26.姫君と坊主
ありがたいことに、今日は月が明るい。かなりギリギリではあるが、踏み外さない程度に獣道を進む。裏門を出てしばらく行くと沢を見つけた。ふと閃き、懐に入れてきた夜着を放り込む。
雑な偽装工作だが、これで身投げしたとでも思って、この辺りを探してくれればラッキーだ。時間稼ぎが少しでもできれば良い。
月明かりを頼りに、ざっくりとした方角を予測しつつ、御影領に向けて進む。
勿論、御影家に助けを求めるつもりは毛頭無い。
御影家とは既に縁は切れている。何より今の私は疫病神のようなものだ。逃げて来られたところで、御影家にとって大迷惑となることは、火を見るより明らかだ。
外には知り合いも無く、お金も無い私だが、一つだけ思いついた場所があった。
ただし、その場所には、一度しか行ったことがない。
それも前世で、バスに乗って。
地形も道も全く異なる戦国時代では、どの辺りの位置にあるのか、微かな前世の記憶を元に、感覚で進むしかない。
辿り着けなければ、北上家の追っ手に捕まるか、遭難して野垂れ死ぬか、野生動物かはたまた夜盗に襲われるか。
いずれにせよ死亡エンドあるのみだ。
人通りのある道には出られないので、ひたすら山沿いを歩く。
次第に東の空が白んできた。自分の向かう方角がどうやら間違っていなさそうだと確認し、北の方向、周囲より頭一つ高い山に向かって、ペースを上げた。
……つもりだったが、一晩中山道を歩き続けた足は、すっかり腫れていた。
草履もボロボロで足の裏にも血が滲んでいる。顔も腕も、自然の草木によって傷だらけだ。
目的地までどのくらい掛かるのか、ゴールが全く見えないのが、一層つらい。
沢の水で喉を潤しながら、足を引きずって気力で進む。
丸一日歩き続け、既に空腹も感じない。
またも日が沈みかけていき、絶望感が漂ってきた時だった。目の前が開け、細い石段の途中に合流した。
前世で通った時には、もっと広く歩きやすいように整備されていていたが、この石段は狭く、高さも幅もまちまちだ。
だが、歩きにくい石段を登っていくと、遂に目的地の山門を見つけた。
あまり手入れされていない古びた山門には、消えかけた字で『陽玲寺』と、確かに記されていた。
◇◇◇◇
山門をくぐり、這いつくばるように石段を登ると、ようやく本殿の前まで辿り着いた。
前世の記憶と同じく、立派な本堂に、建物がいくつかあるかなり大きなお寺だ。
ただし、境内はあまり手入れされている気配が無く、雑草が多い茂り、苔が生えている。
「ご、ごめんくださいまし。どなたかいらっしゃいませんか?」
恐る恐る呼んでみるが、反応は無い。
「ごめんくださいまし!」
気力を振り絞り、もう少し声を張る。
これ以上は動けない。ここまで来て誰もいないとか勘弁してくれという、私の切なる願いが通じたのか、寺の奥からバタバタと足音が聞こえる。
「はいはーい、どちらさま……」
出てきたのは十歳位の小坊主だった。
元気に走ってきた少年は、途中で言葉を切り、私を見て目を剥く。
私が話し出すより先に、少年は叫び声を上げた。
「ぎゃあぁぁ!物の怪ぇ!」
(物の怪?それは私のことか⁉)
ビックリして自分の姿を見下ろす。
……なるほど、着物はボロボロ、足は裸足で血まみれ、腕もおそらく顔も擦り傷だらけ。この時代の女性にあるまじき短さの髪も、埃と蜘蛛の巣まみれで白くなっている。
確かにまともな人間には見えない。山姥と言って差し支えないだろう。
涙目で後ずさる少年に、何と説明しようかと焦っていると、少年の叫びでもう一人、僧侶が現れた。
こちらは三十歳位か、槍を持ち、僧侶というより武将のような大男だった。
「何事だ、淳念」
「哲蓮さまぁ」
淳念と呼ばれた小坊主は、急いで僧の後ろに逃げる。
その大柄な僧侶は私の姿を見て、「おお⁉」と声を上げた。
「おなごではないか。何と気の毒な……。すぐに上がられよ。淳念、水桶と、手ぬぐいを持って来い」
小坊主が慌てて走っていく。
哲蓮というらしいその僧侶は、槍を置き、私を寺に入れてくれた。
濡れた手ぬぐいで顔や手足を拭い、用意してくれた小坊主用の着物に着替えると、やっと逃げられたという気持ちが湧いてきた。
哲蓮殿が待つ本堂に行くと、淳念殿が白湯を出してくれる。これまでに飲んだことが無いくらいおいしく感じた。
「さて、この陽玲寺は困った者は誰だろうと無下にはしない。娘御、安心なされよ」
哲蓮殿がおおらかに言う。
「住職様がお留守なのに、また勝手に……痛い!」
隣でぼやきかけた淳念殿だが、哲蓮殿に途中で頭を叩かれる。パチーンと、とても良い音がした。
「して娘御、名前は何と言う?」
流石に実名を言う訳にはいかない。
「えっと、名前はですね……、花と申します」
パッと出てきたのは、前世で飼っていた犬の名前だった。
……まあ可愛いから良いや。
「そうか、花殿。して、見たところ相当お若いと思うが、そのような姿になって、いったい何があったのだ?言える範囲で良いが……」
哲蓮殿は物凄く興味深々な顔で、目は輝いている。
野次馬根性という面もあるだろうが、私のことを心配しているという話も嘘ではないだろう。できる限り嘘は付きたくない。だが、本当のことを言うわけにもいかない。
必死に頭の中でストーリーを創りながら、しどろもどろに話し始める。
「私は、とある武家の娘でして、他家に嫁いだのですが、先日の戦で夫が……」
「済まぬ!もう良い。辛いことを聞いた!」
スタートした瞬間に止められた。
涙を流す哲蓮殿の顔を見てギョッとする。
「先の戦はこれまでに無く多くの犠牲が出た。そなたの夫も死んでしまったのか。それで次の縁談を拒み、出家しようとこの寺に逃げ込んできたのだな!」
凄い。夫は死んでないけど、他は大体合っている。
この、どことなく熊殿を彷彿とさせる、熱血で涙もろい僧侶は、すっかり私に同情してくれた。
「明日、住職が戻られたら私も口添えをする。安心して、ここで御夫君のご冥福を祈られよ」
死んでないけど。と言うタイミングを逃したが、取り合えず、一部屋用意してくれた。
二日ぶりの布団にくるまると、ほっとすると同時にどっと疲れが湧き、あっという間に眠りに落ちた。