大人しいという錯覚
私の家は高校からそこまで遠くなかったが、バスの配車が長かったため、私は仕方なく毎日午前5時50分頃に起きた。
春だとは信じられない3月の寒さ。
一緒に通学する友達と一番最初にクラスに行って暖房をつける。
夢うつつに霧のような幻がなくなっていく、そして友達が一人、二人入ってくる風景が鮮明になる。
それを待ちながら本を読んだり、宿題をしたり、勉強をすることが私の日常だった。
彼女はそういう私を見ながら
”おとなしいね。”とか”賢いね”とよく言ってくれた。
そういう時は”ゆめか、お前がもっと”と言い返した。
私は高校全判にかけて「大人しい」とよく言われた。
しかし私が本当に「大人しい」と感じていたのはゆめかだった。
私が選択した高校には同じ中学校から進学する友達が数人いたが、入学してはクラスがみんなバラバラになってしまった。
唯一ゆめかと一緒になって、私たちは皆がぎこちない感じがする学期の初、よくくっついていた。
ゆめかは「お利口さん」にこだわる私とは違ってそういう言葉にあまりこだわらなかった。
しかし世界で生きていくすべ、自分の心をコントロールする方法、人と付き合い方とかで私をはるかに超える「大人しさ」を身につけていた。
私はそういうゆめかに密かに憧れていた。
大人しいのは私やゆめかだけではなかった。
私が選んだ高校は学べる点が多い学生が多かった。
彼らのいいところだと感じたポイウントを真似していただけなのに、いつの間にか完全無欠な学生として扱われていた。
しかし、ゆめかの大人しさはそれをもっと超えた何かだったと思う。
しかし高校生にとって「大人しい」とはもともと時間の流れにそって自然に向き合うべき瞬間を無理やり引き寄せて向き合っているということ。
そうなるとその瞬間を「不完全」な状態で向き合うしかなく、その記憶はそのまま未来に影響を及ぼす。
例えば、親の愛を後で気づく頑是なく、天真爛漫なこころがもっと人を幸せにするかも知らない。
逆にあまりにも早く親の恩に気づき、報っていこうとしたら自然なこころが消え、強迫ができる。
私はそのパタンで大人しい私を作り、私が考える理想的なドッペルゲンガーを成功的に具現した。
その結果、社会が考える大人になる時期になった私は逆に子供のような感情を渇望するようになった。
不完全だった記憶を完全に変えたい。
その結果今の私とはしっかり向き合えなくなった。
過去に閉じ込められている。
”買ってほしいといえなかったこと”
”人と付き合うためのおこずかいがもらえなかったこと”
など私の現在を譲り、その結果不幸を招いたこと。
今の私はそれを「犠牲した」と感じるレベルに至った。
誰よりもしっかりした大人になれる潜在力を身につけていたが、むしろ逆行している私をみたら先生たちは何というか。
そして、ゆめかも。