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死ぬ前に

僕は死のうと思っている。

死ぬ前に、ただ一度だけ、静かな場所へ行きたかった。

「死ぬ前に、ここへ来い――」

夢の中でそう告げる声が、胸の奥深くに響いた。

その声に導かれ、僕は揺れる列車に身を任せ、山奥の温泉地へと辿り着いた。


硫黄の匂いを含んだ冷たい風が、深い谷間をゆっくりと渡っていく。

霧雨にけぶる木造の小さな駅舎、湯谷駅。

僕は肩を強く震わせながら息を整えた。

列車の揺れと、幾度もの夜襲がまだ身体を絡め取り、鼓動は耳鳴りのように響いている。


「声に呼ばれて来たが……この地で、本当に休めるのか」

喉の奥から絞り出した声は、糸のように細く頼りなかった。ふと、塹壕の底でひとり身をすくめた夜のことが脳裏に返り、胸の奥がぞわりと震えた。


足もとの石畳は夜露にしっとりと濡れ、踏むたびにかすかな水音を洩らした。

石と石の隙間には、緑の苔がわずかに首をのばし、そこに宿る冷たさが、冬の名残を静かに伝えてくる。

霧の帳がゆるやかにほどけると、その向こうに、西洋と和の気まぐれな折衷で仕立てられた宿が、ぽつねんと立っていた。

ユウはしばし足を止めた。

あの扉をくぐれば、温かい灯りと湯気が待っているのかもしれない。

けれど、胸の奥で何かがささやく――こんな宿に身を沈めたところで、塹壕に置き忘れた夜の寒さや、あの声のない悲しみが癒えるものか、と。


結局、彼は踵を返し、駅の方へ歩き出した。

ほどなくして、背後から老女の真由子が小走りに追いつく。

「……お疲れだろう。無理は禁物だよ」

静かな調子だが、言葉の端々にやさしさが滲んでいる。

ユウは手をぎこちなく差し出し、小さく頭を下げた。


宿の中は、外の冷気を忘れさせるほど暖かかった。

廊下の木の梁には、からくり細工の小さな時計が下がり、振り子が秒を刻むたびに、ゆったりとした音が響いている。

壁には、遠い海の向こうの港町や煙を吐く汽船を描いた新聞広告風の版画が幾つも掛けられていた。

異国の塔や石造りの建物が小さく刷り込まれ、その文明の気配が静かに宿の空気に混ざっていた。

廊下の突き当たり、格子戸の奥には「湯守ゆもりの社」と墨で記された小さな社が、ひっそりとたたずんでいた。

扉の向こうでは、眠りに沈んだ神が静かに横たわっているという。

その安らぎは、まるで長い時の流れに溶け込むかのように儚く、ユウは自然と足を止め、そっとその場に身を沈めた。

手を伸ばすことさえもためらいながら、彼の胸にぽっかりと静かな穴が開いたような気がした。


ユウは戸口で一度深呼吸をし、心を整えてから、改めて前へ進んだ。


浴場への階段を下りる足音が、自分の思うよりも大きく響いた。

浴衣の襟元は細い糸で織られ、幾度となく触れられたように柔らかく、しかしその感触が逆に幾百の記憶を揺り動かした。

熱い湯の満たされた広い木製の浴槽に身体を沈めると、温もりが骨の奥深くまで染み渡り、痛みが和らぐように思えた。

しかし、静寂の中、頭の奥には断続的な砲声が鳴り響き、機関銃の激しい連射音と、砕け散った仲間たちの叫びが波のように押し寄せる。

その響きに呼吸は乱れ、両手は震えを隠せなかった。


忘れようとしても、記憶は深く根を張り、逃れられぬ影となって心を蝕む。



「……ふぅ」

目を閉じ、湯面に揺れる自分の影を感じる。水面にはしみひとつない深い朱色の反射が映り、硫黄の匂いと温もりだけが彼を現実に引き戻した。


湯上がり、腰掛けたその場所で、肩に掛けた浴衣の袖を震える手がそっと払った。

隣の洗い場に佇む竜人は、踵を地に着けず、まるで鳥が静かに指先で立つかのように、細やかな神経を宿した趾行の足で身を支えていた。

その金色の瞳は夜の闇を切り裂く鋭さを帯び、獣の如く尖った耳はわずかな音にも反応する。

一瞬、彼の瞳がこちらを捉えたが、すぐに髪を指先で乱れを整えた。

「──初めて来られましたか?」

ユウの声はまだ掠れており、言葉は慎重に選ばれていた。


竜人は低く、しかしどこか落ち着いた声で答えた。

「あぁ、戦場より逃れ、癒しを求めてここへ来たんだ。」


その言葉の奥底に、長き戦いの疲弊と静かな決意がにじんでいた。

ユウはその瞳の奥に、誰にも見せぬ孤独の影を見つめた。


夜更け。布団に横たわるユウの耳元で、遠くから届くような声が静かに響いた。

瞼の裏に浮かんだのは、和衣をまとった青年神。白木のように清らかな衣の袖がゆるやかに揺れ、長い黒髪は夜の風を思わせるほどしなやかだった。

その黒い瞳は深く澄み、地の底から湧くような静かな力と、人を包む温かさを同時に宿している。

「ここを守れ。見届けよ」

名はまだ告げられない。

けれど、その声は、遠い昔からこの土地を見守り続けてきた者の重みを帯び、静かにユウの胸に沈んだ。

神は影のように現れ、また静かに消えていった。

ただその余韻だけが、夜気の中にほの白く溶け、長く留まっている。


言葉の奥底からは、かすかな震えが伝わった。

それは温もりを孕みながらも、抗えぬ命の響きに似ていた。

ユウは、布団の中でそっと、小さく頷いた。



翌朝──窓から射す淡い光に目覚めたユウは、ふと布団の端を見る。細かな水滴が結晶のように光り、昨夜の夢が現実に触れた証だった。

――今日もここに、誰かが救いを求めに来るだろう。

ユウはゆっくりと起き上がり、湯守の社へ向かう廊下を歩き始めた。足音はもう、最初よりは安定していた。


大きな事件は起きない。だが、湯煙と木の香りが漂うこの場所で、訪れる者たちの心は、静かにほぐれてゆくのだった。

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