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退職しました 嫁の実家(農家)で暮らします

掲載日:2026/08/30

退職した。嫁の実家に帰った。そこで農業を始めた。楽しい。生きるって大変だね。

第一章 退職


 二〇二〇年、男は五十歳になった。


 身長百七十センチ、体重六十キロ。痩せても太ってもいないが、身体つきに迫力はない。髪型も服装も地味で、黙って役所の窓口に座らせておけば、地方都市の市役所に二十年以上勤めている係長あたりに見えた。


 実際の職業は、役人とはだいぶ違った。


 開発コンサルタント。


 住宅地や産業用地を造る際、道路、造成、排水、法令その他の条件を整理して、土地を実際に利用できる状態まで持っていく設計屋である。


 新しい土地を一から造成する仕事もしたが、男が得意としていたのは、むしろ誰も触りたがらない土地だった。


 接道条件が満たせない。土地の権利関係が複雑である。昔から建物だけが密集し、道路と呼べる道路がない。開発許可を取ろうにも、行政との協議以前に、そもそも何をどう整理すれば事業になるのか分からない。


 そうした案件では、建築や土木だけ知っていても役に立たない。


 法律を読み、役所と協議し、土地所有者の利害を整理し、不動産会社の採算条件を聞き、施工可能な形まで設計を落とし込む。最後には誰がどこまで損を飲むかという話になる。


 嫌な仕事だった。


 男は何度も転職を考えた。


 電話を取れば揉め事で、会議に出れば解決不能に見える問題が一つ増える。自分が作ったわけでもない昔の土地利用の矛盾を、一つずつ掘り起こして片づける。


 それなのに、この仕事は妙に面白かった。


 男自身、この感情をうまく説明できなかった。


 働くのは嫌いだった。


 朝、決まった時間に起きて会社へ行くのも嫌いだった。


 責任を持たされるのも嫌だったし、締切も嫌いだった。


 しかし誰も解けないと思っている問題を、法律、技術、交渉条件に分解し、一個ずつ消していく作業は好きだった。


 だから辞めたいと思いながら二十年以上続いてしまった。


 五十歳まで働いたことについては、自分なりに理由もあった。


 一人息子がいた。


 息子が学生であるうちは、親がまともに働いている姿くらい見せておいた方がいいだろうと思っていた。


 その息子も国立大学の大学院を出て、自動車メーカーに就職した。


 もういいだろう、と男は思った。


 親父が毎朝ネクタイを締めて会社に行くところを見せる教育期間は終わった。


 問題は、辞める理由がないことだった。


 仕事は面白い。


 給料も悪くない。


 会社との関係も特に悪くない。


 その状態で「働きたくないから辞めます」と言って、本当に辞めるほどの踏ん切りまではつかなかった。


 男は、きっかけを待っていた。


 それを持ってきたのが妻だった。


 妻も五十歳。東京の不動産会社に勤めている。


 住宅地や産業用地の開発を担当するデベロップマネージャーで、用地取得交渉を得意としていた。夫とは入社して間もないころ仕事で知り合った。


 二人とも扱う対象は土地だったが、役割は違う。


 妻が「この土地で事業をやる」と決め、土地所有者や会社を動かす。


 男は、その無茶な要求を現実の図面にする。


 二十数年前から基本的な関係は変わっていなかった。


 その妻が、ある日帰宅して言った。


「お父さんが農業やめるって」


 福岡に住む妻の父、黒田建造は八十歳になっていた。


 三十歳で実家の農業を継ぎ、その傍らで始めた土木会社を地場大手にまで育てた男である。会社はすでに長男に譲り、自分は再び農業を楽しむ生活へ戻っていた。


 ところが膝を痛めた。


 本人はそれを深刻には考えていなかった。


 これまで農業を楽しめたのだから十分。自分が耕せないなら、農業をする人間に土地を売ればよい。その程度の感覚だった。


 黒田家そのものに、特別な執着があるわけでもない。


 広い家は維持に金がかかる。林は放っておけば荒れる。農地も耕さなければ価値を失う。


 ただし周囲の田園風景は好きだった。


 売るなら、米を作る人間に売りたい。


 そう考えている途中で、娘夫婦のことを思い出したらしい。


 農業を継がせることができれば、農地を処分するより承継の面でも都合がいい。生きているうちに整理してしまえば、後に残す面倒も減る。


 建造にしてみれば、そんな実務的な思いつきだった。


 娘への電話も簡単なものだった。


「実家と五町ほどの田んぼ、売ろうかと思っとる。お前ら農業やる気があるなら、そっちにやるぞ」


 妻はその話を夫にした。


 男はほとんど考えなかった。


「じゃあ会社辞める」


「まだ説明終わってないけど」


「福岡の実家だろ」


「そうだけど」


「農業やればいいんだろ」


「まあ、そうなんだけど」


 妻の方が戸惑った。


 男にとっては、ついに退職する理由が現れただけだった。


 しかも、その土地はかなり面白かった。


 福岡県、遠賀川周辺。


 土地改良によって大きな長方形に整理された水田が、碁盤の目のように広がっている。その中に、黒田家の敷地だけが林に覆われた微高地として残っていた。


 敷地内には母屋と農業倉庫があり、一ヘクタールの水田、畑、そして中央近くには千平方メートルほどのため池まである。外部にも五ヘクタールの水田を所有している。


 敷地の周辺には農道と用排水路が走り、別方向には川がある。添付された配置図でも、周囲の水田は幅六メートルの農道と用排水路で大区画に整理され、その中に黒田家の林地と宅地だけが島のように残っていた。


 男は図面を見て、しばらく考えた。


 職業柄、土地を見る目だけは普通の人間とは違う。


 三方向に水がある。


 周囲より地盤が高い。


 林で視界が遮られている。


 内部に水源まで持っている。


 進入路は限られる。


「これ、城じゃないか」


 妻には意味が分からなかった。


「うちだけど」


「そうじゃなくて。四百年前なら、どう見てもここに館を置く地形だろ」


「石垣なんてないわよ」


「だから城跡だって言ってるんじゃない。土地の条件が城なんだよ」


 妻はそれ以上相手にしなかった。


 男もその時点では、それ以上考えなかった。


 ただ、この土地は面白そうだと思った。


 残る問題は金だった。


 農業で生活費を稼ぐつもりはない。


 それくらいの知識は男にもあった。


 二十年前、男は千葉県のニュータウンの一角にある集合住宅用地を取得していた。資金の多くは実家から出ていた。


 当時から老後資産のつもりではあったが、その後、予想していなかった地下鉄延伸が決まり、土地の価値は大きく上がった。


 現在建っている低層の集合住宅を、そのまま使い続ける必要はない。


 男と妻は、そこだけは完全に本職だった。


 容積、接道、建築費、想定賃料、空室率、融資条件、大規模修繕。


 二人で数字を組み直した。


 二階建ての集合住宅を解体し、鉄筋コンクリート造の賃貸マンションに建て替える。


 四十室。


 満室である必要はない。


 修繕費を積み、多少の空室を見込んでも、福岡で夫婦二人が生活するには十分だった。


 六十五歳になれば年金も入る。


 農業で赤字を出しても、すぐ困るわけではない。


 男は満足した。


 遊んで暮らすなら、遊んで暮らせる仕組みを先に作っておかなければならない。


 退職後の人生まで資金繰りに追われるのでは、会社を辞める意味がない。


 準備が整ったところで、男は退職の意思を会社に伝えた。


 上司には理由を聞かれた。


「農業をやります」


 自分で言ってみても、ずいぶん突飛だった。


 二十年以上、開発の難物ばかり扱ってきた五十歳の設計屋が、突然福岡へ行って米を作る。


 会社側から見れば、何か嫌なことでもあったのかと疑うのが当然だった。


 しかし本当に何もなかった。


 待遇に不満もない。


 人間関係の問題もない。


 仕事は相変わらず、クソ面白くもないほど面白かった。


 だからこそ、辞め時がなかった。


 ようやく辞める理由ができたのである。


 会社を出た最後の日、男は思ったほど感傷的にはならなかった。


 二十年以上続けた仕事だった。


 未練がないわけでもない。


 ただ、それ以上に興味があった。


 六ヘクタールの田んぼ。


 古い農家住宅。


 農業倉庫。


 林。


 ため池。


 そして三方向を水に囲まれた、田園地帯の中の妙な微高地。


 これからそこを好きに使える。


 何をするかは、まだ決めていなかった。


 少なくとも米くらいは作らなければならない。


 木も切る必要がある。


 家も直さなければならないだろう。


 五十歳から始める遊び場としては、かなり広い。


 男は会社員を辞めた。


 農家になるためだった。


 少なくとも、その時はそういうことになっていた。



第二章 営農生活


 福岡へ移った男が最初に覚えたのは、農業には「忙しい時期」と「何もすることがない時期」が極端に存在するということだった。


 会社員の仕事とは、その点がまるで違った。


 会社には一年中仕事があった。


 一つの案件が終われば次が来る。むしろ終わる前に次の案件が始まっていることの方が多い。年度末だから忙しい、盆だから少し暇だという程度の波はあっても、四月になったら仕事そのものが消えるということはない。


 米は違った。


 五月になると突然忙しくなる。


 それまで静かだった田んぼにトラクターが入り、土を起こし、水を張り、代を掻く。苗が届けば田植えが始まる。


 黒田家が管理する水田は全部で六ヘクタールあった。


 屋敷の敷地内に一ヘクタール。外に五ヘクタール。


 土地改良された田は大きな長方形で、古い農村の小さな田んぼを何十枚も扱うのに比べれば効率はよい。それでも六ヘクタールは六ヘクタールだった。


 田植機に乗ること自体は、それほど大変ではない。


 問題は苗だった。


 苗箱というものは、一枚だけ持てばたいした重さではない。


 ところが、それを延々と運ぶ。


 軽トラックから降ろし、田植機まで持っていき、空いた棚へ積む。田植機が進めば苗はどんどん消えていく。


 また運ぶ。


 また積む。


 最初の一時間ほど、男はそれを単純作業だと思っていた。


 二時間後、認識を改めた。


 腰に来た。


 腕にも来た。


 足元は悪い。


 長靴で泥の中を歩くだけでも普段使わない筋肉を使う。


「ぐおっ」


 思わず声が出た。


 義父の建造は田植機の上から振り返っただけだった。


 八十歳で膝を悪くするまで農業を続けてきた男にとって、苗箱を運んだ程度で音を上げる五十歳の娘婿は、まだ農業者ではなかった。


 繁忙期だけは、義兄の建設会社から人を借りた。


 田植えなら苗運びに一人。


 十日ほど手伝ってもらえば何とかなる。


 この仕組みは建造の代から続いていた。


 農業だけのために一年中人を雇えば採算が合わない。しかし建設会社なら、現場の都合を見ながら数日人を回せる。


 農業と建設業を同時にやっていた建造が作った、妙に合理的な仕組みだった。


 六月になると仕事量は急激に減った。


 水を見る。


 田を見る。


 草を見る。


 必要なら畦を刈る。


 それだけである。


 七月も似たようなものだった。


 八月も、基本的には稲が勝手に育った。


 もちろん病気もあれば虫もいる。水管理も必要である。


 しかし男が東京で想像していた「農家が毎日田んぼで働いている」という光景とは、かなり違っていた。


 毎朝見回る。


 問題がなければ帰る。


 男は戸惑った。


「……これだけ?」


 妻は平然としていた。


「何が?」


「米」


「米が何?」


「毎日何かするんじゃないの?」


「することなければ、しないわよ」


 男は初めて、米作りという仕事の構造を理解した。


 九月になると、再び突然忙しくなった。


 稲刈りである。


 コンバインが田へ入り、刈り取った籾をためる。


 満杯になれば運ぶ。


 外の五ヘクタール分は、基本的にカントリーエレベーターへ持ち込んだ。


 この時期は籾運びに二人ほど人手が欲しい。


 また義兄の会社に頼む。


 十日ほど忙しく働けば、秋の大仕事はほぼ終わる。


 六ヘクタールから取れる米は、おおよそ三十トン。


 そのうち敷地内の一ヘクタール分、五トンほどだけは自分たちで乾燥させ、籾摺りし、保存した。


 残りは外へ出す。


 男は一年目を終えて、帳面を眺めた。


 五月。


 六月。


 七月。


 八月。


 九月。


 十月。


 十一月。


 十二月。


 一月。


 二月。


 三月。


 四月。


 指でなぞった。


「米作りって五か月しかないじゃないか」


「今さら?」


 妻は呆れた。


「これじゃ儲からないだろ」


「お父さんが最初から言ってたでしょう」


 確かに言っていた。


 農業は儲からん。


 先祖から預かった財産を管理する仕事だ。


 男はその言葉を、ようやく数字として理解した。


 田植機。


 トラクター。


 コンバイン。


 乾燥機。


 籾摺機。


 農業倉庫。


 それぞれ高価である。


 一年のうち、実際に使う日は驚くほど少ない。


 コンバインなど、一年間倉庫に置いておいて、働くのは秋の十日ほどだった。


 こんな機械を買い、保守し、数十日しか使わず、米の売値から費用を回収する。


 どう考えても楽な商売ではない。


 男は農業経営に絶望した。


 そしてほぼ同時に、別のことに気づいた。


「十月から四月まで、自由じゃないか」


 妻はしばらく夫を見た。


「畑は?」


「ある」


「林は?」


「ある」


「家の手入れもあるわよ」


「でも納期ないだろ」


 そこが重要だった。


 今日できなければ明日やる。


 雨ならやらない。


 寒ければ午後から始める。


 疲れたら休む。


 会社員時代には考えられなかった働き方だった。


 男は、この生活をかなり気に入った。


 畑も始めた。


 黒田家の畑は販売目的ではない。


 夫婦が食べ、親族に配り、余れば義兄の会社へ持っていく。


 だから収益を考えて一種類を大量生産する必要がなかった。


 少量多品種。


 男にとっては家庭菜園を巨大化したようなものである。


 最初にうまくいったのが玉ねぎだった。


 植えておけば育った。


 収穫して乾かせば保存できる。


 ジャガイモもよかった。


 多少形が悪くても食べられる。


 掘り上げた時に成果が見えるところも気に入った。


 男は急速に自信をつけた。


 自分は農業に向いているのではないか。


 そう思ってキャベツを作った。


 うまくいかなかった。


 白菜にも挑戦した。


 やはりうまくいかなかった。


 葉は虫に食われ、結球しないものができ、ようやく形になったと思えば割れた。


 妻は農家育ちなので、夫が何を間違えたかある程度分かる。


 しかし、それを最初から全部説明するほど親切ではなかった。


「葉物って難しいな」


「難しいわよ」


「玉ねぎ簡単だったぞ」


「玉ねぎと同じだと思ったの?」


「野菜という分類では同じだろ」


「そういうところがお父さんに似てきたわね」


 男には不本意だった。


 春にはジャガイモ。


 夏にはキュウリ、ナス、トマト、スイカ、カボチャ。


 秋には里芋。


 成功するものもあれば失敗するものもあった。


 農産物を売って生活しているわけではないので、失敗しても深刻にはならない。


 今年駄目なら来年またやればいい。


 会社員時代なら、同じ失敗を来年もう一度やれば怒られる。


 畑は何も言わなかった。


 ただ、失敗した結果だけがそこに残った。


 それが男には心地よかった。


 東京から福岡へ移って一年。


 男はまだ農業者としては初心者だった。


 田植えでは腰を痛め、キャベツはまともに作れず、農機具の扱いも義父に教わることが多かった。


 それでも一つだけ確信していた。


 会社を辞めた判断は間違っていなかった。


 朝起きて田んぼを見る。


 何もなければ帰る。


 昼から畑へ行く。


 雨が降れば本を読む。


 夜は漫画かネット小説。


 明日までに提出する図面はない。


 役所からの回答待ちもない。


 地権者から怒鳴り込まれることもない。


 男は五十歳にして、生まれて初めて「仕事が終わる」という生活を知った。


 ただし、この頃にはまだ気づいていなかった。


 暇な時間を与えられた人間が、必ずしも大人しく遊んで暮らすとは限らない。


 特に、問題を解くことだけは好きな男に、六ヘクタールの農地と林とため池と農業倉庫を与えてはいけなかった。



第三章 燃料は一種類でいい


 農業を始めて二年目になると、男は農作業そのものより、農作業を支える道具の方が気になるようになった。


 これは職業病に近かった。


 会社員時代もそうだった。造成工事そのものより、そこへ至るまでの条件整理の方が面白かった。道路幅員、排水勾配、擁壁高さ、権利関係、工事車両の進入経路。物事が成立するために必要な条件を一つずつ揃えていく作業が好きだった。


 農業も同じだった。


 田植機がある。


 トラクターがある。


 コンバインがある。


 軽トラックがある。


 草刈機がある。


 チェーンソーがある。


 発電機もある。


 倉庫の隅には、義父の代から使われている機械が何台も置かれていた。


 そこまではいい。


 問題は、全部が違う燃料を要求することだった。


 ガソリン。


 軽油。


 混合油。


 灯油。


 機械によっては二サイクル用オイルまで必要になる。


 男は一度、草刈機に入れる燃料を間違えかけた。


 義父に止められた。


「それ入れたら焼き付くぞ」


「同じガソリンじゃないんですか」


「違う」


「面倒ですね」


「農機なんてそんなもんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、男の頭のどこかに小さな棘が刺さった。


 面倒。


 それは嫌いだった。


 いや、正確には、避けられる面倒が放置されている状態が嫌いだった。


 その晩、男は燃料について調べ始めた。


 まず驚いたのは、ガソリンが思っていたより扱いにくいことだった。


 揮発しやすい。


 引火しやすい。


 長期保存には向かない。


 保管方法にも気を使う。


 男は画面を見ながら腕を組んだ。


「危ないじゃないか」


 今さらだった。


 妻は横でテレビを見ていた。


「何が?」


「ガソリン」


「知ってるけど」


「俺、こんな危ないもの倉庫に置いてたのか」


「今まで車にも入れてたでしょう」


「車は車だろ」


「何が違うのよ」


 男は答えなかった。


 次に軽油を調べた。


 ディーゼルエンジン。


 農業機械では珍しくもない。


 大型トラクターもコンバインも軽油で動く。


 建設機械も同じだった。


 低速で力があり、農作業には向いている。


 そこまでは知っていた。


 調べるうちに、男の興味は燃料そのものへ移っていった。


 軽油と灯油は近い性質を持っている。


 古いディーゼル機関では、条件次第で灯油系燃料が使われた例もある。


 男はそこで、画面から顔を上げた。


「ディーゼルって、灯油でも回るのか」


 正確には、そんな単純な話ではない。


 税制もある。潤滑性も違う。機関の種類もある。現代のディーゼル機関に何でも入れてよいわけではない。


 しかし男の頭には、別の言葉が残った。


 燃料の系統を減らせる。


 そこからだった。


 家にある機械を全部書き出した。


 トラクター。


 コンバイン。


 運搬車。


 発電機。


 草刈機。


 チェーンソー。


 ブロワー。


 剪定機。


 小型管理機。


 一つずつ燃料を書き込む。


 ガソリン。


 混合油。


 軽油。


 ガソリン。


 混合油。


 混合油。


 ガソリン。


 電気。


 男は一覧を見て、非常に気分が悪くなった。


 美しくない。


 管理体系として、まるで美しくない。


 妻に見せた。


「見てくれ」


「何これ」


「燃料一覧」


「そんなもの作ってたの?」


「ガソリン系が多すぎる」


「だから?」


「減らす」


 妻はそこで嫌な予感がした。


 夫は会社員時代からこうだった。


 一度「整理できる」と思ったものは、放置できない。


 土地の権利でも、書庫のファイルでも、工具箱でも同じだった。


「何をする気?」


「内燃機関はディーゼルに統一する」


「車も?」


「乗用車は除外」


「そこは除外するんだ」


「AW11は別枠だ」


 妻は納得しなかったが、そこはもう触れなかった。


 男は翌月から、小型機械の更新を始めた。


 まず草刈機。


 それまで使っていたエンジン式をすぐ捨てるわけではない。


 壊れたものから順番に、バッテリー式へ替える。


 チェーンソーも同じ。


 太い杉を倒すような作業ではエンジン式がまだ便利だったが、枝払い程度なら電動で足りる。


 ブロワー。


 剪定機。


 小型工具。


 できる限り同じメーカー、同じ電圧帯、同じバッテリー系列に寄せた。


 妻は最初、単なる道具好きだと思っていた。


 実際、それだけなら珍しくない。


 農業を始めた男が機械に凝る。


 ホームセンターで工具を見て喜ぶ。


 よくある話である。


 ところが男は、倉庫の壁に紙を貼った。


 そこには大きく、


ガソリン機器新規購入禁止


と書いてあった。


 妻はそれを見て笑った。


「何それ」


「禁止令」


「誰に対して?」


「俺に」


 かなり正しい使い方だった。


 男は自分が、面白そうな機械を見ると欲しくなることを知っていた。


 だから先にルールを作った。


 ガソリンを使う新しい機械は買わない。


 大型機械はディーゼル。


 小型機械は電動。


 例外は乗用車だけ。


 こうしておけば、将来管理する燃料が減る。


「別に今困ってないでしょう」


 妻は言った。


「困ってから整理する方が面倒だろ」


 男は平然としていた。


 これも、まだ理屈は通っていた。


 農作業には燃料管理が必要である。


 種類が少ない方が管理しやすい。


 小型機械が電動なら、混合燃料を作る手間もない。


 騒音も小さい。


 始動も楽だった。


 むしろ使ってみれば便利だった。


 妻もそのうち文句を言わなくなった。


 問題は、その次だった。


 男は発電機までディーゼルに替えた。


 義父が使っていたガソリン発電機はまだ動いていた。


 災害時や停電時の非常用としては十分だった。


 それをわざわざ処分せず、予備に回し、新しくディーゼル発電機を入れた。


 妻はさすがに聞いた。


「発電機まで?」


「大型だから」


「大型って言っても、家全部動かすつもり?」


「全部は無理だな」


「じゃあ何に使うの」


「井戸ポンプと冷蔵庫と冷凍庫。あと照明。必要なら乾燥機の一部」


 答えが妙に具体的だった。


 妻は少し考えた。


「停電対策?」


「そう」


「そんなに長く停電する?」


「しない方がいい」


 また理屈は通っていた。


 農村で停電すれば困る。


 井戸に電動ポンプを使っていれば、水まで止まる。


 冷蔵庫や冷凍庫には食料が入っている。


 米の保管設備にも電気がいる。


 非常用電源を持つこと自体に、不自然なところはない。


 ただ、男はその発電機を導入したあと、燃料の保管量を計算し始めた。


 一日何時間動かすか。


 どの負荷を優先するか。


 燃料一リットルでどれくらい持つか。


 三日。


 一週間。


 二週間。


 一か月。


 妻が覗き込んだ。


「なんで一か月まで計算してるの?」


「計算できるから」


「停電が一か月続く想定?」


「想定は自由だろ」


 その答えに、妻は少しだけ眉をひそめた。


 だが、この時点ではまだ気にしなかった。


 夫は昔から、無駄に条件を振る癖があった。


 道路幅六メートルで通れなければ五メートルならどうか。


 五メートルが駄目なら四メートル。


 雨量が二倍なら。


 事業費が一割上がったら。


 最悪条件を置いて、それでも成立するか確認する。


 仕事でそうしてきた人間なのだから、農業でも同じことをしているだけだろう。


 そう思っていた。


 同じ頃、米の保管についても男は興味を持ち始めた。


 黒田家では、敷地内の一ヘクタールから取れる分だけ、自前で乾燥し、籾摺りし、冷蔵保管していた。


 量にして五トンほど。


 夫婦二人では到底食べ切れない。


 親族に配っても余る。


 新米として売ってもいい。


 しかし男は、わざわざ全部をすぐには売らなかった。


 理由は偶然だった。


 義父の知り合いに、味噌を作っている業者がいた。


 雑談の中で、加工用なら新米である必要はないという話を聞いた。


 むしろ状態が良く、安ければ古米でも構わない。


 男は食いついた。


「古米でもいいんですか」


「味噌にするんだからな」


「保管がちゃんとしてれば?」


「そりゃ悪い米は困るが」


「何年くらい?」


「何年って、お前何する気だ」


 男は笑ってごまかした。


 帰宅してから、すぐ計算した。


 五トン。


 翌年も五トン。


 保管庫容量。


 年間消費量。


 販売量。


 保管コスト。


 古米としての価格。


 妻がまた覗き込んだ。


「今度は何?」


「米」


「見れば分かる」


「毎年一定量を残して、古くなった方から売ればいいんじゃないかと思って」


「何のために?」


「新米をすぐ売る必要ないだろ」


「だから、何のために残すの?」


 男は少し考えた。


「安く売らなくて済む可能性がある」


 半分だけ本当だった。


 もう半分は、別のところにあった。


 米が大量に保管されている状態が、妙に気持ちよかった。


 五トン。


 数字にすると大きい。


 一人が一年に食べる量を考えれば、ずいぶんな量になる。


 冷蔵庫の中の食料とは違う。


 簡単には腐らない。


 保管方法を整えれば長く持つ。


 毎年収穫できる。


 古いものから売れば、在庫は循環する。


 男はそこで、ふと思った。


 備蓄って、使い切る前提だから面倒なんだな。


 備蓄を特別扱いするから期限切れになる。


 普段から使い、古いものから出し、新しいものを入れる。


 それなら備蓄でありながら、死蔵ではない。


 男は妙に感心した。


 これは米だけではなく、ほかにも使える考え方だった。


 灯油。


 乾物。


 缶詰。


 調味料。


 電池。


 交換部品。


 消耗品。


 使いながら持つ。


 一定量を下回ったら補充する。


 男はまた一覧表を作り始めた。


 妻はその様子を横から見ていた。


 まだ何も言わなかった。


 夫が楽しそうだったからである。


 会社員時代、夫は帰宅しても仕事のことを考えていた。


 面白いと言いながら、いつも疲れていた。


 今は違う。


 朝は田んぼを見に行き、昼は工具をいじり、夜は訳の分からない表を作っている。


 本人は非常に機嫌がいい。


 多少変なことをしていても、生活に困っているわけではない。


 農作業もきちんとやっている。


 土地も荒れていない。


 義父も、


「好きにやらせとけ」


と言っていた。


 だから妻も放っておいた。


 男自身も、自分が何を始めているのか、まだはっきり認識していなかった。


 燃料を整理した。


 電源を確保した。


 米を循環備蓄する仕組みを考えた。


 すべて、個別に見れば農家として合理的だった。


 ただ、一つずつ積み重ねると、少しだけ方向がおかしかった。


 そして男は、まだその先にあるものを見ていなかった。


 屋敷の外周は、ほとんど無防備だった。



第四章 そのフェンスは必要なのか


 男が太陽光発電に興味を持ったのは、環境問題を考えたからではなかった。


 電気代がもったいなかったからでもない。


 発端は、発電機だった。


 ディーゼル発電機を導入してしばらくすると、男は非常時にどの機器を動かすべきか考えるようになった。


 井戸ポンプ。


 冷蔵庫。


 冷凍庫。


 米の低温保管庫。


 照明。


 通信機器。


 夏なら扇風機かエアコンも欲しい。


 冬は暖房を電気に頼らなくても何とかなる。古い農家なので、灯油も使えるし、林には燃やす木がいくらでもある。


 しかし電気だけは、自分の土地から採れない。


 発電機を回せば作れるが、燃料を消費する。


 燃料を大量に保管すればいいという話でもない。


 男は考えた。


 そして農業倉庫を見上げた。


 大きな屋根があった。


「余ってるな」


 土地を見て余っていると言い、屋根を見ても余っていると言う。


 妻は、夫のこの考え方をあまり好きではなかった。


 余っている場所を見つけると、必ず何か置こうとするからである。


「太陽光載せようと思う」


「売電?」


「いや、自家消費」


 妻は少し意外そうな顔をした。


 太陽光発電なら、売電収入を目的にする話は何度も仕事で扱っている。


 しかし夫は電卓を叩きながら、別の計算をしていた。


 一般家庭の年間電力消費量。


 農業倉庫の消費電力。


 ポンプ。


 低温保管庫。


 季節変動。


 日照時間。


 パネルの出力。


 蓄電池容量。


 発電量が足りない日が年間に何日あるか。


 男が欲しいのは、電気を売って利益を出す設備ではなかった。


 自分たちが使う電気を、できるだけ敷地内で作る設備だった。


「二百平方メートルくらい載せられるな」


「そんなにいる?」


「倉庫の屋根がそれくらいある」


「屋根の面積を聞いてるんじゃないの。必要なのかって聞いてるの」


「余ったら売ればいいだろ」


「さっき売電目的じゃないって言ったでしょう」


「目的ではない」


 妻は話を打ち切った。


 夫がこの顔をしている時は、止めても調べる。


 問題があるなら、調べ終わって数字が出てから止めればいい。


 結局、太陽光発電設備は導入された。


 蓄電池も入った。


 ここでも男は妙なことを気にした。


 一台の大きな機器にすべてを依存するより、故障した部分だけ切り離せる方がいい。


 一系統が死んでも、全部止まらない方がいい。


 妻には、


「故障した時に修理しやすいから」


と説明した。


 これも間違ってはいない。


 男の説明はいつも間違ってはいなかった。


 ただし、何を基準に設備を選んでいるのかを全部説明していないだけだった。


 太陽光を入れると、バッテリー式の農機具がさらに使いやすくなった。


 草刈機の電池を充電する。


 チェーンソーも充電する。


 ブロワーも充電する。


 昼間なら、自分の屋根で発電した電気をそのまま使える。


 男は満足した。


「これで小型機械は燃料いらないな」


「電気が燃料でしょう」


「その電気をここで作ってる」


 妻はそこで気づいた。


 夫は電気代を安くしたことを喜んでいるのではない。


 外から買わなくてよくなったことを喜んでいる。


 少し変だと思った。


 しかし、それ以上のことは考えなかった。


 次に男が手をつけたのは水だった。


 黒田家の屋敷には古い井戸があった。


 水道が普及してからは補助的にしか使っていない。


 敷地内にはため池もある。


 周囲には農業用水路がある。


 雨も降る。


 男はまた表を作った。


 上水道。


 井戸。


 雨水。


 ため池。


 それぞれ用途を分けた。


 飲用。


 炊事。


 風呂。


 洗濯。


 トイレ。


 農業用水。


 一日に夫婦二人で何リットル使うのか。


 十二人ならどうなるのか。


 妻が表を見た。


「待って」


「何?」


「十二人って誰?」


 男は黙った。


「私たち二人でしょう」


「親族が来るかもしれない」


「何で?」


「避難して」


「何から?」


「……台風とか」


 妻は夫の顔を見た。


 夫は真面目だった。


 福岡なら台風は来る。


 親族が避難してくることも、絶対にないとは言えない。


 だから十二人分の水を計算する。


 理屈は通っている。


 ただし、普通の人間はそこまで計算しない。


 男は計算した。


 水が止まる。


 電気も止まる。


 道路も使えない。


 その状態で何日暮らせるか。


 三日。


 一週間。


 一か月。


 以前なら一か月で終わっていた。


 今度は三か月まで表を伸ばした。


 そして、そこで止まらなかった。


 一年。


 二年。


 男は二年という数字を見て、さすがに笑った。


「これは馬鹿だな」


 自分でもそう思った。


 だが削除はしなかった。


 面白かったからである。


 条件を設定する。


 外から何も入ってこない。


 電気は自分で作る。


 水も自分で確保する。


 食料も必要。


 燃料もいる。


 機械は壊れる。


 薬もなくなる。


 十二人。


 二年間。


 この土地だけで生活を継続できるか。


 仕事だったら絶対に受けたくない案件だった。


 予算も条件も無茶苦茶である。


 しかし今は誰も納期を設定しない。


 失敗しても怒られない。


 そして何より、施主が自分だった。


 男は夢中になった。


 米はある。


 五トンという量は、夫婦が食べるだけなら途方もない。


 しかし人数を増やし、期間を延ばせば、途端に有限の資源になる。


 野菜は畑で作れる。


 問題は肥料。


 種。


 塩。


 油。


 蛋白質。


 保存方法。


 米だけ食べて二年間生きればいいという話ではない。


 男はノートを増やした。


 妻はそれを見て、夫が新しい遊びを始めたのだと思った。


 それは正しかった。


 ただ、遊びの題材がおかしかった。


 そしてある日、男は敷地図を眺めていて、重大な欠陥に気づいた。


 外から入ってこられる。


 当たり前だった。


 住宅とはそういうものである。


 道路から門へ入り、門から母屋へ行く。


 林の側からも、人間なら入ろうと思えば入れる。


 農地との境には簡単な柵しかない。


 そもそも人間の侵入を防ぐ目的で造られていない。


 男は鉛筆で敷地の外周をなぞった。


 三方向は水路や川がある。


 これはいい。


 問題は残る一方向と進入路だった。


 外周を閉じればいい。


 ここで男は初めて、フェンスを調べた。


 最初は獣害対策だった。


 実際、農村では猪や鹿の対策が必要になる。


 ならば農地を囲うことに不自然さはない。


 金網にもいろいろある。


 簡易なもの。


 溶接金網。


 菱形金網。


 支柱。


 基礎。


 表面処理。


 耐久性。


 男は調べた。


 調べれば調べるほど、条件を追加した。


 長期間交換しなくていい方がいい。


 錆びにくい方がいい。


 簡単に切れない方がいい。


 押されても倒れない方がいい。


 よじ登りにくい方がいい。


 男はそこで手を止めた。


「……よじ登る?」


 猪は金網をよじ登らない。


 自分が何を想定したのか、男自身が一瞬分からなかった。


 しかし考えてみれば、人間が侵入する可能性もある。


 災害時の防犯。


 それならおかしくない。


 男は高さを検討した。


 一・五メートル。


 低い。


 二メートル。


 人間なら越えられる。


 二・五メートル。


 まだ頑張れば越えられる。


 三メートル。


 かなり面倒になる。


 四メートル。


「……これだな」


 男は満足した。


 亜鉛どぶ漬けの完全菱形金網。


 高さ四メートル。


 支柱と基礎は十分に強くする。


 下部から潜られない構造にする。


 上部には――。


 そこで「忍び返し」という言葉を知った。


 男の目が輝いた。


 図面を描いた。


 久しぶりだった。


 会社を辞めてから、仕事としてCADを使うことはほとんどなくなっていた。


 外周線。


 支柱間隔。


 基礎。


 金網。


 門扉。


 車両出入口。


 人用出入口。


 図面はすぐにそれらしいものになった。


 やはり本職だった。


 数日後、妻がその図面を見つけた。


「これ何?」


「外柵」


「何の?」


「うちの」


 妻は図面を見た。


 縮尺を確認した。


 寸法を確認した。


 そしてもう一度見た。


「高さ四メートル?」


「うん」


「何で?」


「獣害対策」


 妻は夫を見た。


「四メートルの猪が出るの?」


「猪だけとは言ってない」


「じゃあ何が出るのよ」


「防犯も兼ねてる」


「刑務所?」


「刑務所は中の人間を出さないための柵だろ。これは外から入れないためだから逆だ」


「そういう話してない」


 妻は図面に指を置いた。


「これ何?」


「忍び返し」


「必要?」


「ある方が強い」


「誰に?」


 男は答えなかった。


 妻は次に門扉を見た。


 門だけ妙に頑丈だった。


 通常時の利便性を考えれば、軽くて開閉しやすい方がいい。


 ところが夫の設計は違う。


 重量がある。


 支柱も大きい。


 基礎も深い。


「これ、門が重すぎない?」


「重い方がいい」


「なんで?」


「ゲートは弱点になるから」


 妻は黙った。


 夫も黙った。


「あなた」


「はい」


「何と戦ってるの?」


 ついに聞かれた。


 男は少し迷った。


 ここまで来ると、台風では説明できない。


 猪でも無理がある。


 泥棒対策としてもやりすぎだった。


 嘘をつく必要もなかった。


 妻とは二十年以上一緒に暮らしている。


 男は正直に答えた。


「ゾンビ」


 妻は何も言わなかった。


 男は補足した。


「いや、ゾンビが来ると思ってるわけじゃないぞ」


 妻はまだ何も言わない。


「仮定の話だ」


「……」


「外部インフラが全部停止して、治安維持も期待できない。なおかつ多数の人間みたいなものが外から侵入しようとする。そういう条件を一つの言葉で設定するなら、ゾンビが一番分かりやすい」


 妻は夫の説明を最後まで聞いた。


 確かに夫は昔からそういう人間だった。


 条件を設定して、解く。


 ただ今回は条件設定がおかしい。


「そんな世の中絶対来ないわ」


「俺もそう思う」


「じゃあ何でやってるの?」


 男は少し考えた。


 答えは簡単だった。


「楽しいから」


 妻はため息をついた。


 そして図面をもう一度見た。


 問題は、夫の計画が馬鹿馬鹿しいことではなかった。


 問題はむしろ逆だった。


 太陽光発電は役に立っている。


 蓄電池も役に立っている。


 井戸も便利になった。


 農機具の電動化も楽だった。


 燃料の種類を減らしたのも管理上は正しい。


 米の保管も無駄になっていない。


 フェンスだって獣害と防犯には役立つ。


 夫が会社員時代よりはるかに楽しそうなのも事実だった。


 ゾンビという言葉さえ使わなければ、非常に立派な田舎暮らしなのである。


 妻はもう一度図面を見た。


「四メートルは駄目」


「なんで?」


「見た目がおかしい」


「三・五?」


「そういう交渉じゃない」


 夫婦はそこから、フェンスの仕様について話し合った。


 その夜、男は図面のファイル名を変更した。


 それまで、


「外周獣害防止柵計画」


となっていた。


 少し考えてから、


「第一防衛線」


と打ち込んだ。


 保存した。


 翌朝、妻に見つかって元に戻された。



第五章 生きるって大変だね


 フェンスの一件で、妻に隠す必要がなくなった。


 正確には、それまでも隠していたわけではない。


 男自身、自分が何をしているのか明確に定義していなかったのである。


 燃料の種類を減らす。


 電力を自給する。


 井戸を使えるようにする。


 米を一定量保管する。


 外周を守る。


 一つずつ思いついた問題を解いているうちに、それらが一つの方向へ収束していった。


 妻に「何と戦っているの?」と聞かれ、「ゾンビ」と答えたことで、むしろ男の方がすっきりした。


 条件が決まった。


 ゾンビが発生した世界。


 電力、上下水道、通信、物流などの社会インフラは長期間停止する。


 行政による救援は期待しない。


 道路の安全も保証されない。


 外から物資を買えない。


 屋敷には夫婦だけではなく、親族が避難してくる可能性がある。


 十二人。


 二年間。


 その条件で、この屋敷だけで生活を維持できるか。


 ゾンビそのものについて細かく設定する必要はなかった。


 走るのか。


 知能があるのか。


 感染するのか。


 そんなことはどうでもいい。


 男が面白いと思ったのは、ゾンビと戦う方法ではない。


 外部から何も来なくなった時、人間が生活を続けるためには何が必要なのか。


 そちらだった。


 まず食料だった。


 米はある。


 六ヘクタール全部を守る必要はない。


 屋敷の外にある五ヘクタールは、非常時には捨てる。


 男はあっさり決めた。


 守るのは屋敷内部の一ヘクタールだけでいい。


 平時には六ヘクタールを耕作する。


 異常時には一ヘクタールへ縮小する。


 会社員時代に使っていた言葉なら、縮退運転だった。


 設備の一部が使えなくなった時、すべてを停止するのではなく、重要な機能だけ残して規模を縮小して運転を続ける。


 農業にも使える。


 男はこの言葉を気に入った。


 外の田は収入のため。


 中の田は生活のため。


 役割を分ければいい。


 米がある。


 野菜もある。


 水もある。


 電気もある。


 燃料もある。


 男は一覧表に丸をつけていった。


 そこで手が止まった。


 肉がない。


 魚でもいい。


 とにかく動物性蛋白質が欲しい。


 ため池で魚を飼うことも考えたが、まずもっと簡単なものから始めることにした。


 鶏だった。


 妻に相談した。


「鶏飼おうと思う」


「いいんじゃない?」


 予想外に簡単に許可された。


「いいの?」


「昔いたもの」


 妻にとって、農家で鶏を飼うことには何の違和感もなかった。


 卵が取れる。


 残飯の一部も処理できる。


 糞は肥料になる。


 最後には肉になる。


 夫が考えた理屈とほぼ同じだった。


 ただし最後の一項について、夫婦の理解には大きな差があった。


 男は鶏を飼い始めた。


 面白かった。


 餌をやれば寄ってくる。


 卵を産む。


 畑の野菜くずも食べる。


 糞も出す。


 その糞を発酵させれば肥料として畑へ戻せる。


 米。


 米ぬか。


 野菜。


 鶏。


 鶏糞。


 畑。


 男の好きな循環が、また一つできた。


 問題は数か月後に発生した。


「そろそろ一羽食べる?」


 妻が言った。


 男は鶏を見た。


「……これを?」


「そのためにも飼ってるんでしょう」


 その通りだった。


 男は最初から、月に一羽程度を食肉に回すつもりで計算していた。


 卵を取るだけなら話は別だが、肉まで自給するなら、当然どこかで鶏が鶏肉にならなければならない。


 そのことは理解していた。


 理解していたはずだった。


 男は鶏を一羽捕まえた。


 暴れた。


 手の中で生きていた。


 温かかった。


「……」


「どうしたの?」


「いや」


「締めるんでしょう?」


「うん」


 できなかった。


 男はこれまで、危険なことをまったくしてこなかった人間ではない。


 若い頃には、今の妻や息子には絶対に話せないような速度で山道を走っていた。


 仕事では怒鳴り合い寸前の交渉にも入った。


 チェーンソーで木を倒すことも覚えた。


 コンバインも扱えるようになった。


 しかし、自分の手の中で動いている生き物を、自分の意思で殺すという行為は、それらとはまったく違った。


 怖いというのとも少し違う。


 嫌だった。


 単純に、ものすごく嫌だった。


 結局、妻がやった。


 妻も喜んでやっているわけではない。


 ただ、子供の頃から、それが家畜を飼うということだと知っていた。


 締める。


 血を抜く。


 羽を処理する。


 内臓を外す。


 肉として使える状態にする。


 男は横で見ていた。


 スーパーの鶏肉は、鶏ではなかった。


 少なくとも男の生活の中ではそうだった。


 透明なパックに入った、料理の材料だった。


 胸肉。


 もも肉。


 手羽。


 ひき肉。


 それが元は一羽の生き物であることなど、小学生でも知っている。


 知っていることと、自分で一羽を肉にすることは、まるで違った。


 夕食に、その鶏が出た。


 妻は普通に料理した。


 男も食べた。


 美味かった。


 それがまた嫌だった。


「どう?」


「うまい」


「ならよかったじゃない」


「そういう問題じゃないんだよ」


 妻は笑った。


 男は決めた。


 次は自分でやる。


 翌月。


 できなかった。


 また妻がやった。


 その翌月。


 今度は途中までやった。


 さらに次。


 少し慣れた。


 慣れるという言葉が正しいのか、男には分からなかった。


 嫌ではなくなるわけではない。


 ただ、やらなければ食べられないという事実を受け入れられるようになった。


 それまで男が考えていた自給自足は、ずいぶん綺麗だった。


 太陽光パネルが電気を作る。


 井戸から水が出る。


 田んぼから米が取れる。


 畑から野菜が取れる。


 林から薪が取れる。


 それらを矢印で結べば、一つのシステムになる。


 しかし現実の生活には、矢印の途中に人間の仕事があった。


 米は勝手に袋に入らない。


 薪は勝手にストーブの横へ積まれない。


 鶏は勝手にもも肉にならない。


 そのことを男は身体で覚え始めた。


 それでも懲りなかった。


 ある日の夕食で言った。


「牛も飼えないかな」


 妻の箸が止まった。


「何するの?」


「食う」


「誰が?」


「俺たちが」


「誰が殺すの?」


 男は黙った。


「鶏一羽締められるようになってから言って」


「……はい」


 牛肉の自給計画は、その場で終了した。


 次に問題になったのは風呂だった。


 電気を作れるようになっても、熱を全部電気で作るのはもったいない。


 敷地には林がある。


 しかも、その林が問題だった。


 杉や檜が大きくなりすぎていた。


 中には樹齢百年近いものもある。


 昔なら財産だった。


 妻の母、聡子の実家も林業で財を成した家だったから、大きな杉や檜には価値があるという感覚を持っていた。


 ところが今は事情が違う。


 一本だけ切って売ろうとしても、伐採し、枝を払い、搬出し、運搬する。


 条件が悪ければ、それだけで材木の値段を食ってしまう。


 男は一本試しに伐った。


 売らなかった。


 薪にした。


 聡子は積まれた薪を見て、何とも言えない顔をした。


「それ、檜でしょう」


「そうです」


「昔なら怒られたわよ」


「今なら?」


「運び出す方が高いでしょうねえ」


「ですよね」


 時代が変わった。


 百年かけて育った木を、風呂を沸かすために燃やす。


 贅沢なのか、もったいないのか、誰にもよく分からなかった。


 男は林の木を数えた。


 正確ではないが、処分したい杉だけでも二百本近くある。


 一か月に一本切ることにした。


 一年で十二本。


 二百本なら十六年以上かかる。


「終わらないな」


 男は嬉しそうだった。


 終わらない仕事があることと、締切のある仕事があることは違う。


 今月できなければ来月でいい。


 七十歳になる頃まで遊べる。


 薪ができるなら、給湯にも使える。


 男は薪ボイラーを調べ始めた。


 風呂。


 台所。


 冬場の給湯。


 電気を熱に変えるより、処分しなければならない木を燃やした方がいい。


 また一つ、外から買うものを減らせる。


 妻はもう驚かなかった。


「ゾンビ?」


「いや、これは普通に木が邪魔だから」


「本当に?」


「本当だよ」


 男は少し傷ついた。


 実際、本当だった。


 ゾンビ対策を始めてから困ったことが一つある。


 何をしてもゾンビ対策だと思われるようになった。


 男は林を少しずつ整理しながら、外周の植生にも手を入れ始めた。


 大木は危険だった。


 台風で倒れれば家や倉庫を傷める。


 フェンスの近くに大木があれば、倒木で外周そのものを壊す。


 ならば外周には、もっと低い常緑樹を植えた方がいい。


 サザンカなどは条件に合う。


 昔から庭木や生垣に使われる。


 丈夫で常緑。


 剪定にも耐える。


 密に育てれば目隠しにもなる。


 男は苗木を選んだ。


 そこでまた妙なことにこだわった。


「花、目立たない方がいいな」


 妻が聞いた。


「なんで?」


「外から見て目立つだろ」


「サザンカって花を見る木でしょう」


「内側は咲いてもいい」


「外側だけ?」


「うん」


「誰に見つかりたくないの?」


 男は黙った。


 妻も答えを要求しなかった。


 もう知っている。


 ゾンビである。


 外から見れば、少し高くなった林の中に古い農家がある。


 それだけでいい。


 太陽光パネルがある。


 井戸がある。


 米がある。


 畑がある。


 鶏がいる。


 大量の薪がある。


 そういうことを、わざわざ外から宣伝する必要はない。


 男はそう考えた。


 しかし、その考えを妻に説明すると、また呆れられるので言わなかった。


 その頃には、男の二年間籠城計画はかなり分厚くなっていた。


 電気。


 水。


 米。


 野菜。


 燃料。


 熱源。


 肥料。


 家畜。


 工具。


 交換部品。


 医薬品。


 衛生用品。


 衣類。


 そして防御。


 考えるほど項目は増えた。


 一つ解決すると、次の問題が見つかった。


 水があれば飲めると思っていたら、浄水が必要だった。


 野菜を作ればいいと思っていたら、種をどうするかという問題が出た。


 鶏を飼えば肉が手に入ると思ったら、餌をどうするかという問題が出た。


 薪があれば火に困らないと思ったら、一年間に必要な薪の量を知らなかった。


 農業を始める前の男なら、自給自足という言葉をもっと簡単に使っていただろう。


 米を作って、野菜を作って、鶏を飼って、薪を燃やす。


 それで生きていける。


 実際にやってみると、一つとして勝手には成立しなかった。


 ある晩、男は台所で包丁を研いでいた。


 翌日は鶏を一羽処理する予定だった。


 以前のように逃げるつもりはない。


 それでも気が重かった。


 妻が横を通った。


「嫌ならやめれば?」


「食べるなら、できた方がいい」


「スーパーで買えばいいじゃない」


「今はな」


「またゾンビ?」


「ゾンビじゃなくても同じだよ」


 男は包丁を見た。


「スーパーってすごいな」


 妻が笑った。


「今さら?」


「鶏が肉になって、部位ごとに分かれて、パックに入って、冷蔵されて、いつでも買えるんだぞ」


「そうね」


「電気もそうだし、水道もそうだな」


「そうね」


「米作るのも大変だし」


「それはあなたもやってるでしょう」


「生きるって大変だね」


 五十五歳の男が、今さらそんなことを言った。


 妻は少し考えてから答えた。


「だからみんなで分業してるんでしょう」


 男は手を止めた。


 なるほど、と思った。


 自分が二年間の籠城計画でやろうとしていることは、社会が普段やってくれている仕事を、わずか十二人で代替することだった。


 発電所。


 水道局。


 農家。


 畜産業者。


 食肉処理場。


 運送会社。


 ホームセンター。


 燃料会社。


 廃棄物処理。


 それを全部、この六ヘクタールの中へ押し込もうとしている。


 できるわけがない。


 男はそう思った。


 そして同時に、


 どこまでならできるだろう。


 と思った。


 妻は、夫の顔を見た。


 嫌な顔だった。


 会社員だった頃、難しい案件の資料を読みながら夫がしていた顔だった。


「何考えてるの?」


「別に」


「今、何か思いついたでしょう」


「いや」


「やめなさいよ」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔で分かる」


 男は包丁を研ぎ終えた。


 二年間完全に自給するのは難しい。


 ならば、完全自給を目指す必要はない。


 備蓄できるものは備蓄する。


 作れるものだけ作る。


 壊れにくくする。


 壊れても最低限の機能を残す。


 人数が増えれば生活水準を落とす。


 平時の六ヘクタール農業から、屋敷内一ヘクタールへ縮退する。


 社会を再現するのではない。


 社会が戻ってくるまで、最低限の生活をつなげばいい。


 男の中で、また問題が一つ整理された。


 翌朝。


 男は鶏を一羽捕まえた。


 やはり温かかった。


 やはり嫌だった。


 それでも今度は、妻に渡さなかった。


 ゾンビと戦うより、ずっと難しかった。



       完

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