風葬の町――友の名で半世紀生きた男は、沈む町で本当の名前を告白する
第一章 風の欠片
風が吹いていた。
山の上からまっすぐ降りてくる、乾いた風だった。薄い砂埃が道の端を滑り、外された看板の金具をかすかに鳴らしている。背後でバスの扉が閉じ、その音が、細い刃物で切られたように夕方の空気へ消えた。
町が水に入る前の、最後の夕方だった。
私は、ここに戻ってきた。
名乗るためであり、返すためでもある。もう、どちらが先なのか、自分でもわからなかった。半世紀という時間は、罪を薄めるには長すぎ、忘れるには短すぎた。
町役場の仮設庁舎は、元の商店街の突き当たりに置かれていた。プレハブの白い壁は新しいのに、足元のアスファルトには、長い生活の跡が残っている。魚屋の水が流れた跡。子どもがチョークで線を引いた跡。雨の日に泥が溜まったくぼみ。
鉄骨の通路を渡って受付に行くと、若い職員が立ち上がった。
名札には、神津杏とあった。
「町史編纂室の神津です。お約束の、聞き取り……相馬泰生さん、でよろしいですか」
私は首を横に振った。
「相馬泰生ではありません」
杏の表情が、薄く固まった。ペン先が紙の上で止まる音がした。
「……ええと」
「私の戸籍にも、保険証にも、相馬泰生と書いてある。だが、私は神津光男だ」
私は小さな布袋を差し出した。
中で硬いものが触れ合った。真鍮の軽い音が、面談室へ行く前の静けさに落ちた。杏は慎重に口を開け、掌に中身を出した。
煤けた円形の札が、二枚。
一枚は、縁が欠けていた。古い刻印の数字が残り、裏には薄く、相馬泰生と彫られている。
もう一枚は、予備札だった。表の番号は浅く、裏には鉛筆で書かれた名が、煤と時間ににじんでいた。
神津光男。
「入坑札ですか」
「通行札とも言った。坑口の板に掛けるやつだ」
杏は二枚の札を見続けた。指の腹で、縁の傷をなぞる。その手つきに、記録を扱う者の慎重さと、親族の遺品に触れるようなためらいが混じっていた。
「どうして、今……」
「この町は、明日から地図から消える。沈む前に、名前だけは地上に置いていきたい」
杏はすぐには返事をしなかった。
窓の外で、仮設庁舎の薄い壁を風が撫でた。どこかで外された雨樋が鳴っている。町はもう、町としての体を少しずつ脱がされていた。看板が外され、畳が上げられ、仏壇が運び出され、柱だけが、まだ人のいた形を覚えている。
「わかりました」
杏は静かにうなずき、面談室のドアを閉めた。
机の上に記録用のレコーダーを置き、スイッチを入れる。赤い小さな光がともった。その光が、半世紀の闇に針穴を開けたように見えた。
「では、時系列でお願いします。昭和三十三年の事故から」
「わかった」
私は二枚の札を布袋へ戻し、風の音を背に、半世紀分の息を整えた。
自分の名を話すのは、ひどく難しい。
他人の名で生きることよりも、ずっと。
第二章 崩落
冬だった。
凍みる朝だった。
ランプ室にはカーバイドの匂いが満ちていた。火口の小さな音、濡れた床に散った白い粉、誰かの咳、誰かの欠伸。通行札の板には、当直の名前が既にいくつか掛けられている。札が揺れるたび、真鍮が乾いた音を立てた。
私は自分の札を探し、癖で舌で前歯を触った。欠けた角が冷たかった。
神津光男。
その名前を、私はまだ疑ったことがなかった。
相馬泰生と私は同い年だった。春から坑内に入るようになり、夏には互いの手の皮が似た匂いを持つようになった。石炭の粉、油、汗、乾かない軍手。明け方に飯を掻き込む音、仕事終わりの湯気、茶碗の底に残る米粒。
友達という言葉を、男同士でわざわざ口にすることはなかった。だが、私が咳き込めば相馬は水を寄越し、相馬が足を滑らせれば私は腕を掴んだ。そういうことを、友情と呼ぶのだと、ずっとあとになって知った。
「光男、今朝の風、強いな」
「昼には落ちる」
相馬はランプの火をつけ、顔にかけたタオルを首へ落とした。左の頬に、前の週につけた小さな擦り傷が残っている。
「母ちゃんがな、昨日、俺の通学服をほどいたよ」
「何の話だ」
「親父の喪に合わせるんだと。黒い布は、何にでも化ける」
「縁起でもないことを朝から言うな」
「縁起なんて、金持ちが気にするもんだ」
相馬は笑った。
その笑い方を、私はよく覚えている。片方の口角だけが上がる。馬鹿にしたようで、どこか照れている。
出坑札の板に、相馬の札が上がっていく。私は自分の札を探した。
見当たらなかった。
「おい、俺の札は」
当直の若い書記が台帳をめくった。
「昨日の回し、戻し忘れがあったかもしれません。すみません、予備でお願いします」
彼は木箱から無地の札を出した。予備札は薄く、使い込まれた札よりも頼りなかった。
「名前を書いて、今日はそれで」
私は鉛筆で、神津光男と書いた。
字はあまりうまくなかった。坑内に入る前から、私は字を書くことが苦手だった。相馬が横から覗き込む。
「字が汚い」
「読めればいい」
「それ、光男じゃなくて光犬に見えるぞ」
「うるさい」
私は紐が短いことに気づき、結び直した。
その結び目を、相馬がじっと見ていた。
「おまえ、紐も下手だな」
「札に上手いも下手があるか」
「ある。ほどけたら死ぬ」
「なら、おまえが結べ」
「俺は自分の命で忙しい」
そう言って、相馬は笑った。
坑口の風は冷たかった。
午前十時を少し回った頃、一本手前の支柱が鳴いた。
嫌な音だった。
木が折れる前に、木自身が助けを呼ぶような音。続いて、土の匂いが濃くなった。坑内の空気は、生き物のように重くなることがある。あの時がそうだった。
「退がれ!」
誰かが叫んだ。
私と相馬は反射的に別の坑道へ走った。支柱が折れ、風管が千切れ、明かりが一瞬弱くなる。石の粉が雨のように落ちた。視界が白くなり、咳と、笛の音と、誰かの名前が混ざった。
次に覚えているのは、狭さだった。
崩れが止まった時、私たちは岩と材木の隙間に押し込められていた。ランプは生きていた。火は小さく震えている。生きているものは、みな震えるのだと思った。
「生きてるか」
「ああ」
相馬が顔をこちらに向けた。頬に赤い線がついている。さっきまで乾いていた傷ではなく、新しい傷だった。
「出口側は潰れてる」
「風は来てる」
私は掌をかざした。
風の向きで、坑内のどちらが生きているかを測ることは、春の頃に覚えた。向きは悪くない。空気は死んでいない。救助は来る。
私たちは二人で救命笛を鳴らした。
三短、三長、三短。
金属が口の中に触って、血の味がした。何度も吹いた。何度も。息が苦しくなるたび、相馬が代わった。相馬が咳き込むたび、私が吹いた。
時間の感覚は崩れた。
相馬が、ふいに笑った。
「光男。もし、もしどちらかしか出られないならさ」
「出られる」
「そうだけど。もしも、の話だ」
「馬鹿な話はやめろ」
「馬鹿な話は、生きてるうちしかできない」
相馬は胸元から何かを引き抜いた。
紐に通した、自分の札だった。
「俺の札、持っとけ」
「何を言ってる」
「どっちが出たかわからなくなった時、母ちゃんが安心する方にしてやってくれ」
ばかばかしい、と言おうとした。
だが、喉の手前で言葉が引っかかった。
事故の時、名前は人より先に外へ出る。板に残った札は坑内にいるという印。回った札は上にいるという印。生きているか死んでいるかよりも早く、札が家へ知らせる。
「俺は予備札を使ってる。区別がつかない」
「だからだよ。会社は、都合のいい方に合わせるさ」
「相馬」
「母ちゃんに、仏壇の線香を絶やすなって、言ってくれ」
「何を——縁起でもない」
相馬は、いつものように片方の口角を上げた。
「なあ、光男。大人は、名前のほうを見る。顔より先に、字を見るんだ」
救助の音が近づいてきた。
風が変わった。
私たちは再び笛を鳴らし、声を張った。板が外され、光が差し、手が伸びた。最初に掴まれたのは、私の腕だった。
引き上げられる瞬間、相馬の指が私の袖を掴んだ。
すぐに離れた。
その感触を、私は一生忘れなかった。
地上の光は薄かった。雪が舞っていた。私は吐いた。白い息に、黒いものが混じった。
「相馬——!」
誰かの声が私を呼んだ。
私は顔を上げかけて、やめた。
喉の奥に、名前がひとつ、重たく落ちた。
私は、その重さに負けた。
第三章 救出と記録
救護所は慌ただしかった。
名前と体温と血圧が並び、役場の人間と会社の人間が紙を回した。濡れた毛布、赤チンの匂い、泣き声、怒号。誰もが誰かを探し、誰もが誰かの名前を間違えていた。
「相馬泰生」
誰かが言った。
私は反射的に手を上げた。
たったそれだけだった。
たったそれだけで、人生は別のものになった。
名前と時刻が記録された。帳面の字は素早く、綺麗だった。私の汚い字とは違った。紙の上の名前は、顔よりも先に信用された。
その日の夕方、崩落が一部で続き、坑内の確認は遅れた。生存者の名簿と、行方不明の名簿が別々に貼られた。掲示板の前で、母親たちが泣いた。
私は相馬の札を、掌の中で握りつぶすようにしていた。
もう一方の手には、予備札があった。鉛筆で神津光男と書いた札。相馬の札と、私の札。二枚の真鍮が、布の中で触れ合っていた。
その音は、責めるようではなかった。
だから、余計に苦しかった。
翌日。
会社の会議室で、私は柏原に呼ばれた。彼は当時、若い坑内監督だった。若いといっても私たちよりずっと大人で、顔には既に、責任を言葉で隠す者の疲れがあった。
「名前は、相馬泰生で統一する」
「……どういう意味です」
「入坑記録がそうだ。救出時の呼びかけも、そうだった。このままにする」
柏原の視線は窓の外を向いていた。雪は止んでいた。
「神津は……」
「行方不明だ。崩落の箇所から、退路が——」
柏原は言い切らなかった。
言い切らない頑丈な言葉が、彼の口には多かった。
「補償は、規定通りだ。葬祭費、遺族年金。相馬家への支援は、会社としても考える」
私は口の中が乾くのを感じた。
「違う。相馬は——」
柏原は私の顔を一度だけ見た。
年上の男の目は、灰色に濁っていた。嘘をついている目ではなかった。嘘より悪いものを選んだ目だった。
「君は生きている。それが事実だ。紙の上の名は、会社と町を回すための歯車だ」
言い方は穏やかだった。
だが、歯車は人を潰すものでもあった。
「神津家には」
「補償は出す」
「私の母には」
「出す」
「相馬の母には」
「出す」
「なら、何が問題なんです」
柏原は少しだけ眉を動かした。
「問題を増やさないことが、今の問題だ」
私は、その言葉を呑んだ。
呑んではいけなかった。
だが、呑んだ。
葬儀は三日後に行われた。行方不明者は殉職として扱われ、祠の宮司が風の向きに紙垂を立て、笛が鳴った。
私は列の最後尾で帽子を脱いだ。
相馬の母親は、遺影の前で笑っていた。泣き疲れた人間が一瞬だけ見せる微笑だった。私の顔を見ても、彼女は何も言わなかった。言えなかったのか、気づかなかったのか、気づいて黙ったのか、それは今でもわからない。
私は祭壇の脇にそっと立ち寄り、小さな菓子折を置いた。
誰も見ていなかった。
いや、風だけが見ていた。
その日から、私の舌は自分の名を離れた。
神津光男という音は、喉の奥で石になった。
相馬泰生という音は、毎朝の返事になった。
杏がレコーダーの赤い光を一度見た。
「会社は、入れ替わりを知っていた、という理解でいいですか」
「知っていた。だが、誰も口にしなかった。口にすると、損をする方が増えるからだ」
「損、とは」
「遺族年金、補償、責任者の処分。家が一つ、二つ、立ち行かなくなる」
「そのために、あなたは別人になった」
「そうだ」
「あなた自身の意思で」
私は少し黙った。
窓の向こうで、町が沈む準備をしている。引っ越しのトラックが最後の荷を積み、作業員が赤い線を確認していた。
「半分は、そうだ。半分は、流された」
「流された?」
「事故のあと、人は流木みたいになる。誰かが拾って、どこかへ置く。その場所が間違っていても、動く力が残っていない」
杏はペン先で紙を突くように押さえ、宙に浮いた言葉を紙へ貼りつけた。
「あなたは、なぜ沈黙を選んだのですか」
「私が弱かったからだ」
私は答えた。
できるだけ短く、正確に。
「それ以外の言葉は、全部、言い訳になる」
第四章 沈黙の半世紀
半世紀は、驚くほど早かった。
私は相馬泰生として働き、相馬泰生として結婚し、相馬泰生として離婚した。息子がひとりいる。娘は生まれなかった。
人間は、自分で思うより器用に嘘へ慣れる。
最初の一年、私は名前を呼ばれるたびに返事が遅れた。二年目には、相馬さん、と呼ばれて振り返るようになった。十年目には、役所の書類に相馬泰生と書きながら、手が震えなくなった。
だが、夢の中だけは違った。
夢ではいつも、誰かが坑道の奥で私を呼ぶ。
光男。
その声に返事をしようとすると、口から別の名が出る。
相馬です、と。
相馬の母親は、二十年目の夏に倒れた。私は葬儀の費用を出し、位牌に泰生の名が刻まれるのを、黙って見た。骨壺を抱いたのは、私ではない。親戚の若い男だった。私はその背に金を渡した。
月々の仕送りは、町の郵便局に記録が残っているだろう。金額は多くはない。だが、絶えなかった。
言い訳に聞こえるだろう。
贖罪も、自慢も、どちらもしたくない。
事実だけを言う。
私は毎年、相馬の命日の前に帰郷した。祠に線香を上げ、風の向きを確認し、笛を一度だけ吹いた。音は短く、弱かった。笛の内側の煤は、唇に移った。
それだけだった。
それ以上のことを、私はしなかった。
杏は、静かに訊いた。
「あなたの本当の家族——神津家は」
「父親は早くに死んだ。母は私を探した。手紙が一度来た。役場の人間が親切で、私の住所を伝えたのだろう。だが私は返事を書かなかった」
「なぜですか」
「神津光男が生きていると知れば、相馬泰生が死ぬ。相馬泰生が死ねば、相馬の母親は二度、息子を失う。神津の母も、一度失った息子が、他人の名で生きていたと知る」
「だから、黙った」
「そう言えば聞こえはいい。だが、本当は恐ろしかっただけだ」
杏はノートをめくった。
「神津家には、補償が入りました。祖母は、その年から粗末な豆腐をやめて、少し良い油を使うようになったと聞いています」
「祖母?」
「私は、神津家の孫です」
杏は微笑んだ。
薄い笑いだった。こちらを責める笑いではない。許す笑いでもなかった。記録する者の顔から、ほんの少しだけ血縁が顔を出したような笑いだった。
「うちの祖母は、行方不明の兄がいると言っていました。兄は真面目で、笛が上手だった、と」
私は首筋が強張るのを感じた。
「君の祖母は、何と言う名だ」
「神津ふさ。兄は光男」
「——そうか」
私はうなずいた。
ふさ。
小さな妹だった。私の後をついて回り、夕方になると必ず泣いた。兄ちゃんの笛は、風より上手だと言った。その妹が、祖母になっていた。祖母になれるほどの時間を、私は他人の名で生きた。
「あなたは、私の伯父ですか、と訊かないのか」
「記録を残すのが仕事です。血縁の確認は、役場の窓口の仕事です」
杏は丁寧に頭を下げた。
「けれど、個人的には、伯父でもいいと思っています」
私は窓の外を見た。
風が強くなってきた。ダムの締切に合わせるように、空は乾いていた。
「君の祖母は、まだ」
「生きています。施設にいます。今日は体調が悪く、ここには来られません」
「そうか」
「会いますか」
私は答えられなかった。
会いたい、と言う資格が自分にあるのかわからなかった。会いたくない、と言えば、また逃げることになる。
半世紀も逃げてきた人間は、逃げ道の形に詳しくなる。
「まずは、記録を終えよう」
杏はうなずいた。
「はい」
その声は、職員のものだった。
だが、少しだけ、妹の家の声にも聞こえた。
第五章 ダムの底
役場からの帰り、私は杏に案内されて旧商店街を歩いた。
シャッターに赤い線が引かれている。そこまでが水位計の予定だと説明された。赤い線は、人の背丈より少し高いところにあり、町中の家々を同じ高さで裁いていた。
「この線の下は、明朝から湖になります」
「湖、という言い方は、いくらか優しい」
「そうですね」
杏は笑った。
「地図の表現は、いつも優しいです。人の心を傷つけない言葉を選ぶ」
「そのかわり、事実から少し遠ざかる」
「だから記録が要るんです」
共同浴場は閉まっていた。
扉に貼られた紙には、長い挨拶と短い数字が並んでいた。湯の温度。掃除当番。最終日。人の暮らしは、終わる時ほど事務的になる。
坑口は封鎖されていた。
板の上にボルト。風が当たるたびに、金属の乾いた鳴りがする。私は板の端に手を添えた。冷たかった。
ここから入った。
ここから出た。
相馬は、ここから出なかった。
「柏原は——元監督は、どこにいる」
「介護施設です。山の下の」
「会えるか」
「はい。連絡はしてあります」
施設の玄関は暖房がきいていて、空気がやわらかかった。外の風とは別の、人工的な暖かさだった。
柏原は車椅子に座り、薄い毛布を膝にかけていた。目は濁っていたが、私を見ると焦点が合った。
「相馬……泰生、か」
「神津光男だ」
柏原の口元がわずかに上がった。
「ようやく、言ったな」
「遅すぎた」
「遅すぎた、という言い方も、便利だな」
柏原は咳をした。
手の甲には血管が浮いている。その手が、かつて台帳を押さえ、会社の印を押し、私の名前を奪ったのだと思うと、怒りよりも先に疲れがきた。
「会社は、あの時、わかっていた」
「なぜ」
「入坑札の紐の結び方が違った。予備札の鉛筆の筆圧が違った。君の前歯も、神津光男の特徴として記録されていた」
私は舌で前歯に触れた。
欠けた角は、まだそこにある。
「なぜ、黙った」
「事故の件数を増やしたくなかった。遺族を二軒にしたくなかった。補償の整理を面倒にしたくなかった。——と、私は言ってきた」
柏原は目を伏せた。
「しかし本当は、私が楽をしたかったのだ」
彼の声は、薄く笑っていた。
「責任は、薄く分けると軽くなる。だが、軽くした責任は、肩にいつまでも残る」
「あなたは私を責めるのか」
「責められる立場にない」
柏原はゆっくり首を横に振った。
「君は友を埋めた。私は、帳面で人を埋めた」
私は黙った。
その言葉は、正しかった。
正しい言葉は、慰めにならない。ただ、逃げ場をなくす。
柏原は私の手を見た。煤はもうない。
「君は、これからどうする」
「名を返す。札も」
「笛は」
「笛は、最後に一度だけ鳴らす。あとは、持っていく」
「なぜだ」
「相馬が私に残したものだからだ。返せば済むものと、持って歩くしかないものがある」
柏原は目を閉じた。
「そうか」
「誰に返せばいいと思う」
「人に返せるものなら、人に返せ。人に返せないものは、風にでも返せ」
「風なら、受け取るか」
「風なら、文句を言わない」
施設を出ると、夕暮れが濃くなっていた。杏が隣で歩調を合わせる。
「あなたは、罰されたいのですか」
「罰を望んでいるなら、もっと早く警察に行った。私は、自己紹介をしに戻ってきただけだ」
「自己紹介」
「そう。半世紀ぶりの、だ」
杏はうなずいた。
「記録します。町史の末尾に章を作ります」
「それはやめたほうがいい」
「なぜ」
「町は、ただ沈むだけだ。飾りを増やすと、沈み方を誤る」
杏は少しだけ笑い、ポケットから紙を出した。
「これは、祖母の回想の抜粋です」
私は受け取った。
紙には、震えた字でこう書かれていた。
風の強い日は、笛の音が山に返ってくる。兄の息が帰ってきたみたいに思える。
私は折り目を指でなぞった。
その字を見た時、私はようやく、妹が生きていた時間の重さを知った。
私だけが、半世紀を背負っていたわけではない。
名を奪われた者の周りにも、名を呼び続けた者がいた。
第六章 風葬
夜になって、風はさらに強くなった。
水神社の祠は、いつもより白く見えた。紙垂が千切れそうに揺れている。宮司は痩せた男で、声が低かった。
「この町の人たちは、明日の朝を締切と呼びます」
「締め切る、のか」
「水を。扉を閉めるんです」
宮司は短くうなずき、紙垂を新しいものに取り替えた。
祠の前には、古い石段が三段だけ残っていた。かつてはもっと下まで続いていたが、工事のたびに削られ、今はもう、どこにも行かない階段になっている。
「風に放つものは、ありますか」
私は布袋を取り出した。
救命笛と、二枚の通行札。
笛は黒く、札は鈍い金色だった。
相馬泰生の札。
神津光男の予備札。
二枚並べると、半世紀が掌に収まってしまうようで、ひどく頼りなかった。
「重いですね」
宮司が言った。
「重さは、私の手が覚えている」
宮司は祭詞を短く唱え、手を合わせた。
杏は少し離れた場所に立っていた。記録用の手帳は持っていない。今だけは、町史編纂室の職員ではなく、神津ふさの孫としてそこにいるのだとわかった。
私は笛を唇に当てた。
指が自然に穴の位置を探す。肺に細い空気が入り、音が出た。
三短、三長、三短。
坑内で吹いた音より、ずっと弱かった。だが山は返した。遠くで似た音が、遅れて鳴いたように感じた。
気のせいかもしれない。
気のせいでいい。
私はまず、相馬泰生の札を手に取った。
裏の名前を、指でなぞった。
「相馬」
声に出すと、風がその音をさらった。
「おまえの名前で生きた。おまえの母に線香を上げた。おまえの母を、私の嘘で泣かせた。許してくれとは言わない」
真鍮は冷たかった。
「だが、返す」
私は相馬の札を祠の前に置いた。
次に、神津光男の予備札を取った。
鉛筆の字は薄れていた。光男という字は、半分消えかけている。だが、読めた。まだ読めた。
私はそれを風上に向けて掲げた。
「神津光男」
半世紀ぶりに、自分の名を夜へ置いた。
声は震えなかった。
震えなかったことが、少し寂しかった。もっと泣くと思っていた。もっと壊れると思っていた。だが、人間の感情は、長く抱えすぎると石になる。石は涙を流さない。
私は札の紐を解き、手を開いた。
札は風にあおられ、祠の横の杉の幹に当たり、低い音を残して転がった。
宮司が拾い上げようとしたが、私は首を振った。
「そのままで」
風葬という言葉の意味を、私は長いこと間違えて覚えていた。
空に任せることだと思っていた。
正しくは、土地に返すことだ。
風は運び、土が受け取る。
音は、山が保管する。
杏は少し離れた場所で、手を合わせていた。
「記録は、ここで終わりにします」
「ありがとう」
「祖母に、何か伝言は」
私は長く黙った。
伝えたいことは、いくらでもあった。
生きていたこと。
名乗れなかったこと。
手紙を読んだこと。
返事を書かなかったこと。
忘れた日など、一日もなかったこと。
だが、そのどれもが遅すぎた。
「兄は、笛が下手になったと伝えてくれ」
杏は目を伏せた。
「はい」
「それから」
私は笛を布袋へ戻した。
「それでも、まだ吹けた、と」
杏は小さくうなずいた。
私は祠に一礼した。
夜の風は、誰の味方でもなかった。
だからこそ、少しだけ公平だった。
終章 夜明け
翌朝、風は止んでいた。
締切のサイレンは鳴らなかった。遠くで機械の音がして、鋼の扉がゆっくりと降りているのが見えた。水の色は、思ったよりも浅かった。
役場の仮設通路の上で、私は杏と並んで立った。
町の人々は、遠巻きに水を見ていた。誰も大きな声を出さない。町が沈む時、人は泣き叫ぶのではなく、静かに見届けるのだと知った。
「名前は、どうしますか」
「戻す」
私は答えた。
「今日から、神津光男だ。誰も呼ばなくても、そうだ」
「戸籍は——」
「時間がある。私にはまだ、時間がある」
杏は手帳に何かを書き、閉じた。
「あなたの自己紹介は、ここに残ります」
「記録のタイトルは、どうする」
杏は少し考えた。
「風葬の町」
私はうなずいた。
「大げさだ」
「大げさにしないと、忘れられますから」
水は、静かに広がっていく。
屋根の端が線になり、庭の柿の木の先端が、最後にひとつ揺れて沈んだ。共同浴場の煙突が、短い墓標のように残り、やがて水面に呑まれた。商店街の赤い線は、もう見えない。
私はポケットの中の笛を握った。
もう鳴らさない。
鳴らさないが、捨てもしない。
それは、私が持って歩くべき音だった。
唇の黒い煤は、とうに落ちた。だが、落ちないものもある。人はそれを罪と呼ぶのかもしれないし、記憶と呼ぶのかもしれない。私には、どちらでも同じだった。
名前が私の舌に戻ってきた感覚は、不思議に薄かった。
だが、軽かった。
友情を埋めたのは、国でも、会社でも、神でもない。
私だ。
相馬泰生は、私の代わりに死んだのではない。
私が、相馬泰生の死を借りて生きたのだ。
その違いを、私は半世紀かけてようやく知った。
「神津さん」
杏が呼んだ。
私は振り返った。
その一瞬だけ、風がない朝に、何かが吹いた気がした。山の方からではない。水の方からでもない。もっと近く、耳の奥に残っていた坑道の闇から。
光男。
そう呼ばれた気がした。
私は杏に会釈し、バス停に向かった。
彼女は手帳を胸に抱え、風のない朝の空に向かって立っていた。
町は水に入り、地図は書き換えられる。
それでも、名前は口の中で何度でも発音できる。
私は歩きながら、小さく言った。
「神津光男」
冷たい空気の中で、その音は小さく、しかし確かに、私のものだった。
背後で、水が町を閉じていく。
前方で、バスの扉が開く。
私は一度だけポケットの笛に触れ、それから手を離した。
もう、名前を借りなくていい。
そう思った瞬間、遠くの山で、何かが低く鳴った。
風ではなかった。
けれど私は、それを風だと思うことにした。
(了)




