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初めての後悔

作者: うっかりメイ

 硬い音がひび割れたコンクリートの床を叩く。靴音の間隔はその主の落ち着いた態度を思わせる。乾いた音とともに扉が開き、午後の暖かい光が暗い玄関に差し込む。室内の構造は基本的に彼のいつもいる場所と変わりない。ため息を一つつき、ポケットからチューインガムを取り出す。徐に動かし始めた足に反して高く響く水音は忙しない。時々膨らましては弾ける音もアクセントになっている。ガムを噛むこと自体が目的であるかのようにしばらくぼんやりとしていた彼は、再びため息をついた。風紀委員の幼馴染に言われなければ、お気に入りである屋上で風に吹かれながらガムを噛んでいたはずだ。彼女は授業を受けてほしい一心で彼の習慣を禁止したのだが、そんなことは露知らず。彼は新校舎内で禁止されたのだから、この旧校舎なら大丈夫だろうという安直な判断でこの場所に足を運んだのだ。

 初めて入った校舎のエントランスは案外狭く、暗い。なんとなく居心地の悪さを感じて彼は廊下を通り、適当な教室を覗いていく。どこも長らく清掃されていないのだろう。蜘蛛の巣が貼っているか、カビが生えている。窓ガラスも所々割れて、冬は寒いだろうなという感想が漏れ出た。一階も二階も似たような構造で新校舎と変わりない。机が綺麗に並べられた空き教室もあれば、壊れた何かの残骸が転がった教室もある。三階に差し掛かった時、何か違和感があった。床に降り積もった誇りに足跡があったのだ。いつ頃のものかはわからないが、ごく最近のことだろう。誰かいないか探しながら廊下を歩き、ついにその突き当たりにたどり着く。そこは『図書館』らしい。古ぼけたネームプレートから辛うじて文字が読み取れる。本が並べられている場所の前に立つのは何年ぶりだろうか。引き戸を開け、中を覗く。

「ひっ!」

 小さく聞こえた悲鳴。中は比較的整頓されており、誰かがいるのは間違いない。本がぎっしり詰め込まれた棚の間を探すと、出口から一番遠い場所に彼女はいた。

「チッス」

 彼は普段通りの挨拶をしたが、少女は全く反応しない。開いた本を両手に固まっている。

「大丈夫か?」

 彼が近づくごとに少女は後退り、しばらく二人の距離が縮まることはなかった。しかし奥の本棚が彼女の退路を断つ。彼は訳もなく避けられていることに苛立ちを感じたが、本棚が揺れていることに気がつき、慌てて駆け寄る。彼女の頭越しに手を伸ばし、支える。本が数冊落ちてきたが、二人に当たってはいないようだ。

「大丈夫か?」

「は、はい……あ、ありがとう、ございます」

 消え入るような声だが、今度は答えてくれた。本棚を元に戻す。彼女は如月紗奈というらしい。クラスが同じとのことだが、彼は入学してから数えるほどしか行っていないので全く知らなかった。

「なんでこんなとこにいんの?」

「本を読むためです」

 そのままの返事が返ってきた。苛立つ感情を抑えて彼は質問を重ねる。

「そういうことじゃなくてさ。新校舎にも図書館あるのになんでここにきたの、って話」

「た、高城君はなんでここにきたんですか?」

「ガム噛むため」

 ものすごく怪訝そうな表情の彼女に彼は舌打ちをして幼馴染に言われたことを付け加える。

「注意されたから、ですか。私も似たようなものです」

「意味わかんねーよ」

 僅かに肩を震わせた彼女を気にすることなく、本棚に近寄る。彼はそこから無造作に一冊取り出し、開いてみる。古臭い匂いが鼻をつく。

「ここじゃないと見れない本でもあんのか?」

 生まれてこのかた、ほとんど読んだことのない本を覗き込んだ。文字がびっしりと並んでおり、少し頭がふらついた。

「ちょっと古い本がたくさんあるんです。新校舎にない本があって楽しいです」

 本のことはわからないが、彼女が読書を好きだということはわかった。そんなものかね、と彼は呟いて適当な本を取り出して開く。それは優しい感じの小説だった。

「それは海外の長編の小説です。小さい子から大人まで読んでいます。慣れてない人が読むのにぴったりだと思います」

「オレが読むのか? これを?」

「では何をしにきたんですか? ここはガムを噛むための場所ではありませんよ」

 彼女の有無を言わせない迫力を前に彼は仕方なく本を開いて読み始める。文章の内容は彼女の言った通り、わかりやすい。文字の大きさも少し大きめだ。とある少女が相棒のイタチと冒険をするというストーリーだ。

 気がつけば17時を回っていた。チャイムが遠くから聞こえ、オレンジ色の光線が彼らの空間を満たす。気にせず読み進める高城をよそに如月は本を戻して図書館を出ようとする。

「もう帰んのか?」

 彼女は、10分後に終礼がありますから、と微かな声でつぶやいて廊下へと消えていった。

「オレもそろそろ帰るか」

 そう言いつつも、彼は日が落ちるまでそこから離れることはなかった。


「如月さんに会った? どこで?」

 街灯が照らす道の途中、幼馴染の本庄京香が素っ頓狂な声をあげる。いつもは授業に出なかったことに対して二、三言怒られることから会話が始まる。しかし彼が今日出会った女子生徒の名前を出すと予想だにしない反応が返ってきたのだった。

「旧校舎の図書館」

「へえ。ショウちゃんそんなとこに行ってたの」

「その呼び方やめろ」

 彼の最大限の抵抗も虚しく、彼女は話を続ける。

「彼女レアキャラなんだよね。授業日数足りてるか心配だし、保健室登校だから多分そういうことなんだろうけど」

「ああ、なるほど」

 高校という青春真っ只中の時期を謳歌する彼らの中で、クラス内の人間関係から完全に弾き出され、教室に出てこない生徒はいる。数は一人いるかいないかくらいだが、彼らにとってあそこは学校での最後の砦なのだろう。しかしそこを抜け出してまで彼女はあの場所にいた。なぜだろうか。図書館から持ってきた本を眺める。街灯の青白い光に照らされて、所々目立つシミからは何も読み取れない。


 翌日も彼は図書館に行った。彼女は相変わらず嫌そうな顔をしていたが、彼は何食わぬ顔でガムを噛みながら本のページを捲る。

 翌日も、その翌日も彼は旧校舎へ足を運んだ。彼女もいつの間にか彼がそこにいることが当然のように振る舞い、会話も多くなっていった。

「新校舎の図書館は行かないんですか?」

 彼女の言葉はただの疑問だったのか、それとも何か別の思いがあったのだろうか。彼は気にせず、

「この前行ったんだけど、上級生に絡まれてさ。あまりにメンドかったから、殴ったら出禁食らった」

 彼女の表情が曇った。不意に本棚の奥へと姿を隠し、一冊の本を手に戻ってきた。

「これは?」

「とある政治家の自伝です。これを読み終わったら二度とこないでください」

 彼女が怒っていることを不思議に思いつつも、彼は目を通してみる。彼は幕末から明治時代に生きた法曹界の重鎮であり、暴力が行き交う日本の転換期に生きた人物であった。彼は自分の犯した罪を生涯考え続け、最後までそれに向き合った。彼が貫き通した美学とは非暴力であり、対話の徹底であった。

 彼が本を読み終え、旧校舎に足を運んだ時、季節は夏を終え、秋を迎えようとしていた。彼女は相変わらず嫌そうな表情で彼を出迎えた。

「これ、読んだぞ」

「私の言葉を忘れたのですか?」

「そういう訳じゃねえけどちょっとは考えた」

 彼の言葉に彼女は目を細める。何かを見極めようとする感情が見え隠れする。

「要するにちゃんと相手の話を聞けってことだろ?」

 彼女は薄く笑った。

「ものすごく大雑把な理解ですが、大体そのようなものです。正直な所、もう二度とこないと思っていました」

 そういうと彼女は罰が悪そうに俯き、

「私も高城くんに酷いことをしました。私にあなたの行き先を指定する権利など持ち合わせていないことに気づいていなかったのです」

 申し訳ございません、と微かだがはっきりとした声で言った。彼は特段自分が悪いとは思っていなかったが、彼女なりに考えた結果を大事にしようと考えた。

 陽が傾くまで彼と彼女は読書と会話を交互に楽しんだ。

 彼らは登校から下校まで一緒にいる時間が多くなった。昼休みや下校時には本庄が加わることも多かった。活発な幼馴染と物静かな少女は正反対に見えて、どこか意気投合するものがあったのかもしれない。二人とも楽しそうに会話していた。放課後に三人で出かけることもあった。高城の当初の目的であるガムを噛むことを彼自身が忘れることもあった。


 そして、冬の足音が近づく頃、彼は旧校舎の道すがら、とある男に出会った。いつの日か図書館で殴った男だ。どことなくそわそわしており、そのくせ彼の姿を目にするとすぐに目を逸らした。なんとなく嫌な予感がした。

 図書館の扉を開けると嫌な予感は的中していた。床に倒れた彼女、異様に乱れた衣服。それを取り囲む二、三人の男。彼は頭に血が昇るのを感じた。足は無意識のままに踏み出し、喉から出た声の大きさに体が呼応する。彼女はその光景を見ていたのだろうか。その時はそんなことを考える暇もなかった。彼の怒りはそれでは収まらず、三年生の教室に乗り込み、男を探した。彼はその奇襲を全く予想していなかったらしく、驚きに目を見開いて頬に拳を受け入れた。


「出ていってください」

 彼女の冷ややかな声が扉越しに聞こえる。静まり返った彼女の家の中で彼の鼻息だけが荒々しく聞こえた。

「もう一度言います。出ていってください。そして私の目の前に現れないでください」

「すまねえ」

 彼の謝罪に耳を貸すことなく、彼女は、出ていってください、とだけ言った。明らかな拒絶の言葉を前に彼は何も言わず、踵を返した。居間で青あざを作って倒れている彼女の父親の周りには大小様々な大きさの酒瓶が転がっていた。なんとなく、彼女が暴力を極端に嫌う理由がわかった気がした。この日、初めて彼は罪を償おうと思い、交番に出向いた。

 誰が話し合い、どういう経緯でそうなったのか。それは分からないが、彼は数ヶ月の停学処分を受けた。本庄が頻繁に彼の元を訪ねたが、如月はついに最終日まで来なかった。本庄も彼女の動向はわからないのか、訪ねても返答ははっきりとしなかった。停学明け最終日、母と本庄と夕飯の食卓を囲んでいる中、彼は宣言した。

「オレは大学に行く」

 そのために彼は本庄に人生で初めて勉強を教えて欲しいと言った。母は泣いていた。彼女は笑顔を浮かべていたが、自分が泣いていることに気がついていないようだった。冬が終わり、春がすぐそこまで迫っていた。

 翌年の春、彼は本庄と一緒の大学に進学。そして付き合った。幼馴染との付き合いの変化を感じる中、如月のことを思い出す時がしばしばあった。あの日の彼女の冷ややかな返事を思い出し、その度に心臓が掴まれるような感覚が蘇る。それだけではない。本庄が一度だけ見せた涙を浮かべた笑顔にも似たようなものを感じる。彼女に手を引かれ、幸福に浸る一瞬のうちにもそれらは曖昧な冷たさを残して記憶の奥底に沈んでいく。

 もしかしたらこれが一生抱える自信の罪なのかもしれない。彼女の言葉に反応する心の片隅で、微かに誰かが囁く。

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[良い点] 三題噺で小説を書くのはすごいと思いました 図書室の行では訳ありの2人が彼女とだんだん仲良くなっていく感じで倒れてしまったところは少しわからなかったですが殴ってしまったせいで彼女をきづつけて…
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