2 日常だったはずの日
2 日常だったはずの日
エンレイ村に客人が招かれる理由となった日を思い出すには、ひと月ほど記憶を遡る必要がある。いや、本当は思い出す必要もないほどに村長ことオースティン、村人全員の胸には深い傷となって刻み込まれているが。
それはいつもより晴天に恵まれた日のことだった。
男達はいつものように妻たちの作った愛情あふれる弁当を持ち。いつものように朝から山へと入った。エンレイ村では食料の調達は自分達で行うのが日常であり、村の周りに広がる山々がそれを可能にしていた。持ち回りの当番制。力、体力が必須となるその仕事は心身ともに成長した男たちの中で回されていた。
だが、その日出掛けた男たちは誰一人として、帰ってこなかったのである。
早朝に出かけ普段なら帰宅するはずの時間になっても姿をみせず、夜を迎えても村には戻らない。
「誰か怪我でもして動けなくなってるんじゃないか」
「それなら助けを求めに一人くらい戻って来たっていいだろう」
「ああ。それに…狼煙もあがっていない」
緊急時の連絡手段として村で定められた方法、それすらない。
一体何が起こったのか。一切の情報はなく村は混乱を極めた。夜の間は皆が落ち着かず、何の呼び声がなくとも自然と集会所に集まった。
「夜が明けたら様子を見に行くから大丈夫だ!」
その日、村に残っていた男たちは声を張り上げたが、大人達からの不穏な空気を敏感に感じ取った子供達の瞳はひどく不安げに揺れていた。
次の日。
結果として行方不明となった彼らを探し出すことは叶わなかった。
皆で行った懸命な捜索は虚しくも難航を極め、あっという間に日々は流れていく。
進展があったのは捜索を始めて二週間ほど経った時のこと。
「村長!」
悲鳴にも似た叫び声を上げた村人に呼ばれオースティンが慌てて玄関から飛び出すと。…何が起こったのかはその場に居た全員の表情が全てを物語っていた。
オースティン自身、これほど長い時間が過ぎているのだ。最悪の事態を想定していなかったわけではない。最もそのような覚悟。実際に現実を叩きつけられてしまえば何の意味も為さないのだが。
疲れているはずの体に鞭をうち、今日も山へと入ってくれた男たちが見つけ持ち帰ってきたのは、血にまみれたネックレスの破片だった。
ああ、と生まれた感情はそれだけだった。
息子の誕生日に孫がくれたのだと大切に肌身離さず、彼が持っていたはずのネックレス。それが見るも無残に引きちぎられ、血に濡れた状態で唇を噛みしめた男の手にはのっていた。
「他には?」
問いに対して、首は横に振られた。意味を悟ってしまった義娘は膝から崩れ落ち、孫はその小さな体では現実が受け入れ切れず、言葉も発さぬまま立ち尽くしていた。
ありえない話ではなかった。村中の誰もが決して口には出さなかったが、可能性は否めなかったはずだ。襲われたのか、死んでからの出来事なのか。何百年と遠い過去にも同じ事故はあった。狩る者と狩られる者。その関係が逆転してしまうことは弱肉強食の自然の掟として起こりうることだから。
葬儀はその日のうちに執り行われた。
心安らかに眠ってくれるように皆で黒い服を纏い、祈りを捧げ、数日ほど喪に服した。
痛かった。
朝起きて姿が見えず、ああもう本当にいなくなってしまったのだと痛感し。
家に帰る度、姿を探し。
全てが夢だったならと祈りながら夜眠る。
薬では癒せない心の痛み。出来ることがあるとすれば。淡々と日々を繰り返して悲しみを少しずつ過去にする。時間だけがこの痛みに効く良薬だった。
だが時間という薬が効かず、むしろ日に日に衰弱していく者がいた。
義娘はいつの日か食事を摂ることをやめ、日がな一日中部屋の中へと閉じこもるようになった。日の光を浴びることをやめ、人と関わることを拒むようになり、生きるということを放棄するようになった。
義娘は村の中でも飛びぬけて変わった生い立ちを持つ子だった。
エンレイ村で生まれた子ではなく、稀に里帰りしてくる村の外で暮らしている住人達の子でもない。
血筋は不明。
どこからかエンレイ山に迷い込み、衰弱していたところを息子が見つけ連れ帰ってきたのだ。
記憶もなく、親もなく、塞ぎがちだった少女。
過去を語りたがらず、今でもそれはオースティンの知るところではない。
笑うことも、喋ることすらせず。
まるで世界に対する絶望だけで塗られた彼女の瞳に光を与えたのは息子だった。
二人は出会ってから、ごく自然に隣に並ぶようになった。
まるで初めからそう決められていたかのように。
どこに行くにも一緒で。
「夫婦みたいねえ」と、微笑まれながらいわれた言葉は事実、その通りになった。
その頃にはすっかりと村に馴染み、幸せな表情をすることも多くなり。
だから息子が亡くなったと聞かされた時、そうなってしまったのは必然だったのかもしれない。
依存…している部分は傍から見てもあったように思う。
彼女の心の弱い部分を知っていたのは息子だけだった。彼女の心の傷を知っている息子は咎めることもしていなかった。少しずつ傷が癒されてくれるように、ただ彼女の傍にいた。
それで良かったはずだった。
何の問題もなかったはずなのに。
歯車はある日突然壊れた。
予想もしていなかった…今の自分達には何の関係もない。起こるなら遠い遠い未来の出来事だとそう思い込んでいた、死別という形によって。
このままではいけない、と。オースティンはもちろん義娘を医者にみせた。だが娘の病を治せるものはどこにもいなかった。一応は薬を処方はしてみるものの体に異常はないのだから立ち上がって動き出せばじき治ると言い放つ者。一人寂しそうにしている孫娘のためにも早く元気になりなさいと優しく諭す者。色々な者がいた。
けれどそのどちらの言葉も心病んでしまった義娘には毒にしかなっていないとオースティンは知る。
聞いてしまったのだ。
あれは義娘の部屋に夕食を届けにいった日のこと。食べないのは分かっていたがそれでも、少しだけでも胃に何か入れてくれれば、そんな希望を込めて扉を叩いた日のこと。
『一緒に連れて行ってくれればよかったのに』
珍しく布団から起き上がりぼんやりと月を眺めていた義娘が、両手を持ち上げ、胸の前で合わせ、切なげに顔を歪め、頬に涙を伝わせながら、そう呟いたのを。
あの光景がオースティンの頭から消えることはきっとこの先もないだろう。
生あるものが死を望む瞬間。
そこにあったのは計り知れない”絶望”だけだ。
やがて夫を失った娘たちを筆頭にその家族から家族へと、まるで感染していくかのようにエンレイ村には『悲しみの病』が広がり続けることになる。
為すすべないオースティン。最後の希望を込めて縋り付いたのはエンレイ村に伝わる、とある一つの伝承だった。
「かつてこの世界には【とどけびと】と呼ばれる方がおりました。赤い光の粒を携え、まるで夜の化身ともいえる風貌をしていたというそのお方は…悲しみで溢れた土地を訪れては奇跡の力を使い。皆の心に安らぎと蔓延っていた未練を鎮めたと言われております」
そう。エンレイ村の長い歴史の中で起きた悲劇的な事故はこれが初めてではない。どれほど手を尽くしても広がり続ける『悲しみの病』。健康であったはずの村人すら全てを引きずり込んでしまうその病。それが村中に広がってしまったことは過去にもあった。
そしてそれを治療する存在も。
【とどけびと様】。
村の恩人である彼女の名はそのように記録されている。




