トリトニアの伝説 外伝21 私を呑ませてください
この作品はトリトニアの伝説の外伝です。
一平とパールの新婚生活。まだ結婚式からそれほど経っていない頃の日常の光景です。
今日の晩餐はうまかった。特に蛸が。
いや、今日に限ったことではない。
パールが自分のために日々奮闘して食卓を整えてくれることが、一平には嬉しく、一番のご馳走なのだ。
ご馳走とは、客が来たら走って食材の元へ馳せ参じ、心尽くしのものを工夫して提供する、という教義から発する言葉だという。
まさしくパールがしてくれているのはそういうことだ。一平は客ではないが、パールにとってもてなすべき、労うべき一番の対象だということに変わりはない。
蛸好きの家庭に生まれたパールの好物は例に漏れず蛸だ。従って食卓に上る確率が一番高い。
トリトニア―特にトリリトン近辺―ではその生息域も広い。壺の罠を仕掛ければ簡単に捕まえられるのもお手軽だ。但し、捕まえてからが戦いになる。
くねくねとうねったかと思うとロケットのように素早く逃げる上、その体は粘液で覆われているので掴みにくい。狙いをすまし、刃物で砂地などに串刺しにするのが常套手段だ。
だがこれも、刃物が苦手なパールにはかなり勇気のいることだった。
それでも練習の甲斐あって、何とか人並みには対処できるようになっていた。
それもこれもみな愛する夫の喜ぶ顔が見たい、美味しいものを食べさせてあげたい、という幼い頃からの願い故だ。
一平は食に関して口うるさい方ではない。生まれ育ったのは地上なのだから、舌に馴染んだものはここの食べ物とは全く違う。
それでも漁村故毎日魚は食卓に上がるし、父に連れられた船の上で獲ったばかりの魚を捌いて醤油などなしに口に入れることも珍しくなかった。彼が海で暮らすことに対応してゆく素地が整えられていたことは確かだ。
トリトニアへの旅の間は殆どひとところに留まることはなかった。ムラーラを除いて。
環境が違えば棲息する生き物も違う。
どんな獲物でも食わねば旅を続けるエネルギーは蓄えられないし、距離を稼ぐために必要な筋力、体力も培われない。
贅沢が言えるわけもなく、ありのままを受け入れて過ごすしかなかった。
海での生活の先輩であるはずのパールは幼く、箱入り娘のようで、その点では全く頼りにならなかった。
むしろ、食の細いパールが無理なく食べられるようなものを優先して探すような状況だったと言える。丸のままかぶりつくか、それが難しいものは手開きをしたり、簡単に切り分けたりするのが常だったので、トリトニアの王宮に来て、器があったり美しく切り揃えて盛り付けたりされたものを見てカルチャーショックを受けた。
パールにとってこの晩餐の光景は当たり前のものだったのだ。そう思った時、洞窟の中でおもちゃ兼食器として買い与えたままごとセットの使い方に疑問を覚えたことを思い出した。
浮力や水の流れで食べ物が動いてしまわないように、器は食べ物の上に被せられていた。今では見慣れた光景だが、パールはその頃から食事を整えるのを楽しんでいたようだ。
一平は佐々木の家で寝起きし、伯母の手料理を食べるので、洞窟ではそれほどの量を食べるわけにはいかない。食事を残せば伯母に不審な目で見られることになり、延いてはパールを匿っていることを感づかれかねない。
だから洞窟ではパールの食事に少し付き合う、という程度に留めていた。一人寂しく黙々と食べるより誰かと食卓を囲む方が精神的によいのだと、父母を亡くした経験のある一平は身に沁みて知っていたのだ。まあ、パールの食事の時間に一緒にいられるということは数えるほどしかなかったのだが。
パールとしては、精一杯一平をおもてなししていたつもりだったのだろう。母の真似をして器を並べる姿はとても楽しそうだった。
そして今も。
パールは嬉々として日々主婦業に精を出している。
パールは王女だが、王族ではない守人の一平と婚姻を結んだということで、所謂降嫁したという形になる。守人はそれなりに地位があるので、右宮で働く者は全て一平とパールの配下になる。結構な数の侍女や侍従その他事務官からトリトニア軍の兵士までを束ねているが、基本的に王族のように上げ膳据え膳ではない。私室には二人が許可した時しか入れない。
プライベート性が保たれるのは普通に一平には嬉しかった。始終誰かにそばに控えていられるのは見張られているようだし、好き放題もできないではないか。
それに新婚だし。
食後に長椅子で寛いでいると、片付けを終えたパールが何かを抱えてやって来た。
「昼間、ウートさまとゼアンダさまにいただいたの。とても上質なウミヘビなんですって。ぜひ一平どのにご賞味いただきたいと仰っていたわ。結婚のお祝いとしてご笑納下され、ですって」
一平の不在中にウート老夫妻が訪れた、ということか。婚儀を終えてしばらく経った今頃になって結婚のお祝いを寄越すとは、一平の常識とはかけ離れている。
披露宴、というか祝いの宴は催されたが、その時は特に個別に頂き物をするということはなかった。そういう世界なのだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
まあ、守人の婚儀は唐突に行われるものだから、贈る方としても急なこととて準備も追いつかないのだろう。やっといい酒が手に入ったからこの機会にプレゼントしておこう、ということなのだ。ありがたく受け取っておこう。
「飲んでみる?」
パールが尋ねた。
ここの酒はウミヘビの血だ。絞めた後、口から絞り出してちびちび飲む。一平も大分慣れた。元々抵抗感もなかった。
「そうだな。せっかくだし、新鮮なうちにいただくか」
新鮮とは言ってもウミヘビはまだ生きている。絞めるまでは新鮮だ。一平が新鮮と言ったのには、贈り主の気持ちのことも含まれている。
ウミヘビは魚籠のようなものの中に入っている。逃げ出してしまわないように中で縛られて固定されている。パールは魚籠を一平に差し出した。
(ごめんよ…)
他者の命をいただくことに心の中で詫び、一平はウミヘビ酒を口にする。
大きく口を開けて、蛇の口から垂らすと、独特の香りが広がった。
パールは横に座り、一平が呑むのをまじまじと見ている。
「オレからも言うつもりだが、パールもまたウート老に会ったら一言お礼を申し上げておいてくれ。大変美味しく頂戴いたしました、とな」
「はい。承知しました」
畏まって答えるパールに優しい微笑みを向け、一平は言う。
「そんなに敬語を使わなくていいぞ。二人だけなんだし」
「ううん。今のは大事なことでしょ。守人の一平ちゃんに下さったんだし」
「…そうか…。そうだな…」
パールに敬語なんか使われるとちょっと疎外感を覚える。距離を置かれた感じがするのは被害妄想なのだろうか。
「おまえも呑んでみるか?」
パールは酒を嗜まない。それは知っている。
元来病弱だったパールに酒はきつかったろう。止められてもいただろう。
だが今はかなり健康になった。体力もついてきた。血色もよく、量こそ少ないが食欲は旺盛だ。倒れることもなくなり、一平をはじめ周りの者は皆安堵している。一口くらいなら、味見させても大丈夫なのではなかろうか。
だがパールは断ってきた。
「いいよ。おいしくないんだもん」
「呑んだことなんかないじゃないか」
「あるよ」
「いつ?」
そうなのか?と一平は畳み掛ける。
「ほら、台風の後。健太と蛇の血舐めたじゃない」
「ああ!!」
懐かしい。
グアム島近くの島で仕留めたハブの血か。
今にして思えば生き血を飲んだのはあの時が初めてだった。
生き血が滋養強壮によいというのは聞いてはいたが、子どもだったこともありそんな機会はなかった。
あの時は大怪我をして大量に血を失っていたから、身体が欲していたのだろう。鉄くさいなとは思ったが、さしたる抵抗もなくぐいぐいいけた。
「ハブの血か!そういえばそうだったな。おまえも健太も酷い顔をして吐き出してたっけな」
「すっごくまずかったよ!?何で一平ちゃんはこんなの飲めるのかなって思ったよ」
「ハハハ…」
思わず笑みが溢れる。連鎖的に思い出したことがあり、また笑いが込み上げてくる。
パールは何がそんなにおかしいのかときょとんとしている。
「…面白かったな。健太の顔…」
言われたパールも思い出した。
「うん。…こう!?…あれ?できないな、やっぱ」
瞼をひっくり返すという変顔が得意だった少年。健太の得意技にパールは挑戦して、失敗した。
くくく…と、さらに笑いが倍加する。
もう何年前になるのだろう。あの懐かしい出来事は。 あの幸せだった日々は。
パールとただ二人寄り添って、支え合って、思い合った日々は。
一平はパールを見下ろす。小柄なパールは常に一平の眼下にある。
いつもいつも。
今もなお。伴侶として。
―幸せだ―
一平は思った。
こんな幸せが訪れるとは思っていなかった。
夢見てはいた。パールと一緒になれることを。
怖れてもいた。パールを失うことを。
でも杞憂だった。
パールの想いは一平と同じだった。
だからこうして、今ここにパールがいる。
二人の愛の巣で寄り添っているこの時が一番安らげる。
安心した一平はいたずら心を起こした。
蛇酒に口をつけ、パールに唇を寄せた。
キスしてもらえると思ったパールは進んで唇を差し出した。
一平が啄む。
何かが違う、とパールが気づく。
パールは少しだけ口を開いていたのに、一平の方は閉じたままだ。
―何で?―
思った途端、分け入られた。
同時に何かが流し入れられる。くらりとしそうな強い香り。
酒だ。
蛇酒。
一平は口移しでパールに蛇酒を飲ませたのだ。
量はほんの少し。ちゃんと手加減している。
(んんっ…)
一平は離さない。酒だけでなく、舌も入ってくる。
パールは飲み込むしかなかった。
ゴクリ…。
喉を通り過ぎるとかあっと身体が熱くなった。
「…一平ちゃん!!!」
騙すようなことをして、と抗議の声を上げたが、一平は満足そうに笑っていた。あまつさえ、パールの顔を包み、最強の眼差しでもパールを包み込む。
「…どうだった?」
酒の味のことを訊いているのか、キスの味のことを訊いているのか…。
まずい、とは言えなかった。もし後者だったら一平ががっかりするから。
「お…おいしいかも…」
消極的に肯定しておく。でも実際まずいとは感じなかった。
慣れ親しんだ一平の香りが共にあるからか。そのせいで酒の味が変質したのでは?と思わされる。
「もう一回呑んでみる?」
一平が訊く。
「一平ちゃんが呑ませてくれるんなら…」
そう、答えてしまった。
一平は目を瞠き、ついで細めると今一度ウミヘビ酒に手を伸ばし、さっきと同じことをした。
パールの脈が速くなっていた。早くも酒が回ったのか、この行為に発情したのか、酩酊感が襲ってきた。
とろんとして眠いような、夢見心地であるかのような…。
ほろ酔い状態のパールは大胆だった。
いつも以上に求められて、一平はひどく満足だった。
(トリトニアの伝説 外伝21 私を呑ませてください 完)
蛇酒と言えば、パールにとっては懐かしい思い出のあるもの。
グアムで出会った健太少年もこの時点では小学生になっているはず。
彼は二人のことを覚えているのでしょうか。
また会いたいと、思ってくれているのでしょうか。
人の世とは、ままならぬものです。
題名はヘンデルのアリア 「私を泣かせてください」のもじりです。




