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ひとつわかっている事は、このままここにいれば確実に第2王子殿下に囲われてしまうこと。それだけは絶対に避けたい。もう二度と触れられたくなかった。
そう思ったら、逃げ出す事しか思いつかなかった。
ぐしゃぐしゃに投げだされたドレスを身にまとい髪を簡単にまとめて、自分の痕跡を残さない様にアクセサリーから髪飾りまで細かい装飾が落ちていないか注意深く探し、窓から逃げた。
この姿で屋敷内を歩くのはハイリスクすぎるし、身を潜めやすい薄暗い庭の方がマシだと思ったから。誰にも見咎められず、侯爵家から逃げるにはどうしたら良いのか。
ふと、親友が今夜は婚家のタウンハウスに帰ると言っていたのを思い出した。もしかしたら親友も王子殿下に属しているかもしれない。見つかって差し出される可能性もある、それでも親友に賭けてみる事にした。
こっそりと辺境伯の紋章が施された馬車に隠れ乗り、隅の暗がりで小さくなって誰にも見つからないよう、静かに息を殺して動き出すのを待つ。
どれくらい待っただろう。
体の節々が痛むし、気持ち悪くて仕方ない。普通の令嬢よりは野太くても流石に神経が擦り切れそうにだった。
早く。
早く、ここからいなくなりたい。
ジリジリ焦る心をなだめて祈るように待ち続けていると、静かに馬車が動き始めた。
一旦止まり、軽やかな声とともに扉が開く。柔らかな灯りを背に先ほど別れたばかりの親友が現れた。
光り輝く美しい淑女、それに比べて自分は惨めに穢されてまるで娼婦の様だと泣きたくなった。そうだとしても泣くのはまだ早い。今はただ自分が出来る精一杯の事をするしかないのだから。
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「私、賭けに勝ちましたの。謀のことを辺境伯夫人は何一つ知りませんでした。私の身に起きたこと、ご自身も利用されていたこと、自分の身内のあざとさにかなり憤慨されてました。まあ色々ありまして、身も心も傷ついた私を、旦那様にも内緒で自領まで連れ帰ってくれて。ああ、私を穢した相手が誰だったのか辺境伯夫人には話しておりません。相手が自分の兄ではない事は薄々気がついているとは思いますけれど、多くを知らない方がいいこともありますもの。」
私の独白はこれでおしまい。
信じるも信じないも彼ら次第。
婚約者に売られた可哀想な女。
堕落した女。
穢れた女。
社交界に知られたら、大きな醜聞だ。
4年も見つからなかったのが奇跡なのかもしれない。
それにしても話したくない事を話すのは、とても疲れる。思い出したくないアレコレが振り帰って、気分も悪い。
「なんで家に助けを求めない!」
うめく様に吐き出したのはお兄様だ。
冷静を装ってはいるけれど、握られた拳は震えている。
「……家に助けを求めて?それでどうなりますの?そうですね・・・、最初は恥知らずとけなされて除名処分ですか?それで相手が王子殿下だとわかれば嬉々として王家に押し付けるはずです。逆に良くやったなんて褒められたら、私は死んでしまいたくなったかもしれませんわね。」
口元を歪めて笑う。
あり得ない話ではない。政略の相手が侯爵家から王家に変わるだけの話だ。お兄様だって賛同してもおかしくない。家名を守る為に醜聞になる前に押し付けていたはず。
それに、たかが伯爵如きが王家に逆らえるはずがないのだ。寄越せと言われたら差し出すしかない。
悲しいがそれが現実た。
「あの後、王子殿下と私が同衾しているのが発覚して、、まぁ侯爵家では内々に済まそうとするでしょうね。何故か招待もしていない第2王子殿下が自分の屋敷で、息子の婚約者を手篭めにしたなんて口が裂けても公にできませんもの。侯爵家の落ち度としての婚約解消、それから第2王子殿下の側妃として早急に後宮に召し上がる、そんな計画だったのでしょう。」
重く息を吐いて、窓の外に広がる暗闇を見つめる。こんな凡庸な娘位どうとでもなると思っていたのだろう。くだらない、本当にくだらない話だ。
「…リオンの詰めが甘かったという事だな。手に入れたと思い込んで、安心してしまうなど呆れたものだ。しかも命を取られてもおかしくない状況下で寝込んでしまうとは、迂闊すぎる。」
上を見上げて硬く目を瞑っていた閣下も大きく息を吐く。
「カロリーナ嬢、貴方は本当に側妃になりたくなかったのだな。」
「私は自分を知っておりますから、王家には相応しくないと思いますの。それでも望まれるならーー順を追って頂ければ吝かでもありませんでした。たかが伯爵の娘ですもの、どうとでもなりましたでしょうに。」
私の婚約を破棄させてから愛を唱え、お父様に申し入れていたら、形式上は何の問題もなかったはずだ。周りからの好奇心、嫉み、妬みは仕方ないとしても貴族の娘として政略結婚は当たり前の事。好き嫌いで結婚相手を選べるなんて思っていないから。ひと時の寵愛の後に後宮の片隅に追いやられたとしても、義務は果たしていたはず。
けれども、殿下は力尽くですべてを押し通そうとした。私の立場など鑑みもせず、自分の欲望のみに従った。それでは私が不貞を働いた娼婦の様な女に成り下がる。
下々にもプライドはある。
それを王子殿下はわかっていない。
「貴女の言い分は理解した。話を聞いて私が提示出来る案は2つ。1つ目は、リオンの妃になること。2つ目は………私の妻になることだ。あの子がいる以上、放逐する事は出来ない。リオンの子として育てるか、私の子として育ってるかどちらかを選べ。」
閣下の命令の様な提案に言葉が詰まる。どちらも選びたくない。
結婚なんてしたくない。
リーは私だけの子で、私が育てると誓ったのに。
ギュッと握った両手が小刻み震える。
「因みに君が海に飛び込むも却下だ。飛び込んだとしても、私が必ず救い出す。」
ここは海の上で。
どこにも逃げ場がない。
ああ、なんで陸路を選ばなかったのか。
この人に出会わなければまだ逃げ場はあったのに。
ぼんやりと物思いふけってしまった私の脇に閣下が膝を立て、震える私の手に触れた。
ぶるりと違う震えが走る。
低い所から覗き込む金の瞳はあの時のギラギラした光ではなく、誠意と理性と少しの憐れみが浮かんでいた。
「カロリーナ嬢、私の甥が貴女にした事を申し訳なく思う。貴女の尊厳も意思も何もかも踏みにじり、更に酷を強いる羽目になった。きっと甥とは会いたくもないだろう。ならば私と生きる道を考えてはくれないだろうか。幸い、私は独身で結婚する予定もなかった。私なら、誰からも貴女とあの子を守る事が出来る。……船を降りるまで良く考えて返事をして欲しい。……申し訳なく思うが、許せ。」
手の甲に紳士的なキスを落として部屋を去った。
後ろ姿を見送りながら、兄妹揃ってフリーズしていた。
謝罪とプロポーズなの?
会ったばかりの私に?
王族ではあるが全く関係のない閣下が?
キスが落とされた手は、あかぎれと肌荒れがひどく、貴族の子女のモノではない。それを恥ずかしいと思った事はないけれど、そこに閣下ーー王弟殿下がキスするなどあってはならないのではないだろうか。
「お兄様、私はどうしたら……」
「お前が選べば良い。ーーーー俺は、俺にはお前を逃してやる事も、守ってやる事もできやしないんだ。」
ソファの隣にドサっと腰をかけて、手を握られた。荒れた手を優しく撫でてくれる。
「ーー4年も苦労しただろう?もっと早くに見つけていればーーーー」
「お兄様、それ以上は言っていけません。この4年、誰が味方なのか全くわからなかったのです。唯一は辺境伯夫人だけでした。でもそれが今日2人増えました。とても心強く思います。私を探してくださってありがとう。」
泣き笑いでお兄様に感謝する。
閣下にも感謝を申し上げたほうが良いのかしら。1つしかなかった選択を、自分を犠牲にしてもう1つ増やしてくれたのだから。