第五章 終章
第五章
〔1〕三月一五日
眠っていた私の躰を、誰かが揺すっている。私は、重い体を起こし上げた。私を起こしたは沙弥だった。彼女は、ただ事ではないかと思わせるほどに神妙な形相をしていた。何事かと思い、私は沙弥に訊ねた。沙弥は、時計の針と、私の顔を交互に見据えながら、皐月が小屋に戻って来ないと言った。私はその言葉で完全に目が醒めた。詳しく事情を訊ねると、今朝の八時過ぎに皐月は風邪で寝込んでいる輝光に代わって風穴の中を確認しに行ったらしい。だが、午前九時を過ぎたにも関わらず帰ってこない。間もなくすれば、風穴を解放しなければならないというのに、どうすれば良いのか。混乱した沙弥は焦燥感に苛まれて私を起こしたというのだ。第一層と第二層の安全確認など、十分もあれば出来る筈だ。中で何かあったに違いない。そう思ったが、今にも崩れ落ちてしまいそうな沙弥の顔付きを見ていると、とても、そのような不吉な言葉を言えない。私は、呑気に寝息を立てる月乃を起こし、彼女に一切の事情を話し終えた。私と月乃は互いに顔を見合わせ、小さく顎を引く。沙弥に小屋の中で待つように伝えた私達は、足早に風穴に向かった。
「まさか、落石じゃないわよね?」
「分からない。けど、厭な予感がする」
――厭な予感は的中した。
風穴内で血の付着した岩石を発見したのである。私は岩肌についている血を人差し指で採取する。まだ生暖かい事から推測すると、その血が皐月のものである事は間違いないだろう。
「まだ間に合うかも」
月乃は呟いた。
「月乃。分かっているのか。これは事故なんかじゃない。よく考えてみろ。仮に沙弥のお母さんが落石の被害にあったとしてもだ――軽傷なら、歩いて出て来れる筈だし、重傷なら、この場で倒れている筈だ。見ろ。彼女の姿なんて、どこにもない。きっと誰かがまた、神を気取ったんだ」
「うるさいわね」
「僕は真実を言っただけだ」
月乃は取り乱しているようだった。弾かれたように「うるさい!」と、もう一度叫んだ。月乃の声がけたたましく洞窟内に響いた。
激しく息を漏らし、今にも泣きだしそうに瞳が潤んでいた。また誰かを失う哀しみ――彼女は一体、誰に感情移入しているのだろう。過去の自分? それとも、沙弥か。
「どうして、貴方はそうも冷静でいられるの。少しぐらい取乱したっていいじゃない。どうしてそんなに冷たいのよ。私だって分かってるわよ。あの娘の母親が、何者かに襲われて、この風穴内のどこかで眠っている事ぐらい、簡単に想像つくわよ。また瑠夏の様な犠牲者が増えたってことぐらい、分かるわよ!」
私は月乃に掛ける言葉が見つからない。
「――君はここにいろ。僕は彼女を探してくる」
「待ちなさいよ。まだ犯人がここにいるかもしれないのに、危険だわ」
今度は私が取り乱す番だった。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ? このままここで揉めたところで何も前に進まないじゃないか。待っているだけじゃ何も始まらないんだよ。万が一にもだ。沙弥のお母さんがまだ生きていたらどうするんだ。僕達も人殺しと何等変わりないんだ。僅かな可能性が残っている限り、僕達は進むしかない」
月乃は、静かになった。
懐中電灯の灯りが、石灰岩の上に滴り落ちた血痕を照らし出している。私達はその後を追い、洞窟内の奥へ進んだが、血痕は地底湖の前で途切れていたのだった。ゆらゆらと蠢く水面。水面に反射する自分自身の顔を私達は茫然と見据えていた。
「瑠夏もきっとこうやって消えたんだ」
「――だけど、どうして、あの娘のお母さんまで。次に消えるのは私達の筈なのに」
確かに狂しい。これでは、今までに犯人が築き上げてきた筋が壊れてしまうではないか。元々この村の住人であった筈の皐月が死んでしまったのだから。
「月乃、沙弥のお父さんは昨日から風邪で眠っている。この意味が分かるか?」
「どういう意味よ」
「ゲートは開いていた。そして、昨日の夜から小屋の中で僕達二人は眠っていたんだ。――その時、誰かが小屋に侵入してきたら、僕達は気づいていた筈だ」
「――という事は、ゲートを開ける事が出来る人間が、あの娘のお母さんを殺した犯人という事?」
「そうだ。要するに、僕、沙弥、月乃、そして、沙弥のお父さん。だけど、さっきも言った通り、昨日の夜に誰かが侵入していれば、僕達は気づいていた筈。――金庫の鍵を開けた犯人は、最初から小屋の中に居た人物かもしれない。要するに、僕達と行動を共にしていた人間。僕達が眠ったのを確認した犯人は、金庫のダイヤルを回し、そっと小屋から抜け出した。そして、殺人を終わらせた犯人は、僕達を起こし、皐月が居なくなった事を伝える。そして、僕達が風穴に来ている間にこっそりと金庫に鍵を返す事が出来る人物――」
「まさか」
「僕だってこんな筋を考えるのは苦しい。けれど、そう考えるしか――」
「冬籐沙弥が犯人だと言うの? そんなのあり得ない。確かに今の事件から考えると、あの娘が犯人だと推測できるかもしれない。けど、彼女が金庫の番号を知ったのはついこの間じゃない」
そうなのだ。
二十数年前から起こった神の逆鱗をあの天然な沙弥が演出出来る可能性は余りにも低い。しかも死んだのは彼女の母親だ。あの華奢な腕で、岩石を持ち上げ、実の母親を殴り殺したとはどうも合点がいかないが、そう考えると自然と筋が通るものだから、そう考えずにはいられなかったのだ。
「――そう僕達に推理させて、惑わせる。――それが、犯人の真の狙いかもしれないな」
「どういう事」
「はっきりとした事は分からない。今の状況から、考えると、沙弥がこの事件に関与している可能性は高いのかもしれない。僕達に出来るのはここまでか・・・…」
「あの娘の父親が犯人だって可能性だってある。だって、彼はここの責任者なんでしょ。合い鍵の一つや二つ持っていても不自然じゃないわ」
「合鍵――」
私は絶句した。
確かに、その合い鍵があれば、皐月を襲う事が出来たのは輝光という可能性もある。細く華奢な女の沙弥が犯人より、鬼のような風貌の輝光が犯人という方が納得できる。
どちらにしろ、神の名を弄ぶ人間が、この事件を、警察沙汰にするとはどうしても思えない。なら、私が通報するか。いや、待て。ここで警察を呼んだところで、どうなるというのだ。責任者、輝光が墓穴を掘るとは考えにくい。ここで、事件を有耶無耶にしてしまえば、真実は更に闇に葬られてしまうかもしれない。
「月乃、一つだけ確認していいか?」
「え、何?」
「神谷瑠夏が、片親って言うのは間違いないんだな?」
「うん。でも、それがどうかしたの?」
「――分かった事があるんだ」
「分かった事? もしかして、神様の正体?」
「行こう」
確かめるしかない。自分の目で。
〔2〕
私は、輝光を小屋に呼び出し、皐月が消えた旨を出来るだけ詳しく話した。話しを聞いて彼の顔色は見る見ると歪んでいき、何か恐ろしい化け物でも見てしまったかの様に虚空に視線を漂わせていた。
つい先日まで、村人達以外は死なないという話を聞いていたからこそ、私達は、ここに居座って打開策がないか思考を凝らしていたというのに、これでは、ここに居る意味すら無いではないか。と、輝光に訴えたのだった。
「言った筈だ。――戸籍を移した所で、助かる確証などないとな」
輝光は魂が抜けてしまったかのような口調でそう言った。
「しかし、貴方は大神は他所者しか殺さないとも言った。違いますか?」
沙弥、月乃に席を外すように伝えると、二人はそそくさと小屋の外へ出ていった。
「本当なら、すぐにでも警察を呼ぼうと思ったのですが、ここはやはり、貴方に断りを入れたほうが良いと思いまして。それで、貴方をここに呼んだ」
「余計な気遣いを。何が狙いだ?」
「変な話とは思いませんか? 僕はずっと、考えていたんです。この村に神の怒りを演出して、殺人を犯している輩がいるとね。私も最初はこの村で起こった話を、沙弥や沙弥のお母さん。そして、貴方から聞かされている内に山の大神という存在が本当にいるのではないかと錯覚しました。だけど、今回の沙弥のお母さんの件で、漸く真実が分かりましたよ」
「どういう意味だ? 貴様、私を否定する為にここへ呼んだのか。言っておくがな。皐月が死んだのを貴様はその眼で見たのか? 見たのは石灰岩にこびり付いた血だけだろうに。それだけで妻が死んだというのは少し結論を急ぎ過ぎではないのか? こんな話している間にも皐月は、どこかで死にかけているかもしれないんだぞ。警察と救急車を呼ぶべきだ」
「愛する妻が死にかけているというのに貴方は冷静なんですね」
「何だと?」
一瞬、輝光の表情が曇った様に見えた。
「血はまだ温かかった。色も鮮やかな赤色だった。もしそれが乾いた血痕なら、僕もこうまでしてう誰かを疑う事などしなかったでしょう。第一、沙弥のお母さんが、いきなり消える理由なんてあると思いますか?」
「知らん――」
「皐月さんは、生粋のこの村の住人です。――これは、僕の一、考えに過ぎないのですが――今回の皐月さんの失踪殺人は、今までの事件に関係ないのかもしれません――」
私がそう言った途端、反旗を翻したかのように輝光が身を乗り出し、何だと? と言った。
犯人は沙弥かもしれない――
私はそう言った。私自身、想像もしたくない結末だった。
時間の流れが止まる。輝光は暗い眼で、私の顔を睨みつける。しばらく沈黙が続いた。
「沙弥が、皐月を……」
彼は表情を凍りつかせた。だが、時の流れと共に、彼の顔面を覆っていた氷は溶けていき、やがて、彼は私を嘲笑い始めたのだ。般若の小馬鹿にしたような形相で、笑い始める輝光を見て、今度は私が呆気に取られる番であった。
「何を言い出すかと思えば、馬鹿馬鹿しい。――なら貴様は、あんな華奢な体つきをした沙弥が、神の名を気取って殺人を犯し続けて来たというのか? 愚かだよ。貴様は」
言って、輝光は低く笑った。
「そうは言っていません。恐らく彼女は、何かの歪みで真犯人の正体に気づいてしまった」
輝光の表情はここで再び凍りつく。
「何だと・・・…何を言っているのだ?」
「犯人を庇いたい一心だったのか、皐月さんを殺す動機に目覚めてしまったかは分かりません。けれど、だとすれば余りにも哀しい事実が、沙弥を苦しめていたのかもしれません。そして、彼女は、今朝、決心を塗り固め、実の母親を――岩で」
「止めろ。馬鹿げた妄想話を聞くのはもうこりごりだ。貴様、そういえば小説家と言ったな。分かったぞ。貴様の想像した筋書きが余りにもよく出来たものだから、こうして私に話を持ちかけた訳か。だとすれば本当に貴様は馬鹿者よ。現実と小説の世界の区別もつかぬとは。呆れたものだ」
輝光は鼻で嘲笑した。
「小説家を馬鹿にするのは一向に構いません。しかし、今まで話した事は、事実を踏まえての見解です。フィクションなどではありません。だから、こうやって、貴方と面と向って話をしているわけじゃありませんか。皐月さんを殺せる事が出来るのは、貴方か、沙弥しかいない」
「そして、沙弥の父親である私に話を持ちかけたか。自首でもさせる心算なのかは知らんが、本当に迷惑な奴だ。証拠も持たずに人に疑いをかけるとは、所詮、小説家の思考力と想像力はその程度の様だが、警察のような真似事が赦されると思っているのか」
「いえ。そうは思っていません。私は確信しているのですから」
「馬鹿が。なら、沙弥はなぜ皐月殺しを思いつき、真犯人を庇おうとしているのだ?」
「それは――」
私は一度、口籠った。
――その真犯人が、貴方だからですよ――
私は断言した。若造の顔を、鬼は黙然と睨み続けている。
「――ふざけている。貴様は、何なのだ? 私達一家を侮辱する為にここに来たのか。小説の取材に来たんじゃないのか?」
「そうではありません。ただ、真実を話しているだけです。では、貴方はなぜ今回皐月さんが死ななければならなかったのか、見当がつきますか? 今回、死ぬべき人間は、僕と月乃の二人であった筈です。幸いにも僕達は戸籍を移し、犯人の目標から外れたのかもしれませんが、なぜか事件に深く関与していない彼女が突然の死を遂げた。これは、犯人からのメッセージだと、僕は睨んでいるのです」
「メッセージだと?」
「そう。誰か、真犯人を止めてくれ――私が全ての罪を背負う。だから、もう辞めてくれ。そんな切実な願いが込められているような気さえするのです。馬鹿げた妄想かもしれませんが、どうか最後まで、僕の話を聞いて欲しい」
輝光は言葉を探している様だった。
私は滔々と話を続けた。
「山の大神の怒り――そのような偽りの恐怖で村人をまやかし、貴方の大量殺人は始まった。兼ねてからの狙いを果たす事を思い立った。その狙いを果たす為には、まず下ごしらえのような逸話を作らなければ成らなかった。当時、洞窟内には他府県から大勢の観光客が訪れた。そして、貴方は、その観光客を自殺に見せかけて殺したんです。神の木が伐採されたすぐ直後の事ですから、村人達は、その自殺を、神の呪いとして受け止めた。幻想に心奪われた住人達は、神の怒りと、自殺者の無念を鎮める為にあの慰霊碑を建てた。と同時期に、洞窟内に消えた人々を救出しようという瞑目の下、貴方はプロジェクトを設立した。貴方はまず、他府県やこの村以外の地域から洞窟調査の有識者達を集わせた。そこで、貴方は再び大神の名を借り、次々と他所者を殺害した。
その中に無論、瑠夏も――。神の怒りは未だに続いている。そのようなまやかしで貴方は人々の心を洗脳したんだ。誰もが神の存在を信じて止まない世界を確立した貴方の残された仕事――それが、皐月さん殺しだったのでしょう?」
「確かに面白い筋だ。小説にしたら売れるだろうな」
「ふざけないで下さい。何も知らなかった沙弥を巧みに洗脳し、復讐を果たそうとした癖に」
私は等々、堪忍袋の緒が切れてしまった。
「復讐だと? 馬鹿な。何を言っている?」
「恍ける気ですか? 愚かなのは貴方のほうだ。貴方は狂っている」
「恍けるも何も、私は何も知らない。何を根拠に言っているのかは知らんが、いい加減なデマをほざくのは止せ」
我慢の限界だった。
私は勢いよくテーブルを叩き、苦渋の表情を浮かべる。こんな無慈悲な鬼の為に、沙弥は罪を犯したというのか。私は沙弥の言葉を思い出していた。
数時間前、私達が皐月探しを終え、風穴から小屋に戻ってきた時の事だ。
母親が消えたのを嘆き悲しんだ沙弥は、その後、言った。
――助けて下さい。
そう――言ったのだ。
彼女の哀しい表情が、私のもやもやとした感情を追い払ったのである。
「沙弥は、見てはいけないものを見てしまったそうです。それは、貴方の部屋にあるパソコンの中に保存されている、ある文章だった。そして、何も知らない沙弥は、パソコンの中に鍵の番号が残されているのではないかと睨み、何食わぬ顔で、その中にあるワープロソフトを開いてしまった。そこで――彼女は――」
私が沙弥から聞いたのは、その一節だけであった。彼女は、決して皐月殺しを自供したのではない。彼女の悲哀に満ちた顔が、私に考える余地を与えたのである。
私は居た堪れなくなり、そこで言葉を切った。
輝光は、不気味な嘲笑貌で、私を見ている。
「何だ? 言ってみろ」
「――彼女は、貴方の娘では無かったのですね……」
輝光は、笑った。笑った。黄ばんだ歯を浮かべ、口元に大きな弧を描き、椅子に深く凭れ掛け笑っている。開き直ったかのような彼の形相が、怖ろしい。
「若造が。厚かましい奴だ。そうまでして、私達一家の怨恨に深入りしたいか。いいだろう。もう隠しても無駄の様だからな。貴様の言うとおり、沙弥は、私の実の娘では無かったのだよ」
そこまで言うと、突然、小屋の扉が開いた。
沙弥と月乃が立っている。
すっかり生気を失ったかのような沙弥に対して、月乃が阿修羅のような面持ちで輝光を睨みつけている。
「――聞いていたのか・・・…」
輝光が沙弥に向ってそう言うと、彼女はコクリと頷いた。
「――もう隠すべき事は何もない。復讐は終わったのだ。皐月は死んだ」
扉がバタンと音を立てて閉まった。
「沙弥、お前は皐月と彼女の不倫相手との間に出来た子供だ」
沙弥は無機質な表情を変えぬまま、輝光の話に耳を傾けていた。
〔3〕
「私は、何も知らずに冬籐家の養子として迎えられた。元々私はここの観光客だったのだ。当時、私は単なるミステリースポット好きの会社員をしていた。週末の連休に私ははるばる京都からこの地に足を踏み入れたのだ。未だに出口が見つかっていない不気味な鍾乳洞――何とも心躍るではないか。私は、蒼湖風穴の魅力にすっかり取り憑かれてしまったのだ。しかし、そこで心奪ったのは神秘の鍾乳洞ではなかった。私が惚れたのは、当時まだ二十歳そこそこの皐月だったのだから。清純な雰囲気の彼女に、私は一目惚れをしてしまった。無論、告白したさ。その時は私も若造だったのだ。彼女の答えは意外にもイエスだった。そこから私達の交際は始まったのだ。
昭和五七年。私達は籍を入れる事にした。私は京都から、滋賀に転居し、ここで生活するようになると同時に沙弥の父母から風穴の責任者を任されるようになった。風穴に関して何も知らない私に、皐月は優しく知識を授けてくれたよ。とても幸せな一時だった。時は流れ、一年の月日が経った頃、私達の間に一人の女の子が産まれた。村外れの産婦人科で可愛らしい産声を上げた、一人の天使に、私達は「沙弥」という名前を付けた。沙弥は私にとっての宝だった。
あれは――そう確かあれは、沙弥が二歳の頃だ。
夜、皐月と夫婦の営みを交わしている最中の事だった。皐月は何を思ったのか、突然泣き出したのだ。何を泣いている? と尋ねれば、彼女は幾度となく、ごめんなさい。ごめんなさい。と詫びの言葉を重ねるではないか。不思議に思った私が、その訳を訊ねると、彼女は――皐月は許すまじき言葉を放ったのだ。
――沙弥は、貴方の子ではないの――
正直、世界の終りが来たような感覚だったよ。いや、正確には世界など滅びてしまえばいいと言った感覚だったか。皐月は私を裏切ったのだ。
――間が差したと言ったんだぞ。アイツは。
結婚して間もない頃、私達は互いに馴れない生活が続いたせいか、一時的にセックスレスに陥った時期があった。特に、私は京都での生活に慣れ親しんだ上に仕事まで変える事になったのだから、ストレスは半端なものではなくてね、とても皐月を抱く気にはなれなかった。
彼女を放置していた私にも責任があるに違いないが、その間、皐月は、私の目を盗んで、どこぞの馬の骨とも知らぬ観光客の男に現を抜かしていたのだ。妊娠の周期から考えて、その男との間に身籠った事は間違いないらしい。
――今まで黙っていてごめんなさい。言えなかったの。怖くて。
赦せると思うか。正直、憎かった。憎くて憎くて、裸体の彼女を凌辱し、そのまま殺してやろうかとも思ったよ。男を侮辱しているのか。私は彼女に流星の如く罵声を浴びせた。浴びせて、浴びせて、浴びせ続けた。――そこで、私の怒りは一旦鎮まったかのように思えた。
だが――鎮まる筈もなかった。可愛らしい天使の顔を見る度に、再び皐月への憤怒が込み上げてしまうのだ。沙弥は、怨恨の塊なのだと、そう思うようになった。完全犯罪を目論み始めたのはその時だ」
「そして、貴方の完全犯罪を崩壊へと誘ったのが、神谷瑠夏の父親だったんですね?」
その場にいる誰もが私に視線を向ける。月乃は「え」と小さな声を漏らした。
「小説家? 何を言っているの?」
「――彼は、神谷瑠夏は、死んだ父親を探しにここまで来たって事さ。君と同じようにね」
月乃の目が大きく見開いた。
「私と同じって、どういうことよ? 回りくどい言い方していないで、さっさと言いなさいよ!」
凄い剣幕である。
「冬籐家に悪因を齎した原因は、神谷瑠夏の父親だった。彼の父は、昔、風穴に訪れ、そして――」
「言うな! それ以上、言うな!」
輝光が叫んだ。
「皐月さんと繋がったんです」
月乃と沙弥の表情が凍った。
「――貴様は何もかも知ってしまった様だな……」
輝光は悄然とした物言いである。
さっきまでの強気な彼は、もうどこにもいない。
「そこにいる彼女は、瑠夏の恋人です。彼女から瑠夏の話を聞く内に、僕は瑠夏が何らかの形で貴方方と繋がりを持っていたと睨んでいた。プロジェクト以外に、何か目的があって、彼はここに来たのではないか。そうでないければ、あんな遺書の様な手紙を残したりしないと思うんです。きっと瑠夏は、貴方と真っ向勝負する心算でここに来たんだ。貴方に殺人を自供させるまで、決して帰らないと腹をくくっていた。瑠夏は、母親を大事にしていたそうです。彼の母親は、突然の父親の失踪を嘆き悲しみ、彼女の身や心は、どんどん衰弱していった。しかし、彼女は懸命に瑠夏を育てた。そんな母親に報いる為にも、瑠夏は必死だったんだと思います。瑠夏は幼少期に母親から聞いた蒼湖風穴の話をずっと胸の奥に秘めてきた。父親が最後に消えた地の事をね……
貴方を神にしたのは、瑠夏の父親だ。
貴方は忌わしい瑠夏の父親を殺してしまった瞬間に修羅になったのでしょう?」
「あいつは――あの男は、愚かにも私の元に謝罪しに来たのだ。夏の夜の事だ。あの男は突然、私の目の前に現われて、そして、妻、皐月と共に土下座したのだ。あの男には家庭があった。愛する妻も、子もいる癖に、アイツは私の妻に手を出した」
「だから、殺したんですね。引き金は、二人の謝罪だった」
「そうだ。それが伝説の始まりだ。――私は神になろうと思った」
「だけど、神にはなれなかった。なぜなら、成長した瑠夏が貴方の目の前に現われたからだ。――そしてその消えた瑠夏を追って、彼女はここに来てしまった」
私は言って、月乃に視線を滑らせた。
「死んだ父親にそっくりだったよ。歪んでいる癖に、真っすぐに私に挑んでくるところがな。自供して下さいと必死に頼んできた。神谷瑠夏は――あの男の様に、私に土下座したのだ」
私も、またこうやって、輝光に正面対決を挑んでいる。だが、私には土下座など出来るはずもなかった。これは犯罪である。
月乃は――泣いている。
「もう一人、子を作ろうと思わなかったのですか」
私は虚ろに訊ねた。
「子を育てる財力がなかったのだ。あの男を殺した瞬間から、蒼湖風穴には、忌わしい逸話が成立していたのだから。自殺スポットなどと呼ばれ、人々から忌み嫌われ、観光客は見る見る内に減っていった。あの男を殺した後、私は彼の骸を地底湖に沈めた――」
「だが、貴方の復讐はそこで終わりはしない。皐月さんを殺す事――それが、貴方の狙いだったのです。しかも、自分の手ではなく、娘の沙弥に実の母親を殺させる事で復讐を果たそうとした――正しく鬼だ」
「貴様に何が分かると言うんだ? 私は孤独だったのだ。この冬籐家で唯一の他所者で、ようやく生まれた娘が、どこの誰だかも知らない男の子供で、どれだけ、娘を愛そうとも決して沙弥の真実の父親になれぬ悲しみが、貴様なんぞに分かって堪るものか。何度か踏みとどまった時期もある。しかし、今までに殺してきたプロジェクトの人間達の事を想うともう後には引けない状況に陥ってしまっていた。私は神になろうと思った。どこまでも非情で冷徹な神に――忌わしい娘の手で忌わしい皐月を殺させ、全ての罪を沙弥に背負わす――それが神の成せる技だったのだ」
輝光はそこまで言うと、瞳を充血させ、涙を零した。
「沙弥は貴方の教育の元で大切に育てられた。穢れなど知らない真っ直ぐで素直な女性に育った沙弥は、風穴内の関する情報も上辺だけの事しか知らない。正直すぎる彼女の心を、破壊し、混乱させ、貴方は彼女を殺人兵器に変えた」
「正直、ここは賭けのようなものだった――沙弥が私の子でないという事実と、皐月の裏切り、そして私自身が何十人の命も奪ってきた連続殺人犯だと知れば、沙弥の心を破壊出来る筈だと睨んだ。そして沙弥に見せる筈の文章にこのような一文を付け足す事にした――」
皐月を殺せ。殺せ。殺せ。
皐月は、裏切り者。
お前が殺さなければ、私が殺る――
「――全ての真実をワープロソフトに書き綴り、それをパソコン内に保存しておいた。私はいつの日かお前にあの文章を見せる機会を伺っていた。まさかこうも早くにお前が私の部屋に侵入することになるとは予想していなかったが。全ての引き金は、そこの娘と小説家風情だったということか」
そこの娘とは月乃の事である。
「どの道――お前が皐月を殺さなければ、無論、私が彼女を殺す心算だった。もう少しで、私の想像した完全犯罪は成立したというのに――貴様らを利用する事だけは出来なかった――お前達さえ、来なければ私の復讐は成立していたというのに」
輝光は、酷く後悔したように言った。
沙弥は何も言わない。
彼女の眼尻に蔦る純朴の涙が妙に哀しかった。
「――お父さん」
沙弥は言った。
確かにそう言ったのだ。
鬼が号泣し、テーブルに顔を埋めている姿を、私達三人はいつまでも、いつまでも見ていた――
終章
砂利が敷き詰めれれた畔で、斧川の緩やかな流れを見ていた。透き通るほどに透明な水面から川底が伺える。正面には相変わらず杉の木が凛として立ち並んでいて,山肌から差し込む夕日が眩しかった。幅一mほどはある、丸い岩石の上に腰を下ろし、私は、川のせせらぎを聴いていた。
月乃は足元に転がる小石を一つ拾い上げ、川に向けて放った。
三月二一日。長過ぎた取材を終えた私は、この日、蒼湖風穴を発つ心算だった。川の岸部に車を停車させた私は、最後に一目、斧川を見たいと思い立ち、こうやって彼女と二人してぼうっとしているのである。
「琵琶湖ぐらい見ていくか? せっかく滋賀まで来たんだから」
「遠慮しとく。とても、そんな気分にはなれないわ。早く家に戻ってぐっすり眠りたい」
「確かに」
そう言って私は微笑んだ。
「小説家? 貴方、まさか今回の件、小説にしようなんて思ってないわよね?」
「あぁ。とてもそんな気分にはなれない」
私は先ほどの月乃に似た口調で言った。
遠くからサイレンの音が聴こえた。ふと視線を後ろに投げると、私の車の横をパトカーが数台、走り抜けて行った。
最後のプロジェクトを終えた後、輝光は自首すると言っていた。輝光に利用されただけの沙弥も、恐らく無罪放免とはいかないのだろう。理由はどうあれ、彼女は実の母親を殺したのだから。
「沙弥のお父さん――早く怨恨を断ち切りたかったのかも。きっと彼も心の奥底までは悪に染まっていなかった。沙弥や皐月さんを最後まで憎みきれなかったんだと思う――どんなに苦い記憶があろうとも、長い間、共に暮らしてきた家族だもの」
「分からない事がある。あの人には、皐月さんを殺す機会なんて何回もあった筈なのに、どうして彼は自分の手で彼女を殺そうとはしなかったんだろうな? そうすれば、本当に山の大神の仕業に見せかけて彼女を殺す事も出来たし、彼女を自殺に見せかけたとすれば尚更だ。完全犯罪を成立させる事だって可能だった」
「それじゃあ、あの人にとって意味が無かったんでしょ。瑠夏の父親の遺伝子を受け継いだ忌わしい娘の手で裏切り者の妻を殺させる事で、復讐を果たすという目的が壊れてしまう。あの人にとっては、自分の目的そのものを果たす事が「完全」ということになるのよ……きっと」
月乃は苦渋の表情である。
「ただ単に皐月さんだけの抹殺が、彼の目的ではなかったという事か。家族同士の復讐か――僕には縁のない話だ――結局のところ人間の心なんか分からないものだな」
「そういえば、小説家――どうして、貴方、あの時、瑠夏の父親がここに来たって分かったの?」
「うん?――あぁ、正直、そればっかりは、最後の最後まで分からなかった。だから、君が読んだ瑠夏の手紙、沙弥が見た手紙。そして瑠夏には母親しかいないという僅かな情報を基に考える他なくてね。そこで、僕は仮説を立てる事にしたんだ。まず沙弥のお父さんは皐月さんの不倫を怨んでいた。だけどその不倫相手の正体は分からない。尚克、瑠夏の父親は不在で、君ですらその情報は持ち合わせない。――となると、想像力を働かせるしか無かった。このキーワードから導き出せる答えを僕なりに推測したわけだ。僕の中で、唯一分からない存在が、皐月さんの不倫相手と、瑠夏の父親だったんだ。そして、僕は等々、一つの仮説を導き出した。ここは小説家の得意技だ。皐月さんが若い頃から、ここの受付をしていたのは、彼女の話で、知っていた。ならば、もし瑠夏の父親が昔、ここに訪れていて、皐月さんと繋がっていたとし、そこから沙弥が生まれたとなると、沙弥のお父さんが残した手紙に書かれた真実と一致するわけさ。要するに素性の知れない人物は同一人物だった。――後は、感情移入の問題だ。もし、僕が沙弥のお父さんだったら、間違いなく僕も、皐月さんを憎んでいたと思う。他人の子を愛するというのは中々難しい事だからね。そして、種を植え付けた不倫相手、瑠夏の父親の事だって憎悪の対象にするに違いない。よって沙弥のお父さんが、瑠夏の父親を殺したと仮定したんだ」
「たったそれだけの情報で、その筋書きを想像したというの?」
「あぁ、次に、父親を失った瑠夏の感情を考えた。ここも、小説家の得意技だ。そして、そのヒントをくれたのは、君だ」
私は、月乃の顔を指差す。月乃は目をまん丸にしながら、自分自身の顔を指差した。
「私?」
「そう――瑠夏は、きっと君みたいに、消えた父親の事を探しに行こうとするんじゃないかなって、思ったんだ。いや、僕だって、もし、大切な誰かが突然消えたりしたら、きっと――」
――探しに行くと思う。
「その推理は偶然にも、彼の企みと一致していたってわけね?……」
「最初に沙弥が犯人だと言えば、彼はきっと動揺すると思った。案の定、彼は僕の誘導尋問の様な話術に嵌って、罪を自供し始めた。彼の話を聞きながら、僕は、彼自身の心を暴こうとしたんだ」
「流石は、小説家ね。――口には自信があるっていうのも、強ち嘘じゃないのかも」
私は不器用に微笑んだ。
――ただ、もう一つ分からない事がある。
結局――今年で最後のプロジェクトでも蒼湖風穴の全貌は明らかにならなかったのだ。
しかし、天照プロジェクトは、地底湖から、二体の遺体を引き揚げたのである。一つは、冬籐皐月の水死体、もう一つは――白骨遺体であった。遺体の損傷が激しい為に、その骸は、瑠夏の父親のものであると判明した。
――有り得ない。私は奴を、あの忌々しい若者を、殺したのだ。大きな岩で殴り殺したのだ。なのに――なぜ、いない? なぜ、いないのだ……あぁ、あぁ、あぁ、そうか、奴が、奴が、山の大神であったのか・・・…
輝光は、刑事達に連れていかれる途中、その様な訳の分からない言葉を発していた。
――分からない事がある。
瑠夏の遺体は、発見されなかったのである。
輝光が、瑠夏を殺害した後、地底湖に遺棄したと証言しているにも関わらず。
もしかして、瑠夏は――
なら、何故、彼は、大事にしていたという母親の前に姿を見せない?
どうして、月乃に逢いに来ないのだ?
訳が分からなくなった。
瑠夏が、蒼く静謐な地底湖の底で見たもの――それは、何だ?
瑠夏が居ない以上、その答えは誰にも分らないのである。
だから――私は物語を作る事にした。
「瑠夏――もしかして見つけたのかな? 出口……」
「答えなんて無い。ただ――一つだけ想像できる事がある」
「何……?」
「間一髪、致命傷を逃れた瑠夏は、死んだフリをした。もし、彼がまだ生きているなんて知れたら、沙弥のお父さんは、瑠夏に止めをさしに来るだろうから。そして、彼は、地底湖に生きたまま遺棄された。――その後は……」
――分からない。
「瑠夏はその後、湖から這いずり出て、風穴の入口に戻ったのか、それとも、本当に地底湖の底で、何かを見つけたのかは、分からない。だけど、彼の死体が上がらなかった以上、彼はまだ、生きている……」
「じゃあ、どうして私達の元に帰ってこないのよ」
「それは――きっと、殴られた時の衝撃で、記憶が消えたのかもしれない。断言はできないが……」
「記憶喪失――だから帰ってこれない……」
「記憶を失って尚、彼は生きる事に必死だったんだ。だから……彼は今も、どこかで――」
月乃は、川の水面に目をやった。
水は透けていて、中には名前も知らない魚達が、何匹か泳いでいる。
どこかで生きているかもしれない空っぽの瑠夏の事を彼女はこれからも待つのであろうか。
月乃の感情の読めない端麗な横顔が、何故か奇麗に見えた。
「――彼は出口を見つけたのよ。きっと」
月乃は、朱唇の隙間から歯を覗かせた。
――私達は知らないだけなのだ。
私も瑠夏が、彼女の前に再び現れる事を素直に祈るとしよう。
――祈れるだろうか?
私は溜息を一つ零した。
「しかし、まいったな。なんか、家に帰りづらいよ」
私が頭髪を搔き毟りながらそう言うと、月乃は訝しげに小首を傾げた。
「どうして。やっと家に帰れるのが嬉しくないの?」
「だって、あんな手の込んだ手紙を送った癖に、ひょこんと帰ってくるなんて――きっと怒られるだろうな」
月乃は思い出したかのようにクスクスと微笑んだ。
「――でも良かったじゃない。生きているのよ、私達」
月乃が眩しいほどの笑顔を咲かせた。
「そう言えば、しばらく蒼湖風穴は封鎖されるみたいだな」
「当然と言ったら、当然よね。だって管理する人間が居ないんだもの」
橙色と夕日が水面に反射し、川がオレンジに染まった。キラキラと宝石のように輝く川が見事な景色を創り出し、言葉に出来ない程に鮮やかだった。
私はトートバッグの中から、ノートを取り出す。
何してるの? 月乃は言いながら、ペンを走らせる私の手元を覗き込んだ。
ついこの間まで、白紙に近かった大学ノートは最早、書くスペースを探さなくてはならないほどにぎっしりと文字が綴られていたのだ。
このノートは、今回の事件について考える時に度々使っていたのだった。
「貴方、探偵にでもなればいいんじゃない?」
月乃はどこかからかっているかのような口ぶりでそう言った。
「まさか。僕はただの小説家さ。そしてこれからもずっとね――」
また来る――
そう書き綴った後、私はノートを閉じ、再びバッグにそれを仕舞った。私は腰を上げ、ズボンに付着した砂埃を払った後、「そろそろ行こう」と言って、月乃の手を引いた。彼女は足元に転がる小石に足を躓かせ、一瞬、躰のバランスを崩した。が、私の体を支えにした彼女は転ばすに済んだ。私達は車に乗り込み、再び、舗装された形跡のない細く狭い道路を走るのだった。
その後、月乃とは、村外れの高宮駅の前で別れることになる。
人ゴミも疎らである駅前――サイドガラス越しに彼女を見送った私はゆっくりとアクセルを踏み、車を走らせるのだった。
バックミラーに手を振る月乃を見て私は眉を顰めた。
居た堪れない心境の私は、車を停車させ、運転席のサイドミラーを開け、顔を出した。窓から身を乗り出し、月乃の方へ顔を向けた私は、彼女にこう叫んだ。
「君は僕の助手なんだから、僕の小説が出版されたら、必ず買うこと。いいな!」
遠くに居る月乃はにっこりと笑った――〔終〕