8 彼女の役割
8 彼女の役割
夜風に囁く巨大樹の前に彼女は立っていた。
さらさらと葉を揺らす樹の周りを踊るように飛ぶ蛍たちに。
月光の下、佇んでいる彼女。
この世のものとは思えないほど幻想的なその光景はまさに先人達が描いた絵画の再現といえるだろう。
立ち入ることは憚られる。
村人たちは声もなく窓から現在進行形で巻き起こる奇跡をただじっと眺めていた。
「これは…一体」
たまたま外にいただけのオースティンとて例外ではない。
皆の心に浮かんでいる疑問は一つ。
これは本当に現実なのか。
それほどまでの非現実的な光景。
村の至る方向からやって来た黄緑色の光がゆらゆらと揺れながら彼女の元へと集まっている。
「蛍…?」
山に入れば穏やかな清流があるため生息地となっているはずだが、水辺のない村にこれほどの数羽ばたいてきたのは前例のないことで。生まれてから今まで村に住み続けているオースティンですらお目にかかったことはない。
そんな世にも珍しい自然現象が今日このタイミングで起こったとでも言うのだろうか。
月と蛍、二つの光が夜空の中で交差する。
いやきっと違う。
困惑していたオースティンだったが、すぐにその考えを跳ねのけた。
起こされたのだ、他の誰でもない彼女の手によって。
祈るように目を閉じる…オースティンの目の前にいる彼女によって。
数多の黄緑色の光がまるで運河のように彼女と巨木の元へと流れ込んでいく。
ひたすらに、美しい。
美しい景色だ。
なのに何故。
オースティンは自身の胸元をぎゅっと握った。
切ないような、寂しいような。泣いてしまいそうな気持ちになるのだろう。
だが、その答えはすぐに知れた。
数多の光の粒は次第に輝きを増し、形を変え。ある人物の姿を浮かび上がらせた。
そう、オースティン達が蛍だと思っていたものはそうではなかった。
人が呼吸を忘れ見入っている、星の音しかないこの世界で振り返った人物像は見間違えるはずもない。
「…ずっと…いたのか…?」
オースティンの息子、その人。
視線を感じたのか、はたまたそこに父親がいることを知っていたのか。わざわざ振り返った彼は口を開いたまま唖然としている父を認めると小さく笑い、頷き、悩んだ様子もなくその姿を消した。
彼だったはずの光は砕け散り、ゆらゆらと巨大樹の中へと入っていく。
止める暇もなかった。話しかけることもできなかった。
幻でも見たんじゃないかと思うほど束の間の出来事。
でも確かに息子はそこにいた。
勘違いなんかじゃない。
ずっとずっと息子の魂はここにあった。
音をたてて吹く風がこの奇跡の終わりを知らしめた。
「あとはよろしくお願いします」
彼女の横顔…小さく動く唇からは何を言ったのか聞き取ることはできなかった。
けれども、彼女が息子たちのために今、祈ってくれていること。
それだけは分かった。
夢から覚めた義娘にも。
彼女が見つけ直してくれた…ネックレスからブレスレットへ形を変えた父の形見を御守りに…母に会いにいった孫娘にも。
エンレイ村に住む全ての人間は分かったはずだ。
「役割持ち」
ふとオースティンの頭の中にその言葉が浮かんだ。
この世界には、世界の秩序を守るために役割を定められた存在がいるという。
世界が世界であり続けるために管理する。
その使命は命よりも重いとされ、いつまで経っても変わらない姿を持つ彼らは不老不死ではないかとも推測されている。
海に住まう主。山を駆け抜ける主。
だが彼らが人前に姿を現すことはほとんどない。
否、たとえ現れたとしても判別することが不可能なのだ。
役割持ちについての検討は傑物として名を残す医師アルバートの手記に残されている。
決して保存状態は良くなく抜け落ちているページも多くあったが、そこに書かれていたのは主に一人の少女のことばかりだった。
人間の魂を巡りの中へと還す任を定められた、哀れな少女。
「ミツキ」
思い出した。手記に登場した…西の国で聞き慣れないその名前は、遠い東の国に由来すると記されていた。