われる言葉をの意味をあまり理解せず、ただそう答えた。
子どもは『白き子』と名付けられた。
白き子は孤児院で育てられた子どもだった。物心つくと他の子どもたち同様に働かされた。孤児院での雑多の諸事や、かご編みなどの内職から、ちょっとした職人めいたことをさせられた。売りに出るのは子どもたちで、もちろん収入は院長の懐へ。子どもたちが安心していられるのは眠っている時だけだった。食事もろくなものを与えてもらえない。他の子どもの食べ物を力で奪い取る子どももいる。奪わなければ生きていけない世界。施設の子どもたちすべてがその狭い世界しか知らなかった。
白き子も例外でなく、その幼い心は自分と外界を遮断することで傷つくまいとした。一言も口をきかなくなり、表情や感情を面に表さなくなった。
しかし、ある日、白き子は院長に風呂に入れられた。青白い肌を生まれて時初めて布でごしごしこすられた。髪が抜けるほど頭を洗われ、強烈な臭いのする香水を振りかけられて、孤児院一きれいな服を着せられた。物陰から見ていた孤児院の子どもらに「どこいくの?」と問われても、答えるすべもない。
表に出ると一人の僧侶がいて、白き子の手を取った。院長は「おまえが選ばれれば」と笑った。お金を数えているときの顔だと、白き子は思った。
物売り以外で大通りに出たのは初めてだった。見たことのない人たち、見たことのない建物。白き子はこの時初めて世界に生まれ出た気持がした。手を引く大人は一言も話しかけてくれない。ずいぶん歩いたように感じた。白き子にとって、神殿の門は巨大な生き物の開いた口に見える。恐ろしく大きな何かが寝そべって、白き子が口の中に入ってくるのを待っている。
そこがどこなのか、一ヶ月経って白き子にはわかった。選ばれてからいろいろなことを知った。神殿がどういうつくりになっているのかも学んだ。
あの選別の後、大神官からだと薬を飲まされた。次の日になると出なかった声が出るようになった。毎日風呂に入れられ、見たこともないようなごちそうが食事に出された。
孤児院にいたころとは何もかも変ってしまった。しかし自由になったわけではない。また何か違うものに囚われてしまったように感じた。