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私を殺した公女、いまは幼女  ――私以外に、負けるな。

作者: 緋色の雨
掲載日:2026/08/13

 生きるために足掻いた。その行いを正当化するつもりはない。

 反乱の扇動、それに潜入工作や要人の謀殺。

 私はあまりに多くの罪を重ね過ぎた。

 だから――


「貴女の処刑が決まったわ」


 告げられた言葉には驚かない。それよりも、自身を縛る鎖を鳴らしながら顔を上げ、牢の格子越しに声の主をたしかめる。

 薄暗い廊下に、ドレス姿の女性がたたずんでいる。

 私より少し年下くらいの、美しい女性だった。

 ……ようやく会えた。


「貴女が私の宿敵ね、ヴィオラ」

「ええ。こうして相対するのは初めてね、ノクス」


 銀髪に縁取られた小顔に、上品な笑みを湛えている。

 彼女はアルヴェイン公国が生み出した怪物、ヴィオラ。エルディア王国の第一王子派として活躍しており、第二王子派の工作員として暗躍する私の策をことごとく潰した。


 私が捕らえられたのも、他ならぬ彼女との読み合いに負けたからだ。

 情報がたしかなら私より三つ年下。どんな恐ろしい外見をしてるのかと思ったら、まさかこんな、虫も殺せなさそうな令嬢だったなんてね。


「公国の怪物が私になんの用? わざわざ処刑を告げるために来た訳じゃないでしょう?」

「ええ。刑を執行する前に、貴女と話をさせて欲しいと頼んだの」

「話?」

「誰の命令? 黒幕は誰? ――なんて、つまらないことは聞かないわ」


 ……でしょうね。

 ヴィオラならとっくに掴んでいるに決まっている。

 最後にそんなことを聞かれたら、興ざめするところだった。


「――貴女との戦いだけが楽しかった」

「……は?」

「それを伝えておきたかったの」


 一瞬だけ胸の奥が熱くなった。

 あの怪物が、私を認めていたのだと思ったから。


 だけど、その言葉の意味を理解して、心がすーっと冷えていく。


 孤児院育ちの私は、幼くして組織に売り飛ばされた。そうして工作員として育てられ、生きるために様々な犯罪に手を染めた。それを楽しんだことなんてただの一度もない。

 結果を出し続けることでしか、生き残ることが出来なかったから。


 ヴィオラとの戦いだって、いつも命懸けだった。

 なのに、それが……楽しかった?


 私を拘束する鎖が悲鳴を上げた。

 アルヴェイン公王家の第一公女であるヴィオラは、その知謀の他に、権力や財力、そして軍事力と、私が求めて止まぬすべてを兼ね備えている。

 それでも、知略を尽くした戦いだけは対等なのだと、心のどこかで思っていた。


 でも違った。

 私は命懸けなのに、彼女は楽しむ余裕すらあった。

 その事実が、私のプライドを粉々にした。


「厄介な敵よ、貴女は」

「あら、評価してくれるのね、嬉しいわ」


 本当に厄介。

 第一王子派にヴィオラがいなければ、第二王子派は順調に勢力を伸ばしていただろう。私も順風満帆な日々を過ごし、工作員のエースとしての地位を不動のものとしていたはずだ。


 私にとって最悪の敵。

 なのに、彼女は無邪気に笑っている。


「私たち、もっと早くに出会えていれば、友達になれたかもしれないわね」

「冗談じゃないわ」


 考えるより早くに吐き捨てる。

 友達なんて必要ない。少なくとも、私の人生には縁のなかった言葉だ。


「……残念ね。私は本気だったのに」


 ヴィオラは少し寂しげに笑った。

 なによそれ。

 貴女は、私が手にできなかったすべてを持っているじゃない。


「正気とは思えないわね」


 任務を通してぶつかることは多かった。けど、こうして会うのは初めてだ。そんな敵を捕まえて、友達になれたかもしれないなんて、冗談にしてもたちが悪い。

 まったくもって、怪物の考えは理解できないわ。


 そんなことを考えていると、足音が近付いて来て、ヴィオラの隣で止まる。

 新たに現れたのは、執事らしき格好をした黒髪の青年だった。


「公女殿下、そろそろお時間です」


 彼女は小さく頷き、続けて視線を私に向ける。


「最後に、言い残すことはある?」

「……先に行くわ。私の居ない世界で、せいぜい退屈な余生を楽しみなさい」





 これは……カビの匂い?

 遠くから聞こえるのは、子供の声かしら?

 どこか懐かしい……って、おかしい。

 私、死んだんじゃなかった?


 パチリと目を開くと、目の前に板張りの天井が見える。いつか、どこかで見た記憶が……あぁ、そっか。これ、孤児院の天井だ。

 ずいぶんと懐かしいけど、あの雨漏りの跡に見覚えが――っ。


 ……なに、これ?

 天井に向かって伸ばした手が小さい。

 いいえ、小さいのは手だけじゃないわ。身体全体が小さくなってる。まるで子供の頃に戻ったかのように……って、まさか? いや、こんな時こそ冷静に考えましょう。


 走馬灯にしては……意識がはっきりしすぎてるわね。

 そもそも、死にゆく寸前の幻なら、今後のことを考えても意味はないわ。


 だからひとまず、子供の頃に回帰したと仮定しましょう。

 なぜ? 分からない。どうやって? それも分からない。

 じゃあ、いまはいつ?


 身体は軽い――けど、筋肉はついてなくて、いかにも頼りなく感じる。つまり、組織で鍛える前ね。そしてこの手の大きさは……十一、二歳くらいかしら?

 孤児院にいたのは十一歳までだから、いまはちょうどその時期ね。


 そして、この孤児院は腐ってる。

 院長が子供を売り、私腹を肥やす。人身売買の温床になっている。

 子供の行く末は真っ暗だ。


 このままだと、回帰前と同じように、組織に売られることになる。

 組織は私に生きる方法を教えてくれた。戦い方、諜報のやり方、そして情報の扱い方。弱者として食われる側から、他者を食らう側になれたのは組織のおかげ。


 もっとも、それは慈悲じゃない。

 逆らえば殴られ、失敗すれば食事を抜かれ、役に立たなければ始末される。彼らは役に立つ道具を欲し、私は生き残るための技術を求めた。

 その利害関係が一致した結果でしかない。


 そして、その利害関係は――回帰することで失われた。

 私にはもはや、組織に返す義理も、恨みもない。


 つまり、私は自由だ。

 ここから逃げ出し、どんな人生だって選ぶことが出来る。


 だけど、私はヴィオラに負けた。


 幼少期に組織に売られ、工作員として育てられた。私の唯一の特技。その技術だけを頼りに生き抜いてきた。そのプライドをヴィオラに打ち砕かれた。


 私にとっての命懸けは、彼女にとっての娯楽でしかなかった。

 あの敗北を抱えたまま、自由に生きるなんて出来る?


 ――いいえ、出来ないわ。


 私はヴィオラを殺したいわけじゃない。

 地位を奪いたいわけでもない。

 だけど、負けたまま、すべてを忘れるなんて我慢できない。


 私が欲しいのは、ただ一つ。

 あの怪物が本気で組みあげた盤面を、私の一手でひっくり返して勝利すること。

 それを成し遂げたとき、私は初めて自由を謳歌することが出来る。


 まずは、彼女の懐に潜り込もう。彼女のもとで働き、彼女の信頼を得る。そうして彼女が私を信頼して用いたとき、私の裏切りという逆転の一手を突き付ける。

 二度目の人生のすべてを懸けて、ヴィオラに勝利する。


 ……あの子は、それでも楽しかったと笑うのかしら?

 あるいは、私が、私だけが、あのときのヴィオラのように、楽しかったと笑うのかしら?


 たしかめてみたい。

 一度そう思ったら、もう他にはなにも考えられない。


 ベッドから降り立ち、質素なワンピースに袖を通し、考えるのはこれからのこと。


 ヴィオラが暮らすアルヴェイン公国を目指す。

 ただ、ヴィオラの懐に入り込み、表舞台に上がるつもりなら、孤児院で育った私の痕跡は消しておく必要がある。まずは私の記録を書き換え、それから孤児院を脱出しよう。

 ……よし、方針は決まったわ。

 ――任務を遂行する。



 廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。

 振り返ると、赤毛の女の子が微笑んでいた。


 彼女は……あぁ、思い出した。

 ルームメイトのアイシャだ。

 私が寝坊したときは声を掛けてくれて、私の服がほつれたらいつの間にか繕ってくれたお人好し。組織に売られた後もその優しさを捨てられず、それが原因ですぐに死んでしまった。

 もう会うことはないと思っていたけど……そっか、いまはまだ、生きているのね。


「アイシャ、ちょうどよかった。ちょっと教えて欲しいことがあるの」

「ん? アルナが頼みなんてめずらしいね」


 アルナって、誰?

 ……あ、私か。

 ノクスは組織に与えられたコードネーム。この頃の私は、アルナと呼ばれていたんだった。


「たいしたことじゃないんだけど、院長先生はどこにいるのかなって」

「院長先生なら応接間だよ。今日は……その、お客さんが来てるみたい」

「……そう」


 この客というのは、子供を買いに来た顧客のことだ。このままだと今日も誰かが売られていき、人知れずこの世から消えることになる。あまりグズグズしている時間はなさそうだ。

 そう判断した私は、アイシャとの会話を早々に切り上げてその場を離れた。



「鍵は……当然掛かっているわよね」


アイシャと分かれた後、院長室の扉の前へとやってきた。

 周囲を確認し、用意したヘアピンを鍵穴に差し込む。いまの身体能力は頼りないけど、この程度の鍵なら関係ない。わずか数秒で鍵を開け、するりと部屋の中へと忍び込んだ。

 後ろ手で鍵を掛け、部屋の中を見回す。


 机の上にはインク壺や、上質の紙。

 周囲には高そうな調度品が取りそろえられている。


 ……院長室に入るのは初めてだけど、やっぱり贅沢をしているわね。子供の部屋にはなにもないのに、ここは裕福な家の一室と言っても通用する程に。


 ……不愉快ね。

 さっさと目的を果たしてしまいましょう。


 名簿はどこかしら?

 執務机の引き出しを上から順番に漁る。

 書類は……めぼしい物はないわね。

 裏帳簿はもちろん、子供を売買した記録なんかも見当たらない。

 どこか、別の場所にしまってあるのかしら?

 だとしたら――


 部屋を見回した私は、執務机の斜め後ろに絵画が掛けられていることに気付いた。でも、飾るにしては高さが不自然に低い。大きさ的にちょうど……と、当たりだ。

 絵画の後ろに隠し金庫が置かれていた。


 鍵は……ダイヤル式?

 これを正攻法で開けるのはちょっと時間が掛かる。

 だけど、どうせどこかにメモしてあるんでしょう?


 ――ほら、あった。

 金庫を用意しておきながら、鍵を同じ部屋に置く人って多いのよね。そこに貴重なものがあると教えるだけで、逆効果になると思うのだけど。


 まっ、私にとってはありがたい話よね――っと。

 鍵を開けると二冊のノート、それに布の巾着袋がしまわれていた。


 一冊目のノートは……裏帳簿ね。詳細の書かれていない、大きな収入がいくつもある。

 そしてもう一冊は、子供の名簿ね。

 定期的に子供が死亡したり、里親に引き取られたりしていることを示している。


 それ自体は不思議じゃない。でも二つを見比べれば……やっぱりね。大きな収入があったときと数日前後して、必ず子供が里親に引き取られたり、死亡したことになってるわ。

 これは子供を売った証拠ね。


 まずはこの名簿を開いて……と。院長先生の筆跡を真似て、自分の容姿や、拾われたときの状況など、プロフィールを改ざん、三日前に死亡したことにする。


 これで私が消えれば、本当に死んだか、どこかに売られたと判断されるでしょう。

 これで、孤児院育ちのアルナはこの世から消える。



 あとは……小さな巾着袋があるわね。中身は……あら、わりと貯め込んでいるじゃない。金貨がぎっしり。ちょうどいいから、逃走資金を確保しておきましょう。

 数枚の金貨を抜き出してポケットにしまい、残りは金庫の中に戻す。


 他にもなにかありそうだけど、あまり時間を掛けるわけにはいかない。

 名簿を金庫にしまって、帳簿はワンピースの下に隠す。最後に侵入した痕跡を部屋から消して、外に気配がないことを確認、するりと廊下に飛び出した。

 後は部屋の鍵を掛けて……よし。


「……任務完了」


 自然と零れた言葉に苦笑する。

 もう組織の人間じゃないのに、染みついたクセが抜けていない。でも、回帰前の技術が、私をヴィオラのもとへ届けてくれる。だから、まずは孤児院から抜け出そう。



 孤児院から逃げ出すために廊下を歩いていると、背後から足音が追いかけてきた。

 ……院長? いや、足音が軽い。これは子供のものね。

 敵意はなさそうだけど、足音はまっすぐ私に近付いてくる。

 目当ては……私?

 玄関の扉の前、クルリと振り返れば、駆け寄ってくるアイシャの姿が目に入った。私が急に振り返ったことに驚いたのか、アイシャは目を見張って足を止めた。


「アイシャ、どうかしたの?」

「え、あ、その……っ」


 様子がおかしいわ。

 よく見れば、その身がわずかに震えている。


「……もう一度聞くわ。アイシャ、なにがあったの?」

「院長先生が、呼んでるの。私と、アルナを」

「……呼ぶ? 院長室に?」


 おかしいわね。

 侵入がバレたにしては早すぎるわ。


「院長室じゃなくて、客間だよ」


 客間? たしかそこには顧客が……あぁ、そういうこと。

 回帰前、私とアイシャは同じ日、同じ組織に売られた。

 それが奇しくも今日だった、という訳ね。


 だとすれば、アイシャはこのまま死んでしまう。

 回帰前と同じように。


 その流れを絶つには、組織に入るのを止めるしかない。

 つまり、いますぐなんとかしなければ、アイシャの死は避けられない。


 ……それを説明する?

 いいえ、そんな暇はないわ。


 もたもたしていると、院長先生が探しに来る。院長だけが相手なら、いまの私でも切り抜ける自信はあるけれど、騒動を起こすと不測の事態に陥るかもしれない。

 まずはここから逃げ出すのが先決だ。

 そう思って踵を返すけれど、その袖をアイシャに掴まれた。


「……なに?」

「なにじゃないよ。院長先生が呼んでるんだよ」

「ええ、聞いたわ。だから逃げるのよ」

「そんなことしたら怒られるよ!」


 ――困ったわね。

 彼女はたしか、十三歳くらいよね。

 そんな子供が怯えるのは仕方ない。けど、彼女をあやしたり、説得している時間はない。それに、彼女と深く関わっては、名簿を改ざんして、自分が死んだことにした意味がなくなる。


 私はアイシャと違って、他人のために命を懸けるほどお人好しじゃない。だから、さっさと孤児院から逃げるのが正解だ。

 それが分かっているのに、アイシャが私の服を繕ってくれたことを思いだした。


 ……仕方ない。

 彼女を利用する方向に策を練り直そう。


 当面の作戦目標は、アルナが死んだふうに見せかけ、孤児院から脱出すること。

 そのうえで、アイシャを殺させない。


 後は、アイシャに一歩を踏み出す勇気があるかどうか。

 それすら出来ないなら見捨てる。だから、たしかめてみよう。


「アイシャ、貴女、死にたいの?」

「……え?」

「このまま院長先生の言うことを聞いて、無事に明日を迎えられると思っているの?」

「それは、思ってない、けど……」

「けど、じゃない。このままなら、終わるって分かってるんでしょ? なのに、どうして足掻こうとしないの? なにもしないなら、それは運命を受け入れているのと同じよ」

「じゃあどうしたらいいの!? 逃げたって、どこにも行くあてなんてないじゃない!」


 涙をこぼしながら私を睨み付けてくる。アイシャの瞳はまだ死んでいなかった。

 ……うん、いいわね。


 アイシャは分かってる。なんとかしなくちゃダメだって。

 分からないのは、その方法だけ。

 なら、この子は利用できる。


「アイシャ、治安局の場所は分かる?」

「……え?」

「治安局の場所よ。分かるか分からないか、早く答えて」

「えっと、大通りにある兵士が一杯いるところ?」

「分かってるじゃない。なら、そこに駆け込み、これを見せなさい」


 ワンピースの下に隠していた帳簿を取り出し、アイシャに押しつけた。


「え、え?」

「治安局の監査官……いえ、いまは補佐官ね。クラリス補佐官にそれを差し出せば、きっと全部いいようにしてくれるわ。だから、すぐに向かいなさい」


 回帰前の知り合い。彼女なら上手く処理してくれるはずだ。その確信を胸に扉を開けて、アイシャを孤児院の外へと押し出した。

 だけど扉を閉める寸前、アイシャがその扉の隙間に身体を割り込ませる。


「待って! アルナはどうするつもり!?」

「――院長先生が来てる。時間を稼ぐわ」

「そんなっ、出来ないよ。アルナも一緒に逃げようよ!」

「ダメよ。二人で逃げても捕まるわ。いいから先に行きなさい」

「でもっ!」

「アイシャ。貴女が渋れば渋るだけ、私が稼がなくちゃいけない時間が増えるの。私を助けたいと本気で思うなら、いますぐそれを持って治安局へ向かいなさい!」

「そうしたら、アルナも助かる?」

「ええ。だから早くいきなさい!」


 アイシャを押し出して扉を閉めた私は、その扉に唇を寄せた。


「――あっ、院長先生。どうかしたんですか? え、アイシャですか? さっき、部屋で着替えると言ってましたよ。……え、私? 分かりました、すぐにいきます」


 ――扉に向かって、一人で喋り続ける。

 実のところ、院長先生は現れていない。これは扉の向こうにいるアイシャに、私が院長先生を引き留めていると思わせるための演技だ。

 それを続けているとすぐに、外から走り去る足音が聞こえた。


 いい子ね。これで条件は整った。

 後は数分待つだけよ。



 ……そろそろ、アイシャは逃げ切れたかしら?

 これで、アイシャがいまの状況を治安局に伝えてくれる。後は少しだけ騒動を起こして、私が死んだかもしれないと、皆に思わせるだけ。

 頃合いだと、玄関の前でわざと大きな音を立てる。


 それに気付いた院長先生と、その商談相手、それに護衛とおぼしき男が様子を見にやってくる。私はそれを、玄関から外に出ようとする態勢で待ち受けた。


「アルナ、どこへ行くつもりだ!」

「――ひっ」


 怯えた振りをして、孤児院の外へと飛び出した。

 院長先生は……うん、追いかけてきているわね。ここまで計算通り。いくら子供に回帰したとはいえ、でっぷり太った院長先生に捕まったりはしない。

 だけど、彼の横から鍛えた男が飛び出してきた。

 顧客が連れていた護衛ね。


「逃がさねぇぞ、嬢ちゃん!」


 男は声を荒らげて追いかけてくる。

 実際に足が速い。彼を撒くのは難しそうだ。

 でも無理に撒く必要はないし、撒くつもりもない。


 そもそも、いまの彼に私を捕まえる気はない。

 こんな人目のある表通りでそんなことをすれば、たちまち憲兵が駆けつけてくる。だから彼の目的は、私を狩人のように追い立てて、逃げる気力を失わせること。

 あるいは、人気のないところへ逃げ込むように仕向け、人知れず捕まえることだ。


 そしてこの状況は、私にとって都合がいい。

 私が怪しい男に追われていたと、治安局に伝わる可能性が高まるから。

 だから彼の思惑に乗った振りを続け、街の外れにある橋の下へと逃げ込んだ。


「ようやく追い詰めたぞ」


 目の前には橋の下を流れる大河。そして背後には屈強な男。


「こ、来ないで!」


 胸の前で拳を握り、怯えた風に後ずさる。

 そうして向かうのは、堤防の縁。


「諦めて大人しくしな」

「や、やだ」


 ずるずると後ずさる。その足の裏で、堤防の縁にある急斜面を確認した。

 そして――


「あ、おい! それ以上は――」

「え? ――ひゃっ!?」


 堤防の縁で足を滑らせた振りをして、背中から大河に身を投げ出した。

 水が全身を包み、服が身体に纏わり付く。


「た、助け――ごぼっ」


 バシャバシャと水を叩いて溺れている振りをする。でも、組織で鍛えられていた私は服のまま泳ぐことくらいなんでもない――はずだったんだけど、思ったより水の流れが速いわね。

 もしかして、増水してる? 昨日、雨だったの?

 失敗した。

 回帰した私にとって、前日は十年くらい前のことだ。

 十年前の天気なんていちいち覚えていない。


 それでも、回帰前の私なら、この程度の流れは問題ない。でも、いまの私は十一歳の身体だ。ここにきて、回帰前といまの、身体能力の差、認識のずれが影響した。


 溺れてる振りをしてる場合じゃない。

 ――っ!?


 流木が迫っている。

 とっさに身体を捻る――が、肩にぶつかった。バランスを崩し、水の勢いに押し流される。


 ……痛い。

 マズいわね。痛みで意識を失いそう。流れに逆らって泳ぐのは無理ね。このまま流れに逆らわず、岸を目指さないと本当に溺れ死ぬわ。

 大丈夫、落ち着きましょう。

 限界を超えた状況だって、私ならなんとかできるわ。



「――はっ、はぁ。久しぶりに、組織の訓練を思い出したわ」


 クリアできなければ死ぬ。そんな課題をいくつもこなしてきた。

 その経験がギリギリのところで私を生かしてくれた。私はなんとか岸にたどり着く。


「……追っ手は? 大丈夫、そうね」


 五分くらい流されたかしら? 迫真の演技、どころか本当に溺れた。さすがに死んだと思ってくれたようだ。しばらく息を潜めていたけれど、追っ手が探しに来る気配はない。


 人が一人溺れたって言うのに薄情ね。

 いや、彼にとっては、購入前の商品が一つ、壊れた程度のことなんでしょうね。

 ……と、さすがに冷えてきたわ。


 いまが冬じゃなくてよかった。

 もし冬なら、さすがにこんな方法は選べなかったもの。


 岸から這い上がり、素早く人目のつかない橋の下へと移動。そこでワンピースを脱いで、硬く絞って水気を取った。


 これで凍えることはないわ。後は……そうだ、金貨。

 ……よかった、ポケットに残ってる。

 当面の生活は大丈夫ね。


 私は身体の熱が逃げないように膝を抱え、服が乾くのを待ちながら今後について考える。


 これで、私は死んだ。最悪でも、人買いに連れていかれたと思われたはずだ。プロフィールも微妙に改ざんしたから、私にたどり着く人間はいないはずよ。


 これで第一段階は完了ね。

 次は、ヴィオラに接近するための計画を立てる。


 彼女が暮らすアルヴェイン公国は、エルディア王国に囲まれた小さな封国だ。エルディア王家の血を引く公王家が治めているので、国境を越える必要もない。

 いまの私でも、たどり着くことが出来る。


 問題は、どうやって彼女に近付くか、よね。いきなり部下になるのは無理だから、最初は……そうね。まずは見習いメイドとして潜り込むのが無難かしら?

 公王家のメイドともなれば、審査も厳しいはずだけど――ま、そっちはなんとかなるでしょ。


「くしゅんっ」


 ……ひとまず、今日の宿を探しましょうか。




 あれから、古着屋で身だしなみを整えた私は、乗合馬車を使ってアルヴェイン公国へと移動。職探しでよそから流れてきたメイドと偽って宿を取った。

 そうして、ヴィオラに近付くための計画を進める。

 そんなある日、気になる新聞の見出しを見つけた。


『孤児院の闇』


 ……あの孤児院の記事ね。

 人身売買で摘発されて、院長が逮捕されたと書かれている。

 本人は人身売買を否定してるみたいだけど、詳しく調査されたらアウトでしょうね。子供は一人が行方不明。保護された孤児の数は……うん、合ってるわね。

 あの時点で孤児院にいた、私以外の全員が保護されているわ。


 こっちは……保護された子供のコメント?

 ……ふふっ。


 友達が私を助けてくれたように、私も誰かを助けられるような人になりたい、か。


 書いたのはアイシャでしょうね。

 やっぱり強い子よ、貴女は。


 回帰前と同じなら、アイシャは死ぬ定めだった。

 でもそれは、組織の非情なやり方がアイシャに合わなかったからだ。


 これからどんな人生が待っているかは誰にも分からない。けれど、自分の力で未来を勝ち取ったアイシャなら、きっと素敵な大人に成長するはずだ。

 それを見られないのは少し残念ね。だけど、生きていればいつか出会うこともあるだろう。


 それじゃ――そろそろ次のフェーズに移りましょうと、一枚の手紙を用意した。まえに勤めていたお屋敷で書いてもらった紹介状――の、偽造品だ。

 年齢も十五歳として、名前もノクスに変えた。


 私はそれをもって、街にあるギルドを訪れた。

 そこで偽造した紹介状を使い、メイドの求人を紹介してもらう。そのリストの中に、アルヴェイン公王家の離宮が出しているメイドの募集を見つけた。


 離宮の主は、亡きエレオノーラ第一公妃の娘――ヴィオラ。彼女は権勢を振るうベアトリス第二公妃によって、本宮から遠ざけられている。

 落ち目の公女。

 そんな政治背景から募集条件が緩く、私は問題なく面接資格を得ることが出来た。



 翌日の正午前。

 身だしなみを整えた私は、アルヴェイン公王家の離宮を訪ねた。

 壮麗な門の前には、二人の兵士が立っている。


「何者だ?」

「メイドの求人を見てきました。こちら、ギルドでもらった書類です」

「そうか。なら、あそこに見える裏口から入り、右の廊下の一番奥がメイド長の部屋だ」

「……え?」


 内容を確認しなくていいの? というか、一人で向かえってこと? 兵士が二人いるのに、中に連絡をすることもなく、見張ることもなく、屋敷の中に好きに入れって?

 ……正気?


「どうした?」

「い、いえ。かしこまりました」


 取り繕って敷地内に足を踏み入れる。

 あぁ、びっくりした。

 思わず態度に出すところだった。なにかの罠? それとも、これも試験の一環? この状況で妖しい動きをするか、こっそり監視されてる、とか?

 その割に、私を見張るような気配はないけど。


 でも、普通に考えて、ヴィオラに仕える兵士が無能なんてあり得ないわ。

 油断は禁物。気を引き締めていきましょう。



 ……着いちゃった。

 なにか仕掛けてくると覚悟していたのに、なんの問題もなくメイド長の部屋に着いた。扉をノックすると、三十歳くらいの落ち着いた様子のメイドが出迎えてくれる。

 彼女は私の頭の上を見回して、それから足元にいる私に気付いて視線を落とした。


「貴女が求人に応募してきた娘ね。ずいぶんと幼いようだけど……」

「身長が伸びなくて。でも、歳は十五になります」

「十五ですか? とてもそうは見えませんが……」

「身長は低いですが、仕事は問題なくやれます」


 胸を張れば、メイド長は「やる気はあるようですね」と頷いた。


「ひとまず中へ、そこで詳しい話を聞かせてくれますか?」

「かしこまりました」


 彼女の後に続いて部屋の中へ入る。


 メイド長というだけであって、部屋は一般的なメイドの部屋より広いわね。

 でも……思ったよりも質素だ。

 お湯を沸かす魔導具なんかはあるけれど、それ以外にはほとんどなにもないじゃない。メイド長の部屋なら、もう少し調度品なんかがあってもおかしくないのに。

 これなら、院長の部屋の方がお金を掛けているわね。

 ヴィオラってまさか、部下に報酬を支払わないタイプ?


「こほん」


 っと、いけない。

 この状況で辺りを見回すのは失礼ね。


「今日はお時間を取ってくださり、ありがとうございます。私はノクスと申します。フィルベルク子爵家で一年ほど働いていました」


 アルナは死んだ。

 いまの私はノクス。働いていた前の職場、フィルベルク子爵家が没落してなくなったため、新たな職を探して公国に流れてきた十五歳の娘だ。


「前の職場では、主になんの仕事をしていましたか?」

「色々です。大抵のことは出来ますから」

「……え?」


 メイド長がぱちくりと瞬いた。

 っと、この年でその発言は少しマズかったわね。


「失礼しました。前の職場では、メイドの仕事が細分化されていなかったものですから」


 これは言い訳。

 だけど信憑性のある話だ。


 上位貴族なんかは、各仕事に特化した使用人を雇うのが普通だ。けど、下級貴族の家では、数人のメイドに、すべての仕事を持ち回りでさせる、なんてことも珍しくはない。

 没落したフィルベルク子爵家も後者だった。


「なるほど。では、まずは紅茶を淹れてくれますか?」


 あぁ、それでお茶を沸かす魔導具が部屋にあったのね。

 貴族の家になら当たり前のようにあるけれど、一般的な家庭で目にする機会は少ない。これがお湯を沸かす魔導具だと分かるかどうかが最初の試験、と言ったところかしら。


「そちらの魔導具を使わせていただいても?」


 私が問うと、メイド長はふっと表情を和らげた。


「使い方が分かるなら、そこにあるものはすべて使ってかまいません」

「かしこまりました」


 魔導具のまえに立つ。

 緊張は……とくにしないわね。工作員として、何度もメイドの振りをしたことがある。紅茶を淹れるくらいならお手の物よ。

 私は手際よく紅茶を用意、メイド長の前に差し出した。


「所作は申し分ありませんね。味も……合格です」


 紅茶を飲んで、ほうっと息を吐く。

 メイド長は私に向き直った。


「ノクスといいましたね。いつから働けますか?」

「宿を引き払えばすぐにでも」

「では、明日から住み込みで働いてもらいます。まずは給仕見習いとして働きなさい。そこで様子見をした後、問題なければ正式に雇いましょう」

「ありがとうございます」


 よし、第二関門もクリアよ。

 メイド長に挨拶をして、部屋の外へ出る。

 ――っ。


 廊下に、まだ十歳にも満たないような、小さな女の子がたたずんでいた。

 細かいウェーブが掛かった銀色の髪にアメシストの瞳を持つ、可愛らしい女の子。私の記憶よりもずいぶんと幼いけれど、その容姿にはあの日に見た面影がある。

 彼女は――と、驚く私の背後から、メイド長が顔を覗かせた。


「――これはヴィオラ公女殿下。このようなところにいらして、どうかなさったのですか?」


 やっぱり、彼女はヴィオラだ。

 私を圧倒した怪物が、まだ八歳の、あまりに幼い姿で私のまえにいる。


 いまなら、彼女を手玉に取ることだって出来そうだ。

 ……いや、慢心はダメね。

 その愛らしい外見に騙されちゃいけない。


 ここは彼女の城。油断をすれば瞬く間に食われる。


 でも……なぜ彼女がここにいるの? ただの偶然? あるいは、私が怪しまれるようなミスをした? それともまさか、彼女にも私と同じように回帰前の記憶があるの?


 分からない。

 だけど、たとえどんな理由だったとしても、彼女は決して侮っていい相手じゃない。緊張していることを悟らせる訳にはいかないわ。

 逆に背筋を伸ばし、堂々と頭を下げた。


「初めて見る顔だね。新しい使用人なの?」


 ヴィオラはメイド長に視線を向け、コテリと首を傾げた。


「彼女はノクス。フィルベルク子爵家にメイドとして仕えていたそうです。すべての業務を受け持っていたとのことですので、ひとまずは給仕見習いとして働いてもらうことにしました」

「そうなんだ。私はヴィオラ、よろしくね」


 無邪気に笑う。

 ただの可愛らしい子供にしか見えないわね。

 でも、そんなことはあり得ない。偽装も完璧ということでしょうね。

 だけど、偽装しているのは私も同じだ。


「もったいないお言葉です。こちらこそ、よろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げた後、「準備もありますので、これで失礼いたします」と笑ってみせた。ヴィオラがなにか答えるより早く、踵を返して一歩を踏み出す。

 何事もない。大丈夫、このまま立ち去ればいい。

 そうして二歩目を踏み出すが――


「――そうだ」


 ヴィオラが声を上げた。

 ……やっぱり、このまま立ち去らせてはくれないか。

 探りを入れられると分かっているけど、ここで無視するのは得策じゃないわ。


「……どうか、なさいましたか」


 クルリと振り返り、軽く首を傾げて見せた。


「あのね。最近、香水に興味があるの」

「まあ、そうなのですね」


 なんて、あり得ないでしょ。

 私の知る限り、回帰前のヴィオラが香水を使っていたという情報はない。私の最期を見届けに来たときも、彼女はなんの香りも纏っていなかった。

 興味があるなんて嘘をついて、なにを探ろうとしているの?


「それでね。フィルベルク子爵夫人がどんな香水を好んでいたのか教えて欲しいなって」


 ……なるほど。フィルベルク子爵家で働いていた人間しか知らないようなことを聞いて、私の経歴の裏を取ろうとするなんて、やっぱり貴女は油断ならない女よ。


「フィルベルク子爵領では、特産品のローズマリーを使った香水が有名でした。若い娘にも人気なので、お嬢様も好まれるかもしれませんね」


 微笑みを一つ。

 ただ――と付け加えた。


「夫人は強い香りを嫌っておいででしたので、香水を付けることは滅多にございませんでした。立場上、そのことをあまり口外はなさっていなかったようですが……」

「へぇ、そうだったんだ。教えてくれてありがとう」


 白々しい。

 どうせ知っていたんでしょう?

 でもいまは、彼女の反応に合わせるのが得策よ。


「お役に立てたのならよかったです」


 そつなく答え、顔に笑みを張り付かせる。

 さあ、これで終わり? 終わりよね。


「それでは、これで失礼します」

「あ、ちょっと待って」


 またしても呼び止められた。


「……はい、なんでしょう?」

「えっと……その、これからよろしくね!」


 視線を泳がせた後、意を決したようにそんな言葉を口にした。

 ……可愛いわね。

 あの美しい怪物が、幼少期はこんなにも無邪気だったんだ――って、危ない。演技だと分かっているはずなのに、思わずこれが素なのだと騙されそうだ。


 もしかして、警戒させておいて、ただの挨拶で油断させるところまでが策略?

 それに、よろしくってなに? 私を疑ってる? それともただの探り? こうして警戒することこそ、彼女の術中にはまっているのかしら?

 いや……落ち着こう。

 怪しまれるような行動はとってないはずよ。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 そつなく挨拶をして、今度こそ、彼女の前から撤退した。



 ……あ~、焦った。

 まさか、面接の日からこんなふうに仕掛けてくるとは思わなかったわ。油断ならないと言いながら、心のどこかで油断していたのね。

 まだ幼い、八歳の彼女なら、それほど恐れる必要はない、と。

 思い上がりもいいところよ。


 彼女はアルヴェイン公国が生み出した怪物。

 私を殺した最強の敵。それを思い出した。

 だから、もう二度と、その愛らしい外見に騙されたりなんてしないわ。



 翌朝、宿を引き払った私は離宮の敷地へと足を踏み入れた。

 今日から、ここが私の職場だ。


 ヴィオラの暮らす離宮で、使用人として働くことになる。

 油断はできない。

 まずはメイドとしての仕事を続け、ヴィオラから信頼を勝ち取るのが当面の目標だ。私は昨日と同じように門を抜け、メイド長の部屋を訪ねた。


「おはようございます、メイド長」

「来ましたね、ノクス。ついてらっしゃい」


 彼女の後に続き、離宮の長い廊下を歩く。

 使用人の部屋がある区画。一番手前の扉の前でメイド長が足を止める。そこで彼女がノックをすると、ほどなくして若いメイドが顔を出した。


「メイド長? どうかしましたか?」

「メイドの補充です。まずは給仕見習いとして様子を見るので、貴女が面倒を見なさい」

「私が、ですか?」


 メイドの髪がわずかに揺れる。厄介ごとを押しつけられた、という感じね。でも、それを態度には出さない。その辺の分別はあるのでしょうね。

 門番の勤務態度が酷かったから、このメイドがまともそうで少し安心したわ。


「なにか問題はありますか?」

「いいえ、ありません」

「では、後は任せました」


 メイド長は最後に私を見て、わずかに表情を曇らせた。


「ここで働く以上、辛いことにも直面するでしょう。ですが……いえ、これは私が口にすることではありませんね。今日からがんばりなさい」


 そんな言葉を残して去っていった。

 なんだか、すごく気になる言葉ね。

 だけど、望むところだ。

 ヴィオラが暮らす離宮で、平和な日々が始まるなんて思っていない。


 何気ないふうを装い、私の面倒を任されたメイドの姿を確認する。

 歳は二十歳くらいかしら? まだ若いけど、新人を任されたことに対する気負いはなさそうね。新人教育を任されるのはこれが初めてじゃない、と言ったところかしら。


 大人しそうではあるけれど、さっきの態度を見るに、猫は被ってそうだ。

 ブラウンの髪は肩に掛かる程度で綺麗に揃えられていて、身だしなみに気を遣っているのが分かる。恐らく、中堅のメイドと、いったところでしょうね。

 そのメイドが、私を見て小さく息を吐いた。


「……それで、貴女は?」

「私はノクスといいます」

「そう。じゃあノクス。私はセレーネよ」

「はい、セレーネ先輩」


 少しだけ親しみを込めて呼ぶと、彼女の顔に笑みが浮かんだ。

 この娘――思ったよりチョロい。



「へぇ、まえはフィルベルク子爵家で働いてたんだ。いま何歳なの?」

「十五歳です」

「そうなんだ。十、十一歳くらいだと思ってた」


 正解。

 でも、あり得ないと言いたげに笑う。


「あはは。さすがにそんな歳から雇ってはもらえませんよ」

「それもそうね。でも、さすがに小さすぎない? ちゃんと食べてる?」

「母も小さかったので。でも、仕事でご迷惑は掛けません」

「ふぅん? ならいいけど」


 自分で聞いておいて、あまり興味はなさそうね。移動中の場を持たせるための世間話、といったところかしら? やっぱり、取り繕うのは得意そうだ。


「じゃあ先輩は? ここに来て長いんですか?」

「四年ほどよ。ヴィオラ公女殿下が離宮に移るのと同時に雇われたの」

「すごい、古株じゃないですか」

「だーれーがー古株よ。私はまだ二十歳よ」


 コツンと指でおでこを突かれ、「す、すみません~」と情けなく謝った。

 ここまで全部演技。


 それにしても、思いのほか興味深い話が聞けたわね。

 セレーネの話が事実なら、ヴィオラがこの離宮に移ったのは四年前――つまり四歳の頃。ずいぶん幼少期から父と別々に暮らしていたのね。


「――それで、あっちが使用人用の大浴場。あっちは食堂ね。厨房はその奥。公女様の食事を作るのも同じ厨房だから、気を付けなさい」

「分かりました」


 ――って、え?

 考え事をしていたせいで、思わず聞き流すところだった。


「公女様の食事を、使用人のと同じ厨房で作るのですか?」

「そっ。一応、スペースは分かれているけどね」


 それは珍しいわね。

 もちろん、そういう屋敷も少なくない。ただ、ヴィオラは公王家の第一公女だ。そんな彼女の食事が、使用人と同じ厨房で作られるのはかなり異例よ。

 同じ厨房を使う利点より、毒殺なんかを警戒する手間の方が大変だもの。

 それとも、その必要がないと思われている……?


「なにか理由が……」


 それ以上は口にしなかった。

 セレーネが、厳しい顔で私を見つめていたから。


「一応忠告しておくわね。あまり深入りしない方がいいわよ」

「――それは、どういう?」


 危ない。

 考え込んでいたから、思わず過剰な反応をするところだった。


「深い意味はないわ。ただ、離宮には離宮のルールがあるの。それが分からないうちは、余計なことに首を突っ込まない方がいいよってだけ。ここで、長く働きたいのならね」


 警告? いや、ただの忠告かしら?

 どちらにせよ、彼女の言葉はもっともね。組織では、好奇心が旺盛な子から死んでいったもの。


「ご忠告に感謝します」

「分かればいいのよ。それじゃ、さっそく仕事をしてもらうわ」


 彼女に従い、仕事を開始した。

 セレーネに習いながら、食器を下げたり、テーブルクロスを交換したりする。この手の仕事は慣れている。そつなくこなしながら、さっきのセレーネのセリフについて考えた。


 あの手のセリフは、諜報員として活動してたときに何度も聞いたことがある。大抵は、なんらかの不正があって、それを追及するな、という警告として聞かされた。

 もしそうだとするなら、この離宮で不正が発生している、ということ?

 ヴィオラが住まう、この離宮で?


 あり得ない話……でもないわね。


 アルヴェイン公王家は経済成長が著しく、封国でありながら、宗主国たるエルディア王国に対して大きな影響力を持っている。ゆえに、エルディア王国の王位継承者候補である第一、第二王子から、自らの陣営に加わるように迫られていた。


 それでも中立を保ちたいアルヴェイン公王は、両派閥の有力貴族から一人ずつ娘を娶った。第一王子派を後ろ盾に持つ第一公妃と、第二王子派を後ろ盾に持つ第二公妃だ。


 そうして中立を保っていたのだが、いまはそのバランスが崩れつつある。

 第一公妃のエレオノーラが亡くなったから。


 そうして残された第一公妃の娘、ヴィオラは離宮に追いやられた。

 それがいまの現状。


 ヴィオラが大人しくやられるなんてあり得ない。実際、回帰前の彼女は第一王子派の中核として、アルヴェイン公国の次期公王として、その猛威を振るっていた。


 とはいえ、彼女もまだ八歳だ。いくら頭がよくても、権力や人脈は足りていないだろう。

 実際、彼女が本宮に戻り、その地位を取り戻したのはもう少し先だ。


 だから、この離宮の有様は、ヴィオラが手を入れる前、ということなんでしょうね。ヴィオラはきっと、この離宮を正すことで成長し、後の怪物へと至る足掛かりにする。

 なら、私はそれの邪魔をしない。


 私が勝利したい相手は最強の怪物。力を付ける前の彼女に勝利しても嬉しくもなんともない。

 だからまぁ……彼女がかつての地位を手に入れるまでは様子見ね。

 まずは、彼女が華麗に敵を排除する断罪劇を、特等席で見物させてもらいましょう。



 朝起きて基礎トレーニングをこなした後、メイドとしての仕事をこなす。そうして部屋に戻ると、留守中に侵入した者がいないか仕掛けを確認する。

 そんな日々を続けて、そろそろ一週間が経つ。

 給仕見習いになった私だけど、仕事に慣れてくると他の仕事も任されるようになった。


「ノクス、私の代わりに図書室とかの掃除もやっておきなさい!」

「はい、分かりました」


 ……訂正。

 他の部署の、金髪ツインテールのメイドに仕事を押しつけられるようになった。

 ちなみに、セレーネの同期だそうだ。

 まったく、アルヴェイン公王家の使用人が聞いて呆れるわ。


 言い負かすのは簡単だけど、色々な場所に出入りする口実が得られるのはありがたい。という理由で、大人しく従う振りをしている。

 でも、使用人たちの勤務態度がよくないことは気に入らない。


 だってそれって、ヴィオラが舐められているってことでしょ? 本宮から追いやられた前妻の娘を相手に点数を稼いでも意味がない――って感じで。


 私を殺した唯一の相手が舐められるのは気に入らない。

 だけどまぁ……時間の問題よね。

 ヴィオラほどの怪物が、自分を侮る相手を放置する理由なんてない。

 どう考えても、なんらかの理由で泳がせているだけだ。


 でも、その『なんらかの理由』が分からないのよね。

 そんなことを考えながら、掃除道具を持って移動する。そこでセレーネと出くわした。彼女は私が両手に抱える掃除道具を見て溜め息をつく。


「ノクス、また掃除を押しつけられたのね。私から言ってあげましょうか?」

「ありがとうございます。でも大丈夫です」


 その方が都合がいいとは言えなくて、私は曖昧に笑う。


「もう、ノクスは優しすぎるのよ。嫌なときは断らないとダメよ?」

「……そうですか? じゃあ次はそうします」

「ん、分かったならいいわ。本当は手伝ってあげたいけど……」


 セレーネの両手には、テーブルクロスが抱えられている。


「気持ちだけで大丈夫です」

「そう? ごめんね。本当に困ったら相談しなさいよ?」


 セレーネは何度も振り返りながら去っていった。

 それを見送った後、客間やリビング、それに食堂と、順番に掃除をしていき、続けて図書室に入る。けれど、そこで掃除をしようとすると既に先客――ヴィオラがいた。

 彼女は熱心に分厚い本を読んでいる。


 ……ページをめくる速度が尋常じゃないわね。

 この歳で、もう速読を身に着けているの?

 さすがはヴィオラね。なんの本を読んでいるのかしら?

 表紙に視線を落とすと、ヴィオラがハッと顔を上げた。


「――誰? 貴女は……ノクスだ!」


 無邪気に笑う姿は幼い女の子にしか見えない。でも、彼女が顔を上げる一瞬だけ警戒心を露わにしたのを私は見逃さなかった。


 私だと知って警戒心を解いた? それとも、警戒心を隠した?

 どっちもありそう。

 相手の思惑が分かるまで、当たり障りのない反応を返した方がよさそうね。


「ヴィオラ公女殿下、読書の邪魔をしてしまって申し訳ございません」

「かまわないけど……もしかして掃除? 貴女は給仕見習いだったはずだよね?」

「よく覚えていますね」

「うん、一度聞いたことだからね」


 ヴィオラは笑って、「それで、どうして?」と首を傾げた。

 無邪気に見えるけど、追及は止めようとしないのね。

 だったら――


「先輩に頼まれちゃいました」


 にへらっと笑う。

 押しつけられたでもなく、自主的に仕事をもらったのでもない。あえて曖昧な言葉を使ったのは、ヴィオラの反応を見たかったから。

 果たして――


「そうなんだ。ノクスは優しいんだね~」


 当たり障りのない反応ね。

 でも、それは不自然よ、ヴィオラ。


 貴女ほどの天才が、先輩メイドが後輩に仕事を押しつけた可能性に気付かないはずがない。なのに当たり障りのない反応をするなんて、あえて見逃していると言っているようなものじゃない。


 やっぱり、意図的にこの状況を放置しているのね。

 ――なら、私もそれに付き合うとしましょう。


「ところで、ヴィオラ公女殿下はお勉強ですか?」

「うん、アルヴェイン公国の歴史について調べてたの!」

「歴史、ですか?」

「そうだよ。この本の――ここ」


 分厚い本をパラパラとめくり、迷うことなく一点を指差した。

 ……たしかに、アルヴェイン公国の起源について書かれているわ。まさかこの子、どこになにが書かれているか、ページと行数を記憶してるの?


「……ヴィオラ公女殿下は記憶力がいいんですね」

「そうかな? 一度見たことは忘れないけど……それくらいだよ?」


 なにがそうかな? よ。まるで自覚がないわね。

 それって瞬間記憶能力じゃない。それの所持を、当然のことのように語るんじゃないわよ。


「ヴィオラ公女殿下は、ものすごく記憶力がいい部類だと思いますよ」

「うぅん。でも、よく先生に間違えて覚えてるって、怒られるんだよね」

「……なぜですか?」


 普通に考えてありえない。というか、ヴィオラが先生に怒られる、という光景が想像できない。誰かを罠に掛けて、その相手に怨まれる。ならありそうだけど。


「あのね、覚えた本の内容が間違ってたの」

「……あぁ。それはなんとも……」


 お粗末な――と、喉元まで込み上げた言葉は飲み込んだ。

 でも、それはヴィオラの責任じゃないわね。

 むしろ、その本を用意した相手が悪い。


「その本はどこから持ってきたんですか?」

「ここの本棚だよ。お父様が用意してくれたの」


 ……ん?

 おかしいわね。


「アルヴェイン公王陛下の用意した本の内容が、間違っていたのですか?」

「そうみたい。ナタリア――あ、家庭教師をしてくれている侍女のことだけど、そのナタリアに、その本は間違っているから、こっちを使いなさって言われたの」


 ヴィオラはもう一冊の本を開き、さっきと同じように一点を指差す。

 ……こっちもアルヴェイン公王家の起源についての記述があるわね。

 だけど、これは――


「そこのメイド、ここでなにをしているの!」


 甲高い女性の声。

 どうやら少し深入りしすぎたらしい。


 セレーネの警告が脳裏をよぎる。


 ……でも大丈夫。

 いまならごまかせる。ヴィオラなら、上手く合わせてくれる。

 私は平然を装い、ゆっくりと顔を上げる。

 それとほぼ同時に肩を掴まれ、ヴィオラの前から引き剥がされた。


 乱暴ね。

 でも、武術を習っている者の動きではないわね。誰かしら――と顔を上げると、ドレスで着飾った二十代後半くらいの女性が私を睨んでいた。


 ヴィオラの母は亡くなっている。

 とすると、第二公妃? いや……そうか、彼女が侍女のナタリアね。


 身の回りの世話の他に、アクセサリーの管理なんかもおこなう役職。貴族の娘がほとんどで、主に同行しても違和感のない装いをしている。

 ……にしては、ヴィオラのドレスよりも豪華だけど。


「なにをしているの、と聞いたのよ?」

「失礼しました。掃除中にヴィオラ公女殿下をお見かけして、少しお話をしていました」

「……話?」


 おっと、表情が険しくなった。

 やっぱり、気にしているのはその内容か。

 ここで歴史の話をするのは悪手ね。


「私の担当について話していました」

「担当?」


 どういうことだと言いたげに、ヴィオラを睨む。

 とたん、ヴィオラの肩がびくりと跳ねた。

 ……上手いわね。怯えているようにしか見えないわ。


「あ、あのね。メイド長からは、ノクスは厨房付きのメイド見習いだって聞いてたの。なのに掃除をしに来たって言うから、おかしいなぁ……って」


 少し怯えたように、言い訳がましく説明をする。

 ……ヴィオラは演技まで完璧なのね。完璧すぎて、真相に気付いている私でも、実は本当に怯えてるんじゃないかって、騙されそうだ。


「たしかに、それはおかしいですね。貴女、どういうことですか?」


 おぉ、怖い怖い。

 すっごい睨まれてる。


「その……先輩に頼まれたんです」


 ヴィオラに負けないくらい、少し怯えた演技で打ち明けた。

 ナタリアも、先輩メイドが仕事を押しつけてサボっている可能性に気付いただろう。だが、彼女は、「あぁ……あの子」と呟き、言及はしてこなかった。


 ……こっちも、見逃すのね。

 でもあの子と言うくらいだし、ヴィオラと同じ理由とは思えない。

 ということは……なるほど、あのメイド、この女の手駒なのね。


「それでヴィオラ様とお話を? 他になにか話しましたか?」

「いいえ、とくには。来たばかりですから」


 ナタリアは険しい顔で私とヴィオラを見比べ――やがて小さく息を吐いた。それから、思い出したように私のことを睨み付ける。


「この時間の図書室は、ヴィオラお嬢様の授業に使います。今後は近付かないように!」

「は、はい! 申し訳ありませんでした!」


 逃げるように図書室から退出。

 一定の速度で廊下を歩き――角を曲がったところで足を止めた。


 周囲に人影はなし。尾行も……なさそうね。


 ふう、久しぶりに焦ったわ。

 あの教科書の内容を見たと知られたら、今夜にでも事故死させられていたところよ。


 ……まったく。

 公王の娘に間違った歴史を教えるなんて……とんでもないわね。


 二冊の歴史書。

 私が目にした部分には、アルヴェイン公王家の起源が書かれていた。


 初代のアルヴェイン公王は、エルディア王国の当時の第一王女だ。幼少期からその才覚を発揮して、次期国王になることが確実視されていたが、彼女は女王にならなかった。

 とある商会の息子と恋に落ちたから。


 結果的に、彼女は商会の息子と結ばれ、王から与えられた土地で、初代アルヴェイン公王となった。その、基本的な流れはどちらの歴史書も同じだった。

 ただ、解釈が少しだけ――けれど、致命的な部分で違っていた。


 アルヴェイン公王が用意した歴史書には、当時の王が、娘の才能を埋もれさせないために、土地を与えた、というふうに書かれていた。


 恐らく、それは事実でしょうね。

 アルヴェイン公王家のいまが、それを物語っているもの。


 だけど、ナタリアが用意した歴史書は違う。

 愚かな女王は封国に追いやられた――というような解釈が書かれていた。


「あれを聞いたら、アルヴェイン公王家の人間はさぞ怒るでしょうね」


 父の前で、あるいは家臣の前で、ヴィオラがあの内容を口にすれば、彼女の次期公王の地位すら危うくなる。恐らく、ナタリアの狙いはそれだ。


 でも、侍女が独断でそんな大掛かりなことをするとは思えない。

 リスクだけあって、得をすることがないから。

 ――つまり、得をする人間がバックにいる。


 第二公妃が怪しいわね。

 第二公妃が、第一公妃の娘、ヴィオラを排除しようとしていると考えれば辻褄が合う。

 要するに、ヴィオラは継母に苛められている、可哀想な娘、という訳だ。


 ……ふふっ。

 ヴィオラが可哀想な娘とか、想像の中でもあり得なさ過ぎて笑っちゃった。


 でも、これでスッキリした。

 ヴィオラがやる気のない使用人を放置しているのは、この件を利用するためね。


 ナタリアがお膳立てした舞台で、ヴィオラが失態を犯す、振りをする。そうしてナタリアや黒幕が騒ぎ立てたところで、自分が侍女にはめられた証拠を提示する。

 そうなれば、公王は徹底的に調査するだろう。

 黒幕もナタリアも、怠惰な使用人たちも、一人残らず一掃される。


 そうして有能さを示せば、本宮へ返り咲くことも容易だろう。


 ヴィオラはそのために、無邪気な子供を演じているって訳ね。自分の幼さすら利用して敵を排除するなんて、やっぱり貴女は怪物よ。


 あまりに演技が上手いから、実は本当に無邪気な子供かも、なんて疑ったりもしたけど。この流れを見た感じ、彼女は敵を一掃するために演技をしているのが正解ね。


 彼女が敵を叩き潰すところを特等席で観ることが出来る貴重な機会。楽しみね――と言いたいところだけど、下手をすると私も一緒に排除されかねないわ。


 なにより、ヴィオラが本宮へ返り咲くなら、私もそれに同行する必要がある。連れていってもらえる程度には、彼女の役に立っておかなくちゃね。

 そのためには……そうね、少しだけ彼女の企てに協力するとしましょうか。



 ヴィオラが断罪劇を企てている。

 でしょうね。というのが正直なところ。


 時期的に考えて、おそらくは彼女の初陣。だけど、彼女が負けるとは思えない。彼女が敵対する勢力を一掃する。そのお手並みを拝見、といったところだ。


 でも、とばっちりで解雇されるのは困る。


 なら、どうすればいいか? こういう状況において、やるべきことは難しくないわ。言われるがままに主人公に有利な証言をする、無害で善人のメイドAを演じればいい。


『あの……私、見ました。あの人が証拠を隠しているところを』


 断罪の場で、目立たない程度に、ヴィオラに有利な証言をする。そうすれば、そこそこ役に立つ味方、という印象を植え付けることが出来る。


 問題は、どうやって都合のいい証拠を押さえるかよね。

 ヴィオラに有利な証拠を押さえるのは難しくないけれど、偶然を装うとなると難しいわ。部屋の金庫を漁ったら、たまたま不正の証拠が見つけちゃいましたなんて、さすがに言えない。


 ……そうね、少し探ってみよう。

 という訳で、方針を決めた私は掃除を再開する。ただし、今度は部屋の中ではなく、廊下の掃除だ。そうして廊下を掃除しつつ、図書室の前に近付くたびに聞き耳を立てる。


 だけど、扉が厚いのか、会話の内容はほとんど聞こえない。

 ……扉に近付いて聞き耳を立てる?

 いや、そんなところを目撃されたら言い訳が出来ないわ。

 ここで焦るのは三流よ。大丈夫、機会は巡ってくるわ。


 そうして目立たないように情報を集め始めて数日が過ぎた。そんなある日、偶然を装って部屋の前を通ると、中からナタリアの金切り声が聞こえてきた。


「なんですか、この解答は! 前回、言いましたよね? こっちの教科書を参考にしろと!」

「で、でも!」

「口答えをしない!」


 パシンと、乾いた音が響く。

 続けて、ヴィオラの「ごめんなさい!」と泣きそうな声が聞こえてくる。


 ……暴力に訴える三流が、始末してやろうかしら?

 いや、あれはヴィオラの獲物だ。彼女のお膳立てを台無しには出来ないわ。そんなことを考えていると、「分かればいいのです」というナタリアの声を最後に、部屋は静かになった。


 ……これ以上の進展はなさそうね。

 それに、重要な情報も手に入った。ひとまずこの場を離れましょう。


 私は掃除用具を片付け、屋敷の隅にあるゴミ捨て場へと足を運んだ。そうして物陰に隠れているとほどなく、周囲を警戒したナタリアがやってきた。

 彼女は周囲を見回しながら、焼却炉の中にゴミを放り込んだ。


 ……予感、的中ね。

 彼女が立ち去るのを見届け、彼女が捨てたゴミ――数枚の紙を回収する。それは、さきほどの授業でおこなったであろうテストの解答用紙と、書き損じのメモだった。


 解答用紙、一枚目は完璧な答えで――すべてにバツが付けられている。そして二枚目はデタラメな答え。なのに、すべてに丸が付けられている。

 欲を言えば、ナタリアの書き込みなんかがあれば、これを採点したのがナタリアだという明確な証拠になったんだけど……ま、そっちはなんとでもなるわ。

 これで、ナタリアがヴィオラに嘘を教えたと証明できる。


「ダメじゃない。証拠はちゃんと燃えるのを確認しなきゃ」


 管理の甘いことだ。この分なら、ヴィオラもとっくに、同じような証拠を用意しているでしょうね。そうなれば、あとは断罪劇が始まるのを待つばかりだ。


 そうして、その日を心待ちにする。そんな私の耳に、本宮でパーティーがおこなわれることが聞こえてきた。しかも、ヴィオラはそのパーティーに参加するらしい。

 最後のピースが埋まった。

 ヴィオラはきっと、そのパーティーで侍女を断罪する。




 パーティーの当日。

 会場は本宮なので、離宮のメイドは平常通り。

 本来であれば、離宮でなにもない一日を過ごすだけのはずだった。だけど、ヴィオラを陥れようと、自ら舞台をお膳立てした者たちがどう破滅するか、それを見逃せるはずがない。


 という訳でパーティーの会場。

 私は本宮のメイドに紛れて給仕をしている。

 ヘルプとして別宅の使用人が招集されたので、少し細工をして紛れ込んだ。


 煌びやかなシャンデリア。

 魔導具の灯りが降り注ぐ会場には、多くの者たちが集まっている。アルヴェイン公国の重鎮はもちろんとして、エルディア王国からも名だたるメンバーが出席している。


 あっちの男はエルディア王国の王族。

 その隣にいるのはガルヴェイン侯爵――ベアトリス第二公妃の父に当たる人物だ。他にも、いまは亡きエレオノーラ第一公妃の実家、フローリア侯爵も出席している。

 それだけでも、いかにこのアルヴェイン公王家が重要視されているかは明白だ。


 第一公妃の忘れ形見、ヴィオラがパーティーに出席する。このパーティーが彼女のデビュタント。公式の場に顔を出すのはこれが初めてだ。

 多くの者が、彼女が次期公王にふさわしいかどうか、見定めようとしている。


 ヴィオラは――いた。

 会場の端っこで所在なさげにしているわね。ここまで来たら堂々としてもよさそうなのに。最後まで、第二公妃や侍女を欺こうというのね。


 まったく、徹底してるわね。

 もう少し、エルディア王国の有力者たちの目を気にしてもいいのに。


 ――いや、こういうときこそ、私が手を貸すべきね。


「ヴィオラ公女殿下、飲み物はいかがですか?」

「ありがとう。いまはいらない……って、あれ? ノクスがどうしてここに?」

「ヘルプで派遣されてきました。それより、そのように所在なさげな態度は侮られますよ。胸を張って、堂々となさってください」


 なんて、普通なら、そんな言葉一つで胸を張れるはずがない。

 でも、不安そうな態度が演技なら――


「あ……うん、ありがとう」


 ほらね。

 ヴィオラは堂々と胸を張った。

 まるで、私の助言の通りにしただけ、と言いたげに。

 そういう名目があれば、ナタリアたちを欺けるという判断なんでしょうね。


「それでは失礼します」


 後は見守るだけ。特等席で見学するとしよう。

 そう思って踵を返す――が、服の袖を引っ張られた。


「ヴィオラ公女殿下?」

「あのね……近くに控えていてくれない?」

「……かまいませんが、ナタリア様はいらっしゃらないのですか?」

「ナタリアは、挨拶回りに行くって」

「……そうですか」


 って、ふざけてるの? たった一人の侍女が、パーティーで主の側を離れてどうするのよ。どう考えても、周囲から叱責を……いや、それもやりようね。


 どうせ周囲にはこんなふうに言うつもりだろう。

 ヴィオラが自分から一人になりたいと言った、とかなんとか。


「では、近くに控えていますね」

「うん、ありがとう!」


 ……あいっ変わらず、無邪気に笑う仕草が可愛いわね。回帰前のクールな振る舞いを見ていなければ、これが素の姿だと騙されるところよ。


『私たち、もっと早くに出会えていれば、友達になれたかもしれないわね』


 ……冗談言わないで。

 このタイミングでどうしてあのときのことを思い出すのよ。


 たしかに、私はヴィオラを認めてるわよ?

 私が勝てないと思った相手は彼女だけだもの。


 でも、ヴィオラは私の命を懸けた策を破り、楽しかったと笑った。私の命懸けが、彼女にとっては遊びでしかなかった。それを理解したとき、私たちは相容れない存在だと理解した。


 ……と、なんだか騒がしくなったわね。

 あれは――ようやくお出ましね。

 三十代半ばくらい。ヴィオラと同じアメシストの瞳を持つ、ブロンドの髪の男性。アルヴェイン公王がヴィオラに向かってくる。

 そして、それに気付いたヴィオラがぴょんと跳ね、目を輝かせた。


「お父様、お久しぶりです!」

「あぁ、久しいなヴィオラ。社交界デビューおめでとう」


 アルヴェイン公王はわずかに目を細め、ヴィオラの頬を軽く撫でた。


「えへへ……あっ、そうだ。お父様、ドレスありがとう!」

「喜んでくれたのなら、贈った甲斐があった、と言うものだ」


 愛らしい子供と、子煩悩の親にしか見えない。

 にしても、ドレスは父親からの贈り物だったのね。

 どうりで、普段の装いと違って、今日は綺麗なドレスだと思った。


 ヴィオラが離宮に追いやられるのを止めないくらいだから、あまり愛情はなさそうだって思ってたけど、意外と可愛がっているじゃない。


「ヴィオラ、今日はそなたに会わせたい者たちがいる」

「会わせたい人?」

「ああ。そなたが私の後継者を目指す上で、友好関係を築かなくてはならない者たちだ」

「……ええっと?」


 ヴィオラが首を傾げると、ここで初めてアルヴェイン公王の表情が曇った。


「ナタリアから習っただろう?」

「……ごめんなさい」

「そうか……まぁいい。こちらに来て挨拶なさい」


 いよいよだ。

 ヴィオラの、華麗な断罪劇が始まる。


 私はヴィオラのお付きとして、少し控えて彼女の後を追いかける。

 合流したのは、ベアトリス第二公妃とその実家の侯爵、ヴィオラの母方の実家であるフローリア侯爵。そして、興味津々の者たちが遠巻きに見守っている。


「皆様、お初にお目に掛かります。アルヴェイン公王の娘、ヴィオラと申します」


 凜とした声で名乗りを上げる。そこに、さきほどまでの怯えた様子はない。

 周囲からも、ほぅっと、感嘆の息が零れた。


 そうして、ヴィオラと重要人物たちとのやり取りが始まる。ヴィオラの所作は美しく、周囲からも好意的な声が聞こえてくる。

 どうやら、ヴィオラはフローリア侯爵からも可愛がられているようだ。母親が亡くなっても、その実家との繋がりは消えていない。それが確認できた意味は大きい。

 彼女のデビュタントは順調な滑り出しかに見えたが――


「――愚か者!」


 しばらく団欒が続いた後、アルヴェイン公王が不意に声を荒らげた。

 ベアトリス第二公妃に誘導された会話の末に、ヴィオラが授業で学んだ歴史を語った。そこで、ナタリアから教えられた嘘、アルヴェイン公王家を揶揄するような内容を口にしたからだ。


「ヴィオラ、おまえはそれでもエレオノーラの娘か」


 フローリア侯爵が眉をひそめる。

 でも、それも無理はないわ。


 フローリア侯爵家は第一王子派。そして、その第一王子は、初代アルヴェイン公王――つまりはエルディア王国の当時の第一王女と同じ系譜を持っている。


 なのにヴィオラは、アルヴェイン初代公王のことを、エルディアの国王に逆らい、アルヴェイン領に封じられた愚かな王女――と、受け取れるような発言をした。


 自分の発言の重要さが理解できないほどの愚か者。

 あるいは、第二王子派に恭順するための、あえての発言。


 どちらにせよ、第一王子派や、母の実家に対する酷い裏切り行為だ。ベアトリス公妃は水を得た魚のように「まあまあ、子供の発言ではありませんか」と仲介をしている。


 でも、私は見たわよ。

 さっき貴女が小さく微笑んだのを。


 ここまですべて、ベアトリス第二公妃の筋書き通りなんでしょうね。

 でも残念。

 ヴィオラは、貴女がこの筋書きを書くことすら、自分の計画に入れていたのよ。


「ヴィオラ。偉大なる初代女王は、当時の王にその才能を惜しまれ、この地を任せてもらったのだ。決して、この地に封じられた訳ではない。なぜ、そのようなことを口にした?」

「え、それは……その……」


 ヴィオラが、助けを求めるようにナタリアに視線を向けた。

 ――そう。

 そこで、ナタリアに教えてもらったと言えばいい。


 もちろん、ナタリアはそれを否定するでしょうね。でも、一度見たことをすべて記憶するその才能を見せつければ、どちらが嘘をついているか証明することはたやすい。

 さあ、華麗な断罪劇を私に見せて。


「……ごめんなさい」


 ……………………え?


 なにを、謝っているの? そんなことをしたら、自分の間違いを認めるようなものじゃない。そんなことをして、なんの意味があるというの?

 それとも、私が彼女の深謀を理解できていないだけ?

 ここから、更にナタリアたちを追い詰める手が……ある?


「謝罪を求めているのではない。理由を聞いているのだ」

「えっと、だから、それは……ごめん、ごめんなさい」


 涙? 泣いてる?

 いや、さすがに演技よね。まさか、泣いて同情を誘おうというの?

 ただの子供ならそれもありだ。でも、次期公王として、正しいとは思えない。


 なにをやっているのよ、ヴィオラ。

 あんな小物、さっさと断罪しなさいよ!


 心がざわめくけれど、彼女は泣きじゃくるばかりだ。

 周囲からも、落胆の声が聞こえてくる。


 ヴィオラが私の上を行く天才でも、この状況が正しいとは思えない。

 だとしたら、まさか……演技じゃ、ない?

 ヴィオラは本当に未熟な子供で、ただただ侍女に騙されて泣いている?


 ……そうだ。

 どうして気付かなかったのかしら。


 回帰前の私は、ナタリアの実家、ローダン子爵家を知っている。ローダン子爵家が、ベアトリスの実家から資金援助を受けていたことを知っている。


 でも、あり得ない。

 こんな派手な事件で断罪されていたら、ローダン子爵家が未来で無事のはずない。つまり、これはヴィオラが仕組んだ断罪劇なんかじゃなくて……


 ――ふざけないで!


 胸の内で膨れ上がったのは純粋な怒りだった。

 組織のエースと呼ばれるに至った私が、唯一手も足も出なかった相手。

 私がもっとも恐れ、憧れた最大のライバル。

 そのヴィオラが、こんな小物に負ける?


「――ヴィオラ!」


 声を荒らげ、彼女のもとへと詰め寄った。

 そして気が付けば、彼女の両肩を掴んでいた。

 突然のメイドの暴挙に周囲の空気が凍り付く。


「なんだ、あの無礼者は! 即刻取り押さえよ!」


 誰かが声を上げた。

 それと同時、会場内にいた警備の騎士が動こうとするが――


「――待て」


 アルヴェイン公王が待機を命じた。

 ……どういうつもり?

 分からない。けど、これはチャンスよ。


「しっかりなさい、ヴィオラ!」

「ノ、ノクス?」

「反撃の条件は揃ってるじゃない! なのに、なにを呆けてるの!?」

「そ、そんなこと言われても。どうしたらいいか……」


 ――はあ?

 なにを言ってるの? 自分が嘘を教えられたって、証明するだけじゃない。物証なんて必要ない。貴女の記憶力があれば、簡単に証明できる。

 それなのに、どうしたらいいか分からない?


「……本気で、言っているの?」


 ヴィオラが目をそらす。

 ……この目、知ってるわ。

 相手の期待に応えられないことを恥じている者の目だ。


 じゃあ……本当に分からないんだ。

 でも、どうして……?


 あぁ、そっか。

 いまのヴィオラは見た目通りの幼女なのね。才能はあっても、それの使い方がまるで分かってない。この頃は、侍女から嘘ばっかり教えられていたから。


 ……気に入らない。気に入らないっ、気に入らない!

 私が倒したかったのは、最強の怪物よ。

 メイドに詰め寄られて震えるような小娘なんかじゃないわ!


「ヴィオラ、よく聞きなさい。私が、その才能の使い方を教えてあげる」

「……え?」


 分からないか。分からないんでしょうね、いまの彼女には。

 だけど、いまが未熟なら、私が戦い方を教えればいい。


 その結果、回帰前以上の怪物に育つかもしれない。

 だけど、望むところよ。

 回帰前より成長した彼女を倒してこそ、私はヴィオラに勝ったと胸を張れる。

 なにより――


「まず手始めに、この馬鹿みたいな茶番劇を、完全勝利で終わらせるわよ」


 私を殺した公女が、私以外に負けるなんて許さない!



 私がヴィオラの汚名を晴らす手助けをする。

 それを決意した直後、アルヴェイン公王が沈黙を破った。


「話は纏まったようだな」

「お待たせしたようで、申し訳ありません」

「かまわぬ。そなたがなにをするか、興味があったからな」


 意外と話が分かる男かもしれない。

 そう油断した次の瞬間、部屋の温度が一気に下がった。


「それで、誰の許しを得て我が娘にそのような態度を取っている?」


 ――っ。

 ははっ、さすがはヴィオラの父親。すごいプレッシャーね。でも、ここで怖じ気づくならまえに出た意味がない。私は引きつりそうになる顔に笑みを浮かべてみせた。


「無礼な態度を取ったことは謝罪します。ですが、ヴィオラ公女殿下があまりに未熟で、黙って見守ることが出来ませんでした」

「……ほう? 我が娘は未熟か?」

「未熟です。侍女から悪意ある嘘を教えられ、そのせいで恥を掻かされた。その証拠を持っているにもかかわらず、ただ泣いていることしか出来ないのですから」

「――なにを根拠に! いますぐ、その無礼者を引っ捕らえなさい!」


 第二公妃が声を荒らげるが――


「待て。もう少し話を聞きたい」


 アルヴェイン公王が異論を口にする。


「公王陛下、あのようなデタラメ、聞く必要はございませんわ!」

「デタラメかどうかはいまから確認する。聞いて困ることなどないのだからな」


 あ、第二公妃の顔が歪んだ。

 ……ふふっ。この男、なかなかキツいことを言うわね。いまのは、証言されて困ることがあるのか? なければ黙っていろ。そう言っているようなものだもの。

 おかげで、第二公妃からすっごい睨まれてる。私が言ったわけじゃないのにね。


「話を戻そう。ヴィオラは、悪意ある嘘を侍女から教えられた、だったか? 証拠があると言っていたように聞こえたが……事実か?」

「え、あの……その……」


 問われたヴィオラが狼狽え、私に助けを求めるような視線を向ける。

 ……こうしてみると、幼い子供そのものね。

 だとしても、甘やかしたりはしないけどね。


「ヴィオラ公女殿下。さきほど口にした歴史について、侍女に間違いだと教えられた方の、本の内容をいまここで話してください」

「え、でも、そんなことをしたら……」


 ヴィオラが自分の腕を抱き寄せる。


「――大丈夫、ここで貴女を叩く者はおりません」


 囁くように告げる。

 ただ、静まり返っていた会場ではことのほか響いたみたいね。

 アルヴェイン公王がわずかに顔色を変えた。


「……えっと、本の内容をそのまま話せばいいの?」

「ええ。一字一句間違えずに。出来ますよね?」

「うん、それくらいなら大丈夫」


 ヴィオラは事もなげに答えて、アルヴェイン公王のまえに立った。私たちの会話を聞いていた者たちは、なにを言っているんだ? と言いたげな顔をしてる。

 当然よね。本の内容を丸暗記なんて、普通は大人でも難しいもの。

 だから――戦きなさい、ヴィオラの、その特異性に。


「78ページ、17行目から。アルヴェイン公王家の成り立ちについて」


 ヴィオラは胸を張り、本の内容を諳んじる。

 それは、アルヴェイン公王が用意した本の内容と、一字一句たりとも違わない。


 もちろん、ここにいる大半の人間は、それが一字一句同じかまでは分からないでしょうね。だけど、さきほどヴィオラが口にした内容とは違う、正しい歴史であることは明らかだ。

 なにより、彼女の言葉には澱みがない。


「お聞きになったとおり、ヴィオラ公女殿下は正しい歴史を諳んじることが出来ます」

「なるほど。いまの内容を聞けば、それは疑いようもないな。だが、ならばなぜ、さきほどのような誤った歴史を口にした」

「それは……」


 ヴィオラが再び私に視線を向ける。

 私を頼りすぎね。私に裏切られることをまるで考えてない。

 あまりよくない傾向だけど……ま、今日くらいは仕方ないか。

 私は小さく頷き、ありのままを答えるように促した。


「ナタリアに、いま話した本の内容は間違っているから、私が用意した正しい本の内容を覚え直すようにと言われたからです」


 パーティー会場に衝撃が走った。

 何人かの視線が侍女のナタリアに向けられる。


「わ、私はそのようなことを言っていません! ヴィオラ公女殿下、なぜそのようなデタラメを口にされるのですか!」

「デタラメなんかじゃないもん! そっちの答えは違う。口答えせずにこちらの内容を覚えなさいって、私を何度も叩いたじゃない!」


 ヴィオラは自分の腕を押さえながら、ナタリアのことを睨み付けた。

 会場のざわめきが大きくなる。そこかしこから「侍女があのように幼い公女に手を上げたというのか? いくらなんでも、そのようなことは……」なんて声が聞こえてくる。


 でも、ヴィオラはどう見ても幼い子供だ。それは、さきほどまでの受け答えからも明らかだ。

 だからこそ、彼女の悲痛な訴えの信憑性が増している。

 疑惑の目は、ナタリアに集まった。


「デ、デタラメです! 私はヴィオラ公女殿下に手を上げたことなんてありません。たぶん、そう! 間違ったことを言って恥を掻いたから、私のせいにしているだけです!」


 ヴィオラが正しい内容を諳んじた以上、その言い訳は成り立たない。

 それに……と、ヴィオラに視線を戻す。

 彼女はまた、自分の腕を押さえていた。


「ヴィオラ公女殿下、失礼します」

「え、ノクス、なにを――」


 ……やっぱりね。

 さっきからヴィオラが押さえていた辺り。袖を捲ると、そこに痣があった。


「侍女に叩かれた跡ですね?」

「……うん」


 ヴィオラは頷く。

 だけど、ナタリアに睨まれて、すぐに私の背中に隠れた。


「アルヴェイン公王陛下、いまの痣をごらんになりましたか?」

「ああ。我が娘が虐待を受けていたことは事実のようだ。ナタリアよ。娘は、そなたの仕業だと訴えているが、なにか反論はあるか?」

「そ、それは、その……だから、ええっと……」


 視線を泳がせ、脂汗を流している。全身で自分が犯人だと語っているようなものよ。後は彼女の仕業だと証明するだけ。それで、ヴィオラの潔白は証明される。

 だというのに、第二公妃が口を挟んだ。


「お待ちください、公王陛下。このような場で話すことではございません。せめて、場所を移して尋問するべきではありませんか?」


 余計なことを。

 第二公妃はよほど、この断罪劇を止めたいのね。

 だけど、貴方の思い通りにはさせないわ。


「アルヴェイン公王陛下、事実確認はここでおこなうべきです。でなければ、たとえヴィオラ公女殿下の潔白が証明されたとしても、人々には疑惑が残ります」

「……ふむ、そなたの言うとおりだ。皆の者には申し訳ないが、ことは我が娘の行く末を左右する重大な事件だ。いましばらく付き合っていただこう」


 よし、これで後顧の憂いは絶った。

 代わりに、第二公妃の私への敵意がすごいことになってそうだけど。


 まったく、分かりやすいわね。

 でも、いま戦うべき相手は貴女じゃない。

 私は隠し持っていた答案用紙を懐から取り出した。


「アルヴェイン公王陛下、こちらをご覧ください」


 その場に跪いて差し出す。

 騎士の一人がそれを受け取り、危険がないことを確認した後、公王へと差し出した。


「これは……ヴィオラの答案か?」


 ナタリアが「――ひゅっ」と声にならない悲鳴を零した。


「……なるほど。一枚目はすべてが正答にもかかわらず、ことごとくにバツが付けられている。対して二枚目は、さきほどのふざけた答えだが……すべて正解となっているな」

「――に、偽物です! そのような答案、私は知りません!」


 悪あがきね。

 なら、言い逃れが出来ないように引導を与えてあげる。


「証拠を消すつもりなら、ちゃんと燃えるまで見届けるべきでしたね?」

「ま、まさか貴女、それを焼却炉から――っ」


 とっさに口を閉じるけれど手遅れだ。

 それに気付いたナタリアは膝からくずおれた。


「アルヴェイン公王陛下。彼女の部屋を調べてはいかがでしょう? まだ、消し切れていない物証があるかもしれません」

「……ふむ、悪くない」

「――お、お待ちください! 私の部屋を捜索するなんて横暴です!」

「横暴? やましいことがなければ堂々としていればいいではないか。それとも、なにかやましいことがあるとでも言うのか?」

「そ、それは……」


 そこで黙ったらダメじゃない。

 これで彼女は終わりね。


「反論はないようだな。騎士たちよ、いますぐ彼女の部屋を捜索するのだ!」

「――はっ!」


 騎士の一団が会場を出て行く。

 束の間の静寂。

 一息あけて、アルヴェイン公王は会場を見渡した。


「皆の者。まずは祝いの席を騒がせたことを詫びよう。詳細の確認はこれからだが、我が娘ヴィオラが己の意志でアルヴェイン公王家の歴史を貶めた訳ではないと理解いただけたと思う」


 アルヴェイン公王が会場内を見回せば、目が合った者たちは静かに首肯した。

 ただし、安堵しているものだけではなく、渋い顔をしている者もいる。前者は第一王子派で、後者は第二王子派の者たちだろう。

 いずれにせよ、反論の声は上がらない。


「うむ、異論はなさそうだな」


 彼は頷き、それからナタリア、そして第二公妃に一瞬だけ視線を向けた。


「残された問題は、誰が、なんの目的で、娘に誤った知識を与えたのかということだが……処断はこのアルヴェイン公王の名において下すゆえ、皆にはしばしの歓談に戻っていただきたい」


 断罪劇はお開き。ヴィオラの疑いを晴らすという目的は達した。これ以上は身内の恥をさらすだけだから、事後処理は内々に進める、という訳ね。


 それに納得した参列客たちは、一人、また一人とパーティー会場に散っていった。

 次の瞬間、私の横にいたヴィオラがへたり込んだ。

 小さな身体がわずかに震えている。


 ……まったく。

 これが怪物ヴィオラの幼少期とはね。

 あれだけの才能を持ちながら、宝の持ち腐れよ。

 でも……そうね。ただの小娘にしては、よく頑張ったほうよね。


「ヴィオラ公女殿下」


 片膝をついて右手を差し出すと、それに気付いたヴィオラは私の手を掴んだ。


「ノクス……ありがとう」

「お礼を言うのはまだ早いですよ」

「え?」


 今日のヴィオラは頑張った。

 だけど、手を貸さなければナタリアに負けていた。


 いまのヴィオラは年相応。怪物と呼ぶにはあまりに足りない。

 私が倒したいヴィオラは、まだ産声すら上げていない。


「ヴィオラ公女殿下にはもっと強くなっていただきます」

「ノクスが、その方法を教えてくれるの?」

「……ええ、もちろんです」

「ありがとう、ノクス!」


 無邪気な笑みが、なぜか私の胸をざわつかせる。

 勘違いしないで。私は貴女の保護者なんかじゃない。

 いつか、この手で倒すために手を貸すだけだよ。


 でも、やるからには徹底的に。回帰前を超えるくらいの、最強の怪物に育ててあげる。

 だからそれまで――

 私以外に、負けるな。

 

 

 お読みいただきありがとうございます

 面白いなど思っていただけましたら、ブックマークや評価を残していただけると嬉しいです


*追記

 長編版を投稿しました

 短編部分は分割して5000字くらい加筆してありますが、続きから読んでも大丈夫です。完全な書き下ろし部分は2-2からで、いま現在はそこまで投稿済みです。

 よろしくお願いします

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