1 旅人の彼女
忘れるはずなんてない。
忘れるわけなんかないとずっとそう思っていた。
だってこれは大切な思い出。
村の中を歩く度、星空を見上げる度、庭で採れたトマトを食べる度。
いろんな場所にあたしの…あたしたちの想いは残っていて。
それが消えるはずなんてないと。
ずっとそう思っていた。
けれどそれはただの願望で。
叶うはずのない願い。
一筋の涙が頬を伝った。
3章 巡り逢い
「…それにしても本当に迷子だなんて」
くすくすと可笑しそうに笑う人影は自身の後をついて歩く珍客に振り向きながら言った。
ソフィア・サンチェス。
首都グロリオサより帰郷中の学生であった彼女の後ろには、風変わりな服装をしたとある女の姿がある。
フード付きのケープを身に纏い、大きなトランクケースを抱えた姿はまさに旅人。
見慣れずとも美しい黒髪が彼女の神秘さを際立たせ、祈りを捧げる姿など絵画のような一枚絵。
『あなた、こんなところで何をしているの?』
そんな彼女とソフィアの出会いは単なる偶然だった。
この日ソフィアは帰郷の一番の目的であった祖母の墓参りへと向かっていた。
はらりはらりと舞い降りては積もる落ち葉たちを踏み締め、登った数百という階段の先。
小高い丘の上に静けさ、いやどちらかといえば寂しさすら感じられる墓石の前に、彼女は座っていた。
膝をつき静かに祈りを捧げているその人物に当然の如く見覚えはなく。
問われた女は祈りを捧げるため閉じていた瞼を開くと振り向いて、こう答えた。
「……迷子です」
「やだ。今思い出してもおかしいったら」
恥ずかしげもなく自分は迷子だと言い切った彼女をその場に置いていくなんてできるはずもなく、それならうちに来れば良いと案内し始めたのが数十分ほど前のこと。
降り注いでくるイチョウの葉に時折視線を奪われながら、一列に並んで二人は進んでいく。
「旅人なんて迷子とは無縁なように思ってたけど、案外そうでもないのね」
前を向いたままソフィアは言う。
久しぶりにこの辺りまで来たのだから、むかし世話になった村に行きたかった、これが彼女が迷子になった事の顛末らしい。
「なんていう村?」
「分かりません。名前という名前もついてなかった気がします」
「変ねぇ」
彼女の視線を背中に感じながら、ソフィアは首を傾げる。
「この辺りに村なんて…それこそあたしが育った村しかないわよ、でも違うんでしょう?」
彼女は沈黙する。考え込んでいるといったほうが正しいだろうか。
「…少なくともわたしの言っている村にあんな大きな壁はありませんでした」
「なら違うわね、だってあの壁がカルミア村に建設されたのなんて数百年と昔のことだもの」
彼女の足が止まる。
「…カルミア…カルミアってあの城郭都市カルミア?」
思い当たる節があったのか呟いた彼女の言葉にソフィアは怪訝な顔をした。
「ずいぶん珍しい呼び方をするのね。城郭都市、なんて」
きょとんとする彼女に対して、ソフィアは言い淀みながらも答える。
「そんな呼び方をするのは今ではもうどこぞのお偉い歴史学者くらいのものだと思うわ。…だってこの土地が城郭都市なんて呼び方をされていたのは長い歴史の中でほんの一瞬のことだもの。ほら、見て」
驚いちゃうでしょ、と言い置いてソフィアは人の背丈の何倍もあるそれを指さした。
「あんなにご立派な雰囲気を醸し出しておいて近寄ってみれば…こんなものただのハリボテよ」
吐き捨てるような物言いだった。
カルミア村。
その村を覆い隠すようにそびえ立つ高い壁は遠い昔、国の急速な成長期を支える…重要拠点を守護する目的で建設されたといわれている。
だが。
至る所に穴を開けた現在のこの壁には、既に砦としての機能はない。
時は流れ、人々は争いを止め。
資源を狙った敵が攻め込んでくる可能性すらなくなったのだから無用の産物といえばそれまでなのだが。
まるでその事実を否定するかのように、穴を塞ごうと壁に打ち付けた板は腐り、一部分を除いてはぶらぶらと宙を浮いている。
「ほらこっち」
そう言うとソフィアは何故か正門には回らず、「ここから入れるから」と、手本を示すように四つん這いになり板の下に隠されていた穴を潜り抜け始めた。
「入口は滅多なことでしか開けてもらえないの、ここに住んでいる人たちはみんな警戒心が強いというか、何というか」
膝についた土を払う。
トランクケースを先に受け取ってしゃがみこんでいる彼女に手を差し伸べる。
「それで。さっき言ったでしょう?城塞都市なんて呼び方をする人はもういないって」
「はい」
「その答えは…もう分かったでしょ?」
「…」
穴を潜り抜けた先。
顔を上げた先の景色が都市、だなんて思う人間はいないだろう。
既に使われなくなった廃屋の数々。かつては活気溢れていたであろうメイン通りは今や見る影もない。
ここカルミアは、時代から取り残された過去の遺物。
仕事は消え、人は消え、土地は消え。
残っているものがあるとすれば。
必要最低限の生活設備と。
かつての栄光を諦めきれなかった人間の子孫たちだけ。
そして。
「おい!また近くまで来てるぞ!」
その時だった。突然、敵襲の意味を持つ、空気をつんざくような笛の音色が一斉に辺りに轟いた。
活気などなく静まり返っていた村中が一気に騒がしくなる。
威嚇するように放たれた空砲の音にソフィアは思わず空いていた左手で片耳を覆った。
この音を聞くたびに、ソフィアの頭は痛くなる。
耳鳴りがして吐き気を催し、立っているのも嫌になる。
幼い頃のソフィアはこの音が嫌で嫌で、よく人の温もりを欲しては探していた。
「…マリーおばあさま…」
だがその温もりを与えてくれた人はもうこの世界のどこにもいない。
その人はもう死んだ。
最後まで彼らとの共生を訴え続けていたその人は…年老いて頭がおかしくなってしまったのだと村人たちに後ろ指をさされ続け、今はソフィア以外誰一人訪れる者がいない寂しい墓地に眠っている。
「獣だ!二匹はいる!」
かつて人間たちが自らの発展のため押し広げた土地には言われずとも住人がいた。
筋肉質かつ、しなやかな体をその長毛の中に隠し、地を蹴る四つの足から放たれるスピードは到底人間では叶わない。胸元は襟巻のような豊かな毛で覆われ、まるで高貴な服を着ているかのような優雅さと気高さも持ち合わせる。
そんな彼らとカルミアは現在、戦争状態にある。
獣たちの遠吠えに、呼応する人間たちの怒鳴り声。
「さあ、早く入って!」
ソフィアはしゃがみ込んだままになっていた彼女の手を引っ張り上げると。
それらすべてから耳を塞ぐように、急いで穴を閉じた。




