14.姫君と「鶴姫」
上も下も、左も右も分からない真っ白な空間をただ漂っていた気がする。
どれほどの時間が経ったか分からない。ふと人の気配を感じて顔を上げると、着物を着た女が立っていた。
年はまだ若く、二十歳にもなっていないだろう。
腰を越える長い黒髪を背中に流し、背丈はやや低め。
割とポテッとした形の鼻と小さめの口。普段は意志の強そうな黒目は、泣きそうに潤んでいる。
この女性のことを、私はよく知っている。
鏡に、水面にいつも映る顔。『今』の私の顔だ。
ただ、私であって私ではないと、なんとなくそう感じた。
今にも涙が零れそうな目を見つめて呼びかける。
「あなた、鶴姫様でしょ?」
彼女は何も言わない。ただ立ちつくして、こちらを見ている。
沈黙が続き、もう一度話そうかと口を開きかけた時、彼女は静かに話し始めた。
「ありがとう、あの子を助けてくれて。私は何も知らないまま、殺させてしまったから」
「えっ」
あの子とは、生まれてくる赤子のことだろうか。
私の問いかけには答えず、堰を切ったように彼女は続ける。
「お願い、あの人のことも助けて。死なせないで」
「ちょ、ちょっと待って、落ち着いて」
「あの人だけなの。私に優しくしてくれた。あの子が殺されたあとも、庇ってくれた」
お願い、死なせないで、と繰り返す彼女の周囲に、黒い煙のようなものが現れる。
「北上の異母兄上が、あの人を殺したの。許さない、絶対に許さない」
どす黒い煙はどんどん彼女を覆い隠していく。
「あの人を返して。許さない。滅べ、みんな滅んでしまえ」
呪詛を唱えるたびに、煙は大きくなる。禍々しい煙に覆われ、もはや彼女の姿は見えない。
「待って、落ち着いて、飲まれちゃ駄目‼」
私の声は届かない。
助けて、という微かな声を最後に、彼女の姿は消えていった。
◇◇◇◇
ゆっくりと意識が浮遊していく感じがする。
重い瞼を少しずつ開けると、最近見慣れてきた天井が映る。
(ここは……御影の屋敷の部屋だ……)
ガチガチに固まっている体を、少し布団の中で動かす。
衣擦れの音に、横に座っていた人が弾けたように動く。
「鶴⁉」
「……泰久様?」
出そうとした声は恐ろしく掠れ、上手く言葉になっていないが、その人は私の顔を覗き込んできた。
「気が付いたか……良かった……」
深く息を吐いた泰久様の目の下は真っ黒で、顔もいくばくかやつれている。
どのくらい時間が経ったのか分からないが、どうやら相当心配をかけてしまったらしい。申し訳なく思う一方で、心配をしてくれたことを喜んでいる自分もいた。
「姫様ぁ、良かった」と足元で鼻をすする音がする。声しか聞こえないが、間違いなく多恵だ。
そして、真っ赤に充血した目で般若のような顔をしているみつが、視界の端に映った。
泰久様の話によると、私はまたも三日間生死の境を彷徨っていたらしい。
薬師の診察を受け、水を口に含ませてもらい、再び横になる。
「ここが御影領でなければ、そなたは助からなかった」
御影家は元々、山で暮らしていた一族。特に、植物に関する知識は他国とは比べ物にならないそうで、植物性の毒物ならば解毒方法がある程度分かるらしい。
どうやら私の体はもう大丈夫だと感じて、心配から怒りにシフトしたらしい泰久様は、かなり険しい顔を向けてくる。目の隈が凄いせいで、顔の迫力が半端ない。
「なにゆえこのような無茶をした?」
「申し訳ありません」
それ以上何とも言いようがなく、卑怯だと思いつつも黙り込む。気まずい沈黙のあと、泰久様は呟くように言った。
「……私は確かに非力だ。領土も家臣も、自分たちだけの力では守り切れない」
単純に否定するのも違う気がして、泰久様の言葉を待つ。
スッと伸びてきた泰久様の手が、掛布団の上の私の手を握る。
「だが、非力な私でも、己の妻くらいは守りたい。頼むからもう少し頼ってほしい」
絞り出すような小さな声に、罪悪感が首をもたげる。こんなに優しい人を、私はこれ程苦しめてしまった。
「本当にごめんなさい」
心からのお詫びの言葉を伝える。泰久様の堅い掌が、痛いほど私の手を握り締めた。
黙って俯いていた泰久様は、しばらくすると手を離すと立ち上がった。
「我が妻に薬を誤って渡すなどという、此度の侍女の不始末は、当家としては許しがたき事なれど、北上家より遣わされている侍女ゆえ、沙汰は鶴に任せたい。これでよいか?」
「はい。ご配慮いただきましてありがとう存じます」
やはり泰久様は、全てをお見通しらしい。その上で、私の浅はかな作戦に乗り、北上家の悪しき計画を無かったことにしようとしてくれている。本当にこの乱世では、少々優しすぎる人だ。だからこそ好きなのだけど。
「もう疲れたゆえ、しばらく寝る」と不貞腐れたように言い、部屋を出ていった泰久様。
ごく微かな声だったが、出ていく寸前、なぜか「ありがとう」という呟き声が聞こえた気がする。
さて、私も少し休みたいが、怒りを通り越して無表情になってしまったみつが静かに寄ってくる。
これはとんでもなく怒られる予感しかしないが、完全なる自業自得なので、受け入れようと心に決めた。




