18.若殿と開戦
御影泰久視点です。
馬に乗って進むたびに、腰に巻いた布袋が揺れる。
少し重みのあるそれには、鶴が今朝くれた護り石を入れている。
「ご武運を」と、大名家の姫、武士の妻らしく堂々と言い切った鶴。
だが、意志の強そうなあの瞳が、不安げに揺れていたのに気づいたのは、おそらく私だけだろう。
鶴と婚儀を上げてからは初めての戦だが、これまで何度も出陣している。
いくら臆病者、腑抜けと言われようとも、絶対に危ない橋は渡らないようにしてきたし、今回も武功より御影家の被害を抑えることを第一に考えている。
だから大丈夫だと思うが、鶴の不安そうな様子は消えなかった。
「異母兄に注意してください。絶対に信用しないでください」
出陣直前、深刻な表情で鶴は言っていた。
一応、同盟関係にあり、今、北上から御影を切り捨てる理由は無いと思うが、鶴の様子は切羽詰まっていた。
しかし、今回の総大将はその北上義春だ。
今までの戦と何か違うかもしれない、と勘が告げていた。
◇◇◇◇
着陣すると、父と共に北上軍本陣に挨拶に行く。
北上義春に会うのは、北上義泰に呼び出され、改名と、鶴との婚儀を告げられた時以来だ。
あの時義春は、「御影ごとしに、ここまでの厚遇は分不相応だ」と、当の御影の人間の目の前で、随分不満をあらわにしていた。
父である義泰に窘められ、押し黙った後も、私を睨むように見てきたことはよく覚えている。
「御影久勝よ、大儀である」
そして今日、尊大に言い放つ義春は、あの時と全く同じ、苦々しい視線でこちらを見ていた。
何かに苛立つように、手の軍配を弄び、左足を落ち着きなく揺すっている。
「早速だが、敵は竜銀山の東に陣を敷いている。我らは既に山の北を回る別動隊を出陣させており、明朝、山の南を回り、挟み撃ちにする形で一気に敵本陣を攻める。御影軍はその本体に加わるように」
単純すぎる策に唖然とする。長年に亘り、名将と名高い北上義泰と一進一退の攻防を繰り広げてきた尾谷家が、その程度の策で倒せる訳がない。
そのようなことは父も分かっている。父が「畏れながら」と発言の許可を求めた。
「竜銀山の北は、高竜川の急流となっており、挟み撃ちはそう容易い地形ではないかと存じます。南を回ると、竜銀山からの強襲の懸念も……」
「うるさい‼」
みるみる真っ赤になった義春は、軍配を投げつけてくる。
軍配は誰にも当たらず地面に落ちたが、後ろに控えた当家の家老たちが殺気立つのを感じ、後ろ手で抑えるよう指示を出す。
「どいつもこいつも、儂が総大将なのだ。黙って命に従え!」
癇癪を起した子供のような様に、これ以上何を言っても無駄だと悟る。
そういえば、義春の周りには、義泰の頃から支えていたはずの家老たちが見当たらない。
(暴走を止められず、切り捨てられたか)
予想以上に事態は悪化している。これ以上諫言することもできず、父と共に本陣を下がった。
◇◇◇◇
「殿に対して、なんという無礼な振る舞いか」
「あのような無能に付き合わされたら、全滅も免れませんぞ」
自陣に戻ると、家臣たちが耐え切れず、口々に怒り出す。寡兵とはいえ、我らとて誇りがある。私も正直腸が煮えくり返っていた。
一応、義理の兄となるはずの相手だが、残念ながら庇える要素が一つも見当たらない。
だが、既に北上軍の陣中に入っており、今、兵を退くのは容易ではない。
「父上、いかがいたしますか」
「やむをえまい。竜銀山中に草の者を放ち、尾谷の動きを警戒しつつ、戦況が危うくなったら退却する」
事ここに至っては、我らの懸念が現実のものとならぬようにと、祈るほかない。
◇◇◇◇
明朝、霧の晴れぬ中、尾谷本陣への進軍が始まる。
偵察に放ったものは未だ返らないが、途中までは敵軍の気配はない。
「きな臭いな」
父が険しい顔でつぶやく。
「ええ、あまりにも順調すぎます」
十中八九何かが仕掛けられている。馬を走らせながら、昨日地元の百姓から聞き取った地図を広げる。
「若殿は相変わらず乗馬が器用ですなあ」と又七は呑気な感想を言っている。かなり危険な戦の前だというのに、この男はいつも緊張感がない。
この先、林が続き、抜けた先には……。
「田か」
かなり広い範囲で田が広がっている。今の季節、田には水が入っている。
「まずいな。足を取られ、狙い撃ちに遭うぞ」
北上本陣は前を行っている。父がすぐに伝令を出すが、一向に返事はなく、進軍を止める様子もない。
まずぬかるんだ田で大群を足止めする。とすると、次に尾谷が打つ作戦と言えば……。
「敵襲‼」
怒鳴り声が聞こえる。軍の右手、竜銀山の山頂より、駆け下りてくる部隊が見えた。
旗印は、尾谷家。
(……完全に挟まれたか)
尾谷軍の強襲により、北上軍は一気に大混乱に陥った。