21 業火の首都、雪白の掌
グラジオラス王国。その首都、グラディウム。
溢れた資源に目をつける隣国たちに囲まれながら、一度足りとも侵略を許さなかったその場所は、一夜にして業火の海へと沈んでいった。
権力という魔物に憑りつかれた実の伯父と、その側近、および部下。燃え盛る炎と共に行われた、彼らによる強制的な権力の奪取。
齢十二の少年だったノアは、血に濡れた剣を振るう王国筆頭騎士ジルと、その背を死守する数人の騎士たちの手によって、燃え盛る運命の墓場から連れ出された。
帰る場所を失った、ただ彷徨い続けるだけの逃亡劇。
何度、絶望しただろう。
何度、己の首を絞めただろう。
会いに来てくれるのは、求めてもいない追手ばかりで。
「眠りにつくたび、夢の中で両親の亡骸が俺を呼んだ。生き残ってしまったという罪悪感が、冷たい鎖のように夜な夜な俺の心を縛りあげていった。」
巡るのは。
いっそあのまま両親と一緒に死んでいれば良かったのではないかという思いだけ。
そんなノアを叱咤し、時にその身で盾となりながら、老騎士は来る日も来る日も、血反吐を吐くような戦いを続けた。
「だが…そんな地獄のような日々でさえ、いつまでも続くはずなかったんだ」
ジルはかねてより懇意にしていたグラジオラス王国、最西の地。最後の砦ともいわれる、ヴィクトール辺境伯の元へ向かっていた。
食料、兵、信頼に足る指揮官。
反旗を翻すための最後の希望は、もうそこにしか残っていなかったからだ。首都の喧騒から切り離されていたかのように、静謐で包まれたその屋敷。
「ようやく救いの手が入る。きっと爺も、そう信じていた」
だが、その静けさは主を温かく迎え入れるものではなかった。
その静けさすらも罠だった。
静寂は、死の匂いを含んでそこにあった。
「ノア様っ!」
「え?」
背筋を氷でなぞられたような悪寒。
刹那、耳を打ったのは、人ならざる者の荒い吐息。
振り向いた視界に飛び込んできたのは、この世のものとは思えないほど歪に笑う男の顔だった。
「こいつらは一体なんなんだ…!」
屋敷は、すでに堕ちていた。
そこにいたのはかつての盟友ではなく、変わり果てた彼らの姿。燃え盛るグラディウム城に現れた者たちと同じ。
不気味な奇声を上げながら迫りくる、「人の形をした化け物」だった。
斬っても、突いても、死ぬどころか怯むことさえせず、ただ無機質に距離を詰めてくるそれ。
人間の形はしているが、とても人間とは思えない、悍ましき異形。
「…爺は、倒れた」
不意に喰らった一突きが、ジルの腹部を無残にも貫いていた。
「王子…逃げなされ!」
ドロリと、重苦しい鉄の匂いが屋敷中を満たしていく。
寄る年波はあった。
長きに渡った戦もついに終結し、あとは若き者たちに国を任せ自分は一介の老兵として、身を引こうと。
けれども運命は老騎士に戦い続けることを命じた。
そして目の前に立ちはだかるのは、痛みも感じぬ不死の化け物。
それでも、その背で守らなければならなかったのは、
「何の力も持たない、役立たずの俺だけだ」
部屋の隅でただ震えることしかできない子供。
戦うことはおろか、逃げることすらできない。
地獄と化した屋敷の中。
「その場に彼女が来なければ、きっと俺たちは死んでいた」
突如として現れた、闇に咲く花。
血の匂いと死の気配に支配されたその場所に、場違いなほどの美しさが舞い降りた。
夜を溶かしたような黒髪が、翻る外套の中から覗く。
グラジオラスの英雄と謡われたジルよりもずっと細く、小さなその背中は、死なない軍勢の猛攻を蝶のようにゆらりゆらりと、舞い踊るかのような身軽さでかわしていく。
鉄と鉄がぶつかり合う鈍い音の中、彼女は冷徹なまでの正確さで異形たちを再起不能へと追い込んでいった。
「遅かったか」
そう呟く彼女は、敵か、味方か。
「誰?」と絞り出した少年の声に薄闇を舞う蛍火が、驚いた彼女の顔を映し出した。
「子供…?大丈夫だった?」
敵ではない。かけられた言葉にこくこくと、震えながら頷く少年。
「…早く手当しないと」
そんな少年の姿を認めると、彼女はすぐに倒れ込んだまま動かなくなってしまった老騎士へと視線を向けた。迷いのない手つきでジルの傷口を確認する。
「爺は?爺は助かる?」
慌てて駆け寄った少年は、必死に彼女に向かって問いかけた。
「…傷がひどい。すぐに治療しないと」
「できるの?治せるの?」
彼女は小さく唇を噛み締めた。
「義父に一通りは習ったけど…近くにお医者さんがいるならそこまで運んだ方が…。レオ!行くよ!確かすぐ傍に村があったはず」
彼女の呼び声に応えるように、少年の背後からは大きな影が飛び出してくる。
一匹の犬が迷いのない足取りで、彼女の隣へと駆け寄った。
「止血の処置は終わったから…早く運んで……」
「駄目!」
ジルを何とか抱えようと動く彼女の腕を掴んで、ノアは思わず、大声を上げた。
「…駄目だよ」
いやいやと、引きちぎれんとばかりに首を横に振った。
爺がいなくなった今、もうこの世界に少年の味方なんていないのだ。
少年はその齢にして、数々の裏切りを知っている。
今まで笑いかけてくれていた人間が、己の首をとろうとしていること。
信じるべき人間など、もう何も分からない。
今にも泣きだしそうな少年に何かしらの事情を感じ取ったのか、彼女は少年の頭に手を乗せると囁いた。
「今できることは全部やった…ひとまずここを離れようか」
久しぶりに感じた爺以外の掌は冷たく、けれどもとても温かかった。




